旧甲州街道へブロンプトンをつれて 3.上高井戸宿から4.国領宿へ(その3)千歳烏山~つつじが丘 | 旅はブロンプトンをつれて

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(西烏山バス停)

旧甲州街道を千歳烏山駅入口交差点から西へ向かいます。
180m先の烏山総合支所信号の先右側が、世田谷区の烏山総合支所。
世田谷区役所は環七の若林の西、松陰神社の裏手にありますが、ここ千歳烏山は広い世田谷区の中でも北西端にあたるので、このように支所が設けられています。
広い世田谷区と申しましたが、東京23区の中で面積の広さは第2位です。(2021年4月時点で58.05㎢)
では世田谷区より面積の広い第1位の区はどこでしょう?
練馬区、それとも足立区?
正解は大田区です。(2021年4月現在61.86㎢)
実は1992年までは世田谷区が1位だったのですが、埋立地がどんどん広くなっていって羽田空港沖合埋め立て工事が完了した時点で抜かれて大田区が第1位となりました。
ちなみに東京都で最も広い面積を有する市区町村は、奥多摩町の225.53㎢です。
ランキングはそのあとも八王子市、桧原村と続き、20位までのうち島嶼部を除く13の市町村が三多摩地区で占められているので、この前書いた明治の「三多摩併合」が神奈川県にとっていかにショッキングだったかがわかります。

(中川暗渠脇の石仏群)


世田谷区についてですが、面積は大田区に抜かれても埋立地に住人が増えているわけではないので、人口の多さは東京都の市区町村ランキングで2位の練馬区に17万7千人以上の差をつけてダントツのトップです。(2022年1月時点で916,208人)
徳富蘆花が引っ越してきた頃とは隔世の感があります。
世田谷は今でこそ高級住宅地の代名詞になっていますが、もとは畑ばかりで東京中心部へ野菜を供給していたといいますから、昔から住んでいる人にとっては「あの頃が懐かしい」となるのでしょう。
ところが人口の増減率でみるとトップの中央区(2020-2022推移で1.94%全国12位)や第2位の台東区(同13位)に比べて19位の-0.56%(同114位)と振るいません。
これは、高層マンションがバンバン建っているかどうかの違いで、長いスパンでみれば、こうした高層住宅が建て替えを迎えるようになったときにどうなっているか、日本の人口動態から考えてみるとマイナスイメージが付きまとうので、人口増加が低いままのほうが環境は良い状態が続くのかもしれません。
ウィルスによるパンデミックもありましたし、人が大勢集まれば経済効果もよいという時代は、もう終焉しているのかもしれません。

(給田3丁目信号)

(千手観音堂)
そんなことを考えながら旧甲州街道を進むと、道はゆるやかに左へとカーブしながらわずかに下り、烏山総合支所信号から200mさきの西烏山バス停付近で暗渠と交差します。
これが、烏山川支流の中川で、ここまでは目黒川水系の谷間です。
このまま中川の遊歩道を上流方向へとたどると、中央自動車道を越えて三鷹台団地の先、三鷹市牟礼2丁目付近までゆくことができますし、下流方向は千歳烏山駅の西端で京王線を横切り、粕谷図書館の前と芦花公園の南に沿って下り、千歳台の交差点で環八を横切って、船橋7丁目にある希望丘公園あたりで烏山川本流に合わさります。
いずれにしても、半蔵門からここまで横切った谷というのは、武蔵野台地にわずかに刻まれた凹みなので、谷間というほどでもありません。
ここ甲州街道との交点の右わきには、お地蔵さんをはじめ小さな石仏が並んでいますが、昔はここに小さな橋が架かっていたのかもしれません。
さらにすすんで340mゆくと、給田町(きゅうでんちょう)という名前の付いた信号を通過します。
このあたりの地名を「給田」といい、この地名は中世の荘園領主が荘官や地頭など下級役人に対して職務給として給与した田のことをいうそうです。
これに対して横浜市の南にある「公田」(くでん)という地名は、律令時代に民衆に(一代限りという条件で)分け与えられた口分田の余剰地を指すそうです。
同じ田んぼにもいろいろあったようです。

(仙川に向っての下り坂)

(大川橋から仙川を望む)
給田町の信号から100m先の左側に甲州街道新一里塚の石柱と案内板があります。
なぜ「新」なのかというと、江戸後期になって内藤新宿を起点として建てられたもので、ここは3里目ということです。
さらに240m進んだ給田3丁目信号の次の路地を左折して70mほど南に進むと、京王線の線路を望む南斜面の上にたつ(普門院)千手観音堂が右手に現れます。
このお堂はもとは徳川家ゆかりの息女の庵室だったといいますが、正確なことはわかりません。
千手観音像とは別に、昭和32年に土中より出てきた釈迦如来像、釈尊十大弟子のひとり阿難陀、日蓮の立像で(いずれも陶製)がお祀りされていました。
後者の3体は室町時代の作と推定されていて、当時陶器はほとんど茶器に用いられていたため、陶仏は製作技術の点からみても珍しいのだそうです。
なお、観音さまのほうは盗難にあって、今は絵が掛けられているそうです。
みたことろ、お寺の境内にあるわけではないので、こういうお堂には窃盗犯が目をつけるのかもしれません。
そんなものを盗んでお金に換えたところで、それで何をしようというのでしょう。
敷地は線路まで続いているため、下を行き来する京王線の車窓からもこの観音堂はよく見えるのではないかと思います。

(仙川三差路)

(天台宗昌翁寺)
路地を戻って甲州街道にでて、坂を下ってゆくと給田3丁目信号から200m先の大川橋で仙川を渡ります。
仙川は、二子玉川の少し上流部で多摩川にそそぐ野川の支流で一級河川です。
上流方は武蔵境駅の東側で中央線を越え、武蔵小金井駅の北、東京学芸大学のキャンパス付近が源流となり、下流方は祖師谷公園、成城学園を流れて砧浄水場の北で野川に注ぎます。
仙川は川の流れこそそれほど太くはないものの、多摩川水系というところにこれまで旧甲州街道で渡ってきた小さな川との違いが際立っています。
そして仙川を渡るということは、荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地の上を、旧甲州街道が江戸城の半蔵門から上高井戸宿手前まで、ずっと尾根筋を辿ってきた(目黒川水系は、立会川や呑川などとともに、荒川(神田川も含む)・多摩川両水系には属さず直接江戸湾に注ぐ特異な川)のに対し、環八を越えたあたりから、やや台地の中央から南寄りに進路を変え、多摩川の谷に向かって段丘を下り始めているということを証明しています。
というのも、関東平野を西進した旧甲州街道が最初に越える小仏峠は、多摩川水系の浅川の上流に位置し、そこを越えるためには多摩川に沿って遡上してゆく形になるからです。
ちなみに、荒川水系と多摩川水系の境を忠実にたどるとすると、山間部は青梅駅の背後にある青梅鉄道公園を起点に、青梅丘陵ハイキングコースを経由して、高水三山、棒ノ嶺、蕎麦粒山、天目山、酉谷山、芽ノ木ドッケを経由して雲取山へと至る尾根をトレースすることになり、さらに西へ飛龍山、笠取山、雁坂峠を結ぶ稜線を西へ向かい、甲武信ケ岳まで至れば、日本の大分水嶺(太平洋側と日本海側を隔てる尾根)に接続することになります。
このように、山と川、尾根と谷を結んで地形を想像することが、海沿いを進む東海道にはない、山越えをしてゆく旧甲州街道の楽しみではないかと思います。

(日本橋から20㎞ポストと蔵)

(仙川2丁目交差点)
仙川を渡ると旧街道は登りにかかり、200m先の仙川三差路信号で、国道20号線と合流します。
ここで東京都区部はおしまい。
世田谷区から調布市に入ります。
仙川三差路信号から150m先の右側にあるのが、深大寺の末寺、天台宗の昌翁寺です。
仙川領主だった飯高貞政の菩提寺で、彼は徳川家康に帰属したことで戦功をあげて、この一帯に領地を与えられました。
本尊の阿弥陀如来像のほか、調布七福神を祀っています。
さらに130m先の仙川駅入口交差点を左折すれば京王線の仙川駅ですが、掘割の下なので線路をまたぐ橋までゆかないと見えません。
さらに国道の150m先にある信号を左折して桐朋学園の敷地を左に見ながら800m南下すると、実篤公園の前に出ます。
ここは武者小路実篤が晩年の20年間を過ごした邸宅跡で、自宅がそのまま調布市武者小路実篤記念館として公開されています。
中学生の時「友情」は読みましたし、たしかレフ・トルストイの伝記も書いていた記憶があるのですが、この作家の文章って印象に残っていません。
今考えるとおそらくは、思想・宗教的背景が感じられないのが原因じゃなかったかと思います。
たしか日露戦争にももろ手をあげて賛成していたのですよね。
なお、実篤公園は野川の支流入間川の左岸段丘斜面にあり、上と下とではけっこうな高低差があります。(13mくらい)
公園口を前にすると、園内はもちろんのこと、園の外周に沿う左右の道もその先で急な下り坂で落ち込んでいて、うっかり下ってしまうと戻るのに苦労します。

(滝坂旧道への分岐と馬宿跡の碑)
さて、旧甲州街道に戻って西へ向かいます。
仙川駅入口交差点から260m先の左側は、キューピーマヨネーズの工場跡地に建てられた同社研究所のキューポートがあり、入口にはキューピー人形が動く時計台があります。
中には完全予約制のマヨテラスと呼ばれる見学施設があり、マヨネーズ好き(マヨラー)の方は必見ではないでしょうか。
ただ、マヨネーズの大量摂取は体に毒といいますから、注意してください。
かくいう私も若い時に一度はまりかけてこのまま続けると危ない状況になったことがあります。
キューポートの入口から110mさきの仙川2丁目交差点で国道を進行方向左手から右手へと横断しましょう。
すぐ先で右手へと分岐する、滝坂と呼ばれる旧道が残っています。
この下り坂はさきほどの実篤公園下に流れていた入間川に向って下っています。
皇居のお濠端を桜田門から半蔵門に向って登って以来のわりと急な坂です。
というのも、甲州街道はこの地点で国分寺崖線(多摩川が武蔵野台地を侵食することによって生じた、立川市から大田区まで30㎞あまりにわたって続く崖の連なり)上下しているからです。

(薬師如来像)

(滝坂)
滝坂の手前仙川2丁目交差点で東から交差してきた道は、東急世田谷線の宮の坂駅付近からここまで続く、滝坂道という世田谷の古道で、滝坂の上部には馬宿と呼ばれた傳馬制における馬の交換施設がありました。
そして、坂の上部左手には1830年に建立されたとされる薬師如来座像が祀られています。
薬師如来は衆生の病気を治して寿命を伸ばし、衣食を満たして無上菩提の妙果を証ししようと誓った仏さまで、右手は施無畏印といって手をあげて手のひらを前に向け、左手で薬壺(やっこ)と呼ばれる薬瓶を持っているのが特徴です。
街道筋でお薬師さまはけっこう珍しいのですが、古くは(滝沢道とは別に)この場所で鎌倉街道が東から接続していたといいますし、この旧道脇に新道が設けられたのは、明治になって狩りや釣りに多摩方面に行幸した明治天皇が、この場所で落馬しかけたからだといいますから、東海道の権太坂同様の難所だったのでしょう。
つまり、今も石仏脇に幟が立っている通り、この薬師如来は道中(交通)安全を願ってのことでしょう。
滝坂の旧道は坂を下って280m先で国道20号線と合流します。
合流点から40m先の道路お向かいに庚申塔があるのですが、そこでは国道を渡れないのでさらに80m先の滝坂下交差点までゆきます。
次回はこの滝坂下交差点から続けたいと思います。

(滝坂下の国道合流点)