『みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。』 | 旅はブロンプトンをつれて

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のっけからセンセーショナルな見出しでごめんなさい。
先月のミサにおける福音書朗読で読まれた有名な文言です。(マタイによる福音書5章28節)
この前に、「しかし、わたしは言っておく。」がついています。
福音書におけるイエス・キリストの発言において、「よくよくあなたがたに言っておく」とか、「よく聞きなさい。」など釘をさすような表現が頭についている場合、うしろに来るのはたいがい厳しいことばです。
いわゆる「汝姦淫するなかれ」という箇所です。
今日は上記のことばについて、(ちょっと怖いのですが)色々考えたことを書いてみようと思います。
なお、明治の(男性の)文豪たちは、この文言におそれをなしてキリスト教への入信を諦めたときいたことがあります(笑)
なにせお妾さんとかお二号さんが珍しくない時代ですし、私小説として略奪婚を描いたお札になっている文豪もいらしましたから、そこへこのことばはきびしいでしょう。
しかし、この聖句は訳によってかなり違いがあります。
大雑把にいうと、前段において性的な目で見る対象が、「他人の妻」の場合と「女」すなわち女性全般の場合に分かれてしまうのです。
次に各訳をあげてみました。


「しかしわたしはあなた達に言う、情欲をもって人妻を見る者は皆、(見ただけで)すでに心の中でその女を姦淫したのである。」(岩波文庫訳)
このように、新共同訳と岩波文庫訳だけが「他人の妻」「人妻」という表現です。
それ以外は、
「しかし、わたしは言っておくが、みだらな思いで女を見るものはだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。」(共同訳)
「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲を抱いて女を見る者はその女に対し、心の中ですでに姦通の罪を犯したことになる。」(フランシスコ会訳)
「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(新改訳)
「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである。」(口語訳)
「されど我は汝らに告ぐ。すべて色情を抱きて女見るものは、既に心のうちに姦淫したるなり」(文語訳)
というように、ただの「女」という表現です。
どうも「他人妻」という訳語は分が悪い気がします。


こうなってくると、翻訳オタクの血が騒いできました。
英語はどうなっているのでしょうか。
“But I say to you, everyone who looks at a woman with lust has already committed adultery with her in his heart.”(NAB:米カトリックによる翻訳)
“But I say to you that everyone who looks at a woman with lustful intent has already committed adultery with her in his heart.”(ESV:改訂標準訳=日本でいう共同訳の最新版)
“But I say to you that everyone who looks at a woman with lust has already committed adultery with her in his heart.”(NRSV:新改訂標準訳=日本でいう新共同訳)
皆“a woman”だから女性全般を指しています。
ええい、大元のギリシャ語は“γυναῖκα”ですから、やはり一般的にいう「女性」です。
おそらく「他人の妻」というのは、その直前にある「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。」(5章27節)を引いてのことでしょう。
モーセの十戒に「姦淫してはならない」とありますし、ヨハネによる福音書の8章にもあるように、当時の律法において配偶者のある男女による姦通罪は死刑でした。


なぜ「他人の妻」か「女性全般」かでそんなにむきになるのかというと、「男性目線で考えたら」の話ではありますが、後者だと字義通りにとったら通りがかりの女性に対し「あの人はちょっと色っぽいな」とか、女の子に対し、「最近妙に大人びてきたな」感じることから、エディプス・コンプレックス(男の子は母親をめぐって父親と争うというフロイトが提唱した考え)まで、すべて姦淫を犯したことに拡大解釈できてしまいます。
そんな風に言われたら、男は「見ざる、言わざる、聞かざる」に徹するか、性欲を滅すべく仙人修行の道に入るか、意識を切る(=死ぬ)しかありません。
もちろん、聖書のこの部分で大切なことは「人妻か女か」ではないことはよく承知しています。
これはイエスが律法を「自分は不倫などしていないから」と金科玉条の如く守っていることを自慢し、それを守れない人たちに対し蔑み虐げる律法学者やファリサイ派の人たちをたしなめるために、「あなたたちは律法を守っていると正義を振りかざすけれど、心の中で女性を性的に見ているのなら、それは実際に姦淫していることと同じことではないではないか」と喩えとして出してるわけで、「見る対象がどこまでの範囲か」は問題の核心ではないのです。
だから、上記の箇所を読んで「ああよかった、私は女だから姦淫の罪をまぬがれている」と安心するのも早とちりです。
喩えとして性的な意味かどうかが問題ではないわけですから、「ロマンス嗜癖」とか「ラブ・アディクト」(いわゆる恋愛依存症のこと)という言葉があるように、「あの男性に少し惹かれるな」と僅かに思っただけで、「それは自己都合で相手を恋愛対象として実際に利用したも同然である」なんて言われたら、女性からしたら大いに心外でしょう。
でも、そういう話をイエスは例として出してきて、人間の高慢さを戒めているのだと私は思っています。


それにしても、聖書のこの文言によって「キリスト教は性欲や性的快楽を頭から否定している」と考える日本人が増えてしまったのは残念なことだと思います。
私も最初はそう思えましたし、このマタイ5章28節がその根拠だと考えていました。
でも上記文章をよく読めば、「あれとこれは同じだ」と言っているだけで、「あれはダメだ、これが悪だ」というような断定的な表現はどこにも書いてありません。
たしかに戦国時代にキリスト教が伝来した際に、西欧の倫理観からしたら性的に逸脱した日本人の性的習俗を見て、宣教師たちは眉をひそめたといいます。
秀吉が禁教令を敷いた理由のひとつに、若いキリスト教徒の娘を側室にしようとしたところ、「自分はクリスチャンだから為政者の妾にはなれない」と断られたことによるという説もあります。
また修道院では布団の中に手を入れて眠ることは禁じられてきたといいます。
そこまでしても、生涯独身を誓い貫く聖職者による性的虐待が今なお世界中で告発されています。
(だからキリスト教はインチキだという短絡的な考えに私は与しませんが)
こうしてみると、キリスト教と性の問題はかなり根が深いと思います。
しかし、中世の神学者トマス・アクィナスが書いた「神学大全」(神学の初学者向けに書かれた体系的理論書。ラテン語で“Summa Theologica”を略して「スンマ」と呼ばれる)の解説書などを読むと、キリスト教は「性欲=忌むべきけがらわしいもの」などと断定はしていないといいます。
この点、創世記において神により「きわめて善いもの」として造られたはずの人間が、アダムとイブがヘビに唆されて知恵の実を食べたことが原罪の始まりにせよ、なぜ悪に染まってしまうのかという問題について、昔から様々な人が考え悩んだうえで答えを出してきました。


トマスは「神学大全」第2部の第1部第27問題第1項「善が愛の唯一の原因であるか」において、こんなことを書いています。
『悪は、善の観点のもとにでなければ愛されることはない。すなわち、ある点において善いものであり、そして端的にも善いものと捉えられるかぎりにおいてでなければ愛されることはない。こうして、端的に本当に善いものではないものへと向かっているかぎりにおいて、ある愛は悪しきものなのである。そして、不正によって、何らかの善―たとえば快楽や金銭やそういった類のもの―が獲得されるかぎりにおいて、人はこのような仕方で不正を愛するのである。』
上記『善の観点のもとにでなければ愛されることはない。』というのは具体的にいえば、賄賂をもらう政治家や役人は、不正によって得られる金銭を愛しているのであって、不正行為(という悪)そのものを愛しているのではないということです。
つまり金銭を得ようとする執着が「悪い愛」なのではなく、労働報酬など正当な仕方によって金銭を得ようとする「善い愛」と、詐欺や恐喝、窃盗や収賄など、不当な手段で金銭を得ようとする「悪い愛」あると言っているのです。
たとえばモルヒネだって痛みを和らげるという医療的に正当な目的で、資格を持った医療従事者が治療に用いる場合は「善い愛」(=善い使い方)でしょうが、現実逃避のように何か大きな不安から逃れるために、いっときそのことを忘れようとして不正使用し、それが嗜癖になって乱用するなら「悪い愛」になります。
けれどもモルヒネそのものイコール悪ではありません。

これを性的快楽に置き換えれば、性的快楽や性的欲望が即悪だというのではなく、それらある点においては善いものを、「ある点において」という限定を取り外してひたすら追求しようとする人間のあり方が悪なのだということになります。
「性的欲望が悪しきものだから不倫も悪」なのではなく、「不倫という配偶者を裏切る不法行為までして性的欲望を満たそうとするその態様」が悪なのだと、トマスは考察しているのです。
これ、「不倫」を「性犯罪」、「不法行為」を「違法行為」に置き換えても全く同じことです。

そこまで極端に寄らなくても、たとえば援助交際やパパ活と呼ばれる売買春や、経済的事情やDVによる夫婦の結びつき、いじめと呼ばれるハラスメントがなぜ「善くはない」(ずっと前に河合隼雄氏の著書のところで考えました)のか、トマスの考えにのせればすっきり説明がつきます。

つまり、今の生活レベルを落としたくない、贅沢がしたいという目的であっても、金銭や性的快楽、自己の優越性を求めるという点では善であるものの、その手段が財貨や自己の肉体、他者への体罰的な暴力・精神的抑圧を用いての性の収受をし、或いは人間関係を結ぶということであれば、正しいプロセスを省いているから悪いのであって、男女の結びつきや人間関係そのものが悪であるはずがありません。

これ、「道徳的・倫理的に悪だ」と頭ごなしに断じるのとは大違いです。
ところが世間の考え方は「セックス=害毒」「不倫は悪、一生許さない」「性犯罪撲滅キャンペーン」ですから、性的欲望も「そんなものは理性の力で抑え込め」「自分の利き手を切り落としてでも手を染めるな」になってしまい、冒頭のように「だれでも情欲を抱いて女を見る者はその女に対し、心の中ですでに姦通の罪を犯したことになる」などといわれたら、「冗談じゃない。実際に犯罪行為した人と一緒にしてくれるな」と反発するのです。
結局、自分のことは棚に上げて大上段から説教をたれる偽善者と、浮気や痴漢がどうしてもやめられない「弱い人」しか居なくなってしまいます。
そこにはいつ自己の悪事が露呈するかとビクビクしながら他人を攻撃し続ける前者と、ひたすら自虐するか反発するかして、自己を責め続けるか他人を傷つけ続ける後者が、どちらかが倒れるまで延々と踊り続けているような世界です。
しかし、もしも不正行為や不法行為、犯罪行為などの悪そのものを愛しているのではなく、あくまでも金銭や性的快楽という善を目指した結果、歪んだ形でそれらを追求するようになってしまったということが真理であったなら、そこにはまだ救いがあります。
人間がどれだけ悪しき在り方に陥って、自分ではその悪循環から抜け出せないと悩んでいたとしても、「その悪しき人間の根底には善がある」、たとえ歪んだ方法になっているとしても、「何らかの善に対する愛」からその行為や発言は行われているわけで、そのような肯定的な考えから世の中や周囲の人たちを捉え直してゆけば、その「善に対する愛」を軸にして、悪しき在り方や歪んだ方法に対処し修正してゆける、人間にはもともとそのような回復力が備わっているという希望が見えてくるからです。


私は翻訳作業において、どうしてもこの件について調べねばならなくなってトマス・アクィナスのこうした考え方に触れ、長年謎のまま解けなかった問題に答えが与えられた気持ちになり、暗い心の中にさっと陽が射して、ずっと凍ったままだった氷が融けてゆくような、暖かな気持ちになれたことを覚えています。

そして仏教の「煩悩即菩提」の意味もなんとなく分かったような気持になっています。

今は家庭や学校、職場など人間の集団においても、個々人の人生に於いても、人間が成長してゆくには、トマスの説く「善に対する愛」を認識していることが大前提ではないかと思っています。

それが理解できてはじめて、悪にはまっている相手の事情を斟酌し、「憎しみの相手に祈る」という行為ができるようになるのではないでしょうか。

反対に、「普通の人間は理性で自分を制御するものだ」などと知ったような口をききながら、他者に対して脅したり怨嗟の声をあげたりし続けても、「ダメ絶対」と叫んでまわっても、それは問題の解決に資さないばかりか、却って分裂を固定化して双方に余計に頑なな人間を再生産するだけではないでしょうか。

それが教育というものだし、意志や理性や徳性をまるで筋肉のように強化することが人間の成長だと勘違いしている人たちが多すぎる気がします。
性に関する話題が出ると、やたら感情的になる人が多いこの頃で、それはもちろん、過去に何らかの気付きならぬ傷付きがあってのことと拝察はいたしますが、どんな立場や経験においてであっても、人間の善を信じる限りにおいて、神の恵みによって平静でありますように。