体育嫌いだった自分が生涯スポーツを見出すまで | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

皆さんは生徒時代、体育の授業は好きでしたか?
私は嫌いでした。
当然、体育教師ともウマが合いませんでした。
中学生になりたての頃、文集に載せる作文の宿題が出て、通学時間の長い私は考えて書く時間がなくて、昔読んだ小説に登場する「怠惰な学生」の心情になって、あたかも自分がそうであるかのように装って、つまり適当に作文して提出したことがあります。
「小学生で受験勉強してきたから、これからは努力せずに楽に学生生活したい」というような内容の文章だったと思うのですが、それが文集になって教室の後ろの本棚にあり、副担任だった体育教師がそれを読んで、「コイツの性根を叩き直さねば」みたいに目をつけられてしまったのです。
他の先生は私のほかの作文も読んでいるので、「どうせ時間が無くて心にもないことを適当に書いたのだろう」と察してくれたのですが、直情単純型の熱血体育教師には、そこまでの読解力が無かったようです。
その後ずっと「こいつはしごかないとサボる奴だ」みたいな目で見られて、当然体育の成績も良くて5段階評価の3でした。


私は小学生の時、ドッジボールでは女子の投げた球がキャッチできずアウトになってしまったり、ソフトボールはたまにバットにかする程度だったり、そうかと思うとサッカーだけはボールあしらいが上手だったりと、球技に関しては「おおよそ鈍くさくて、ごくたまに上手」という子どもでした。
水泳だって、小学生の時にスイミングクラブに2年ほど通っていたから、バタフライ以外は泳げたし、中学生になったら全校生徒が強制的に参加する(ユニオンショップみたいな)部活は一応水泳部で、そこでバタフライも覚えたから試合では個人メドレーに出られなくもないけれど、実際に出たらいつもビリかその手前でした。
というもの専門がブレスト(平泳ぎ)で、足の使い方が他の3種目と逆だったため、バタ足が足の甲の形状と関節の硬さで全然進まない私には、他の種目ではどうしようもないのでした。
(一応平泳ぎだけは平均よりは速かったと思います)
なお、その頃は大人に内緒で自転車を使って遠乗りしていました。
小学生で鎌倉まで往復したことがありますが、当時の自分には冒険でした。


徒競走(短距離走)も全然ダメ。
あとから本で読みましたが、筋肉には瞬発力を発揮する時に使う色の白い速筋繊維と持久力を生み出す赤い色の遅筋繊維があって、その割合には個人差があるというのです。
狩猟民族は前者が多く、農耕民族は後者が多いということで、黒人のうち狩猟民族を祖先に持つ人たちがバネのような身体をしているのはそういうわけだったのかと納得しました。
当然私は農耕民族の末裔ですから後者です。
だから、マラソンだけは平均より速く走れました。
でも、運動会で脚光を浴びる短距離走やリレーで速い方が、女子受けは圧倒的によいのでした。
持久走の記録会で、たまたま学校前で既にレースを終えた女子が見守る中、運の悪いことに人気のあるサッカー部のイケメン君と競ってしまい、彼に多数の黄色い声援が飛んでくる中、私はヒール役に徹して少し控え目に走って彼を先行させ、誰もいない区間に入ってからそっと追い抜くなんてことをやっておりました。
でもマラソンだってどこかでスパートをかけなくては勝てないわけです。
団子状態でゴール寸前まで来て、ライバルたちが一斉に無酸素運動に切り替えられた途端、置いてきぼりを喰ってしまう私。
どこまでも体育向きとは思えませんでした。


そんな私が、唯一好んでいたのがスキーです。
子どもボーゲン(足を伸ばして突っ張った状態でハの字で滑る)しかできなかった私が、中学生になってからはひたすら上手くなりたいと思い、学校はもちろん、個人でもスキー学校に入って修練を積んでいました。
いっときは、練習中ストックの突き過ぎで腱鞘炎になったほどです。
前にも書きましたけれど、スキーを理由にすれば信州、上越、東北、北海道と様々なところへ旅行が出来たので、旅オタクの私には都合がよかったのです。
妙高や野沢、蔵王は長いこと冬しか行ったことのない場所でした。
それでも年間で正味14日程度しか滑れなかったし、その時代のスキー技術は今より難しかったので、小回り(ショートターン)ができるようになって検定1級に合格したのは高校生になってからです。
もちろん、現地で毎日のように滑っている高校生には、全く歯が立ちません。
練習だって、楽しい思い出より苦しい思い出の方が圧倒的に多く残っています。
それにスキーもマラソン同様に、上手下手は一緒にスキー合宿に行ったクラスメイトにしかわからないことで、大学生になって水泳部でスキーに行った時、新潟出身の先輩から、「雪国にもいるいる、オマエみたいに他のスポーツは全部音痴なのに、スキーだけが上手い奴」と言われました。


彼によれば、運動神経の良い人間と悪い人間しかおらず、前者は何をやっても上手だけれど、後者は運動全般にわたってダメということなのでしょう。
たしかに、私は身体の動きをイメージしにくいという点では運動音痴だと思いますが、訓練を積めば他人よりも自由に動けるようになるし、前述したようにスポーツ競技によっては、自分の向き不向きがあると思います。
それを、どのスポーツもオールランダーにこなす子どもだけが評価され、或いはひとつのスポーツに打ち込むにしても、地域の代表になるような選手だけを目標にしたら、その他大勢の落ちこぼれは、勉強同様に運動に興味が持てなくなります。
あの先輩、体育教師になりたいと言っていたけれど、少数のエリートと大量の落ちこぼれを作り出すのが目的なら、体育教育も先が知れています。
その子ども一人ひとりに向いている、生涯自分から続けられるようなスポーツを見つけるのを手伝ってあげるのが、本当の教育ではないでしょうか。


私の場合、たまたま持久走は校内駅伝のために毎日走った2年間が中学時代にあったので、今のようにブロンプトンで週のうち半分以上を通勤、小旅行のためにある程度の距離を走っても苦になりません。
スキーもまた、雪の斜面では自転車のように、いや自転車以上に自由に扱えるので、スキー場までの行き帰りの往復も含めて毎年滑りに行くこと自体はまったく習慣化しています。
翻って周囲を見回してみると、あの頃運動ができた子たちは、大人になってからもアマチュア・チームやマスターズなどで競技を続けている少数の人と、全くやらなくなってしまったその他大多数の人に分かれてしまいました。
全く運動ができなかったのに、社会人になってデビューした人もいるにはいますが、そういう人たちに限って、学生時代の彼らからは考えられないような、ストイックなやり方で運動しています。
あれではいずれ体力が衰えたときにもたないと思うほどです。


自分のように、適当に、いい加減に、ズルズルと、しかし時には真剣に、もちろん独りでも続けられるスポーツに出会えたのは、本当の意味でラッキーだったのかもしれません。
もし毎日走った経験や、ずっと続けてきたスキーが自分に無かったら、自分は日常的には全く身体を動かさない、移動もたとえほんの2㎞の距離でも、自家用車やタクシーばかりに頼り、公共交通機関さえ忌避する、今よりもっと太っていた自分になっていたかもしれません。
もちろん、朝4時前に起きて自転車で出てゆくとか、独りでも知り合いの顔をみるためにスキーへ行くとか、青春18きっぷをつかって遠くの旧街道をブロンプトンで走ってくるとか、絶対にやらない人間になっていたと思います。
もしそうなっていたら、時間的、位置的には同じであっても、今居る世界とは全く違う世界に住んでいたと思うのです。
もちろん、こんなに本を読んでいたかどうかも怪しいですし、洗礼など受けるような状況になっていたかどうか。
今は身体が衰えていっても、衰えたなりに自転車で走り、スキーで滑ろうと思っていますし、それが仕事や読書などほかの活動にも役立っていると実感しているからこそ、生きる原動力になっているわけで、これらの運動は身体の続く限り続けようと思っています。
こうしてみると、自分ではそれを目的とせず、結果的に生涯スポーツを手に入れたのかもしれません。
そして、嫌いだった体育の授業や体育教師も含め、人生に無駄なものはひとつも無かったと思うのでした。