旧甲州街道へブロンプトンをつれて 3.上高井戸宿 | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

旧甲州街道(国道20号線)鎌倉街道入口交差点から西へ向かいます。
鎌倉街道は大きく分けて上道、中道、下道の3ルートがあり、このうちの中道は中野付近を通っていて、ここよりもっと手前の笹塚交差点で交差した中野通りがそれにあたるといわれています。
これに対して上道は多摩川を関戸で渡って府中を抜けて北上する、今も鎌倉街道と呼ばれている道がそれなので、もっと西になります。
ではこちらの鎌倉街道は何なのでしょうか。
鎌倉街道は「いざ鎌倉へ」といわれるように、有事の際の軍用道路です。
一度に素早く大勢の兵士や馬、大量の荷駄などを鎌倉へ向かわせねばなりません。
鎌倉から放射状に上記3ルート以外にいくつもの間道が関東平野中に伸び、どこかの橋が落とされたり、関門が設けられたりした場合は迂回することで突破し、反転攻撃できるよう、それぞれの道に連絡道が枝分かれして網のように張り巡らされていたのでしょう。
この道も上道と中道の間に設けられた間道のひとつでしょう。

(一里塚跡)
実際、武蔵野台地を南北に貫く山手通り、環状七号線、環状八号線の間や内外には、それに並行した古道が南北に走っており、東京都心の西側を自転車で抜ける場合、こうした昔道がとても役に立ちます。
たとえば多摩川の二子橋から荒川の笹目橋へと北上する場合、鉄道はいったん山手線へ出て乗り換えが必要ですし、環八は大きく西へ迂回しているうえに、自転車で走ろうと思ったら車道は立体交差やアンダーパスが多く自転車の走るスペースなど殆どないうえに、歩道も狭くてスムーズに走れません。
信号が多いうえに、大きな交差点では古い歩道橋を自転車担いで渡らねばパスできません。
その点これら昔道は最短距離をゆく住宅地の中ゆえに信号も少なく、古くからある分こちらが優先なので、一時停止も少なく却って早く移動できます。
大山街道(国道246号線)、甲州街道(国道20号線)、青梅街道(都道4号線)、川越街道(国道254号線)と交差する位置を覚えておけば、比較的簡単に走ることができます。
今でもこうして甲州街道沿道を走って、途中時間が来て家に帰る時は、これら鎌倉街道等を利用して南下し、用賀から二子玉川へ出て帰るようにしていました。

(首都高速は玉川上水とともに右手へ逸れます)
鎌倉街道入口交差点から40m先の上北沢駅入口信号の左側、国道20号16キロポストの歩道側に、江戸から4里目の甲州街道一里塚跡の説明があります。
ここには縦横9メートル四方、高さ3メートルの塚が設けられ、榎が植えてあったそうです。
そこからさらに80mさき、上北沢駅入口第二交差点で、新宿の西、西参道口交差点から実に6.5㎞の区間、国道20号線の上に蓋をしてきた首都高速4号線が、進行方向右斜め、つまり北西方向へと逸れてゆきます。
たった6.5㎞ですが、旧東海道ではこのように旧道直上を長い区間に渡って高速道路が蓋をして空が見えないということはなかったので、こうして青空を取り戻してみると、あらためてすごい閉塞感があったと実感します。
首都高速4号線の高井戸~西新宿間は、中央自動車道から都市へと続く最短唯一の高速道路で、混雑する分その重要度も高いのでしょうが、私だったら、どんなに便利で防音設備がしっかりしていても、このような高架道路に隣接した場所に住みたくはありません。
暗いだけでなく、騒音や振動、大気汚染は相当なものだと思います。

(頭上に高架道路が無いと開放感があります)
首都高速4号線はここから1.2㎞北西の環八との交点にあたる上高井戸陸橋の両側に高井戸インターがありますが、下り方面には入口がありません。
(1986年まで上り方向の出口もありませんでした)
ゆえに、多摩川の向こう側、川崎市内や横浜市内のマイカーは、中央自動車道に乗ろうと思ったら、甲州街道を調布まで走るか、多摩川沿いを延々と遡って国立府中インターまで行かねばなりませんでした。
中央道方面のスキー場はもちろんのこと、甲府盆地、八ヶ岳、蓼科、諏訪、松本方面に車で往き来する時は、バブル当時の慢性的渋滞と相まって、本当に大変でした。
ちょうどカセットテープにユーミンの「中央フリーウエィ」を入れて流していた頃です。
片手でハンドルを握り、もう一方の片手で助手席の女性の肩を抱いて「愛してる」って、どこまでキザなのでしょう。
その前に危ないように思うのですが。
今では車利用は殆どなく、中高生の時のように中央線利用になったので関係なくなりましたが、あの時代を振り返るとあそこまでして何をやっていたのかと思います。
なお、玉川上水も首都高速と一緒に逸れてゆきます。
上水の流路が武蔵野台地の分水嶺ですから、旧甲州街道はこの地点から、尾根筋からは徐々に外れてゆくことになります。

(上北沢駅のプラットホーム)
上北沢駅入口第二交差点の次の路地を左に折れて南へ180mゆくと、突き当りが前回ご紹介した上北沢駅の北口になります。
上北沢駅の改札は地下にもぐっていますがホームは地上にあり、昔の雰囲気を良く残しています。
西隣の八幡山駅まで650m、東隣の桜上水駅まで790mしかなく、各駅停車しか停車しないので、昔の停車場の雰囲気が残っているのでしょう。
線路沿いのホームから見える位置に昔ながらの中華屋さんの暖簾が揺れ、そのお隣に謎の「占い美容室」なるものがありました。
後者は、現在京王線の立体交差事業に伴い更地になっています。
このホームや中華料理屋さんもいつまであることやら。

(上北沢駅から八幡山駅を望む)

ところで、この駅はいったん「北沢駅」になり、また元に戻ったのだそうです。
下北沢駅付近の地名が北沢になったため、混乱を避けようと上北沢に戻したそうですが、下北沢駅とは距離がずいぶんと離れています。
これは、目黒川に注ぐ北沢川の源流がこのすぐ先の松沢病院付近で、下北沢駅は北沢川の谷の下流部(といっても正確にはさらに枝分かれした森厳寺川上流部)になるからです。
ということは、この駅の南側から北沢川に沿って下ってゆけば、豪徳寺、梅が丘、池尻大橋、中目黒、五反田、大崎、新馬場、天王洲アイルへと走ってゆけるわけです。
そんな移動、鉄道やマイカーを使ったら大変です。

(将軍池公園)
上北沢駅南口から線路沿いを西方向に進むとすぐ左手に都立松沢病院が見えてきます。
昔は精神科の専門病院として有名でした。
もとは東京の本郷にあって明治維新で行き場を無くした浮浪者や病院を収容した養育院が前身で、そこから上野に移って癲狂院(てんきょういん)と名を変え、本郷、小石川、巣鴨と転々とし、1919年(大正8年)にここ松沢村に移転しました。
今は精神科だけでなく他の各診療科を備えた総合病院になっています。
ここで松沢病院の周囲を時計回りに走ってみます。
京王線の線路を背に南へ400m走ってゆくと右側に将軍池公園があります。
この名前は88歳で亡くなるまで松沢病院で過ごした葦原金次郎氏に因むそうです。
彼は当時でいう精神分裂病(現在は統合失調症)誇大妄想型の患者さんで、皇位を僭称する自称将軍でした。
たしか筒井康隆氏の短編『将軍が目醒めた時』のモデルになったお方です。
彼の自己主張は病気から来るので毒が無かったから、周囲の人たちから愛されたと聞いています。

(大宅壮一文庫)
そこから病院の敷地に沿って進み、八幡山駐在所まで来たら右折して北上し、250m先左側にあるのが、文学賞に名を冠しているジャーナリストでノンフィクション作家の大宅壮一氏の蔵書をもとにした文庫です。
私は彼の作品は読んだことがありませんが、大宅壮一ノンフィクション賞をとった本は何冊か読みました。
パッと並べて以下の通りです。
石牟礼道子『苦界浄土 わが水俣病』(受賞辞退)
イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』
近藤紘一『サイゴンから来た妻と娘』
梯久美子『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』
川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
こうやってみると、ジャンルはバラバラです。
でも、殆どが読んでよかったと思える本でした。

(松沢病院正門)
旧甲州街道に戻ります。
上北沢駅入口第二交差点から500m先の路地を左折して140mほど南下した、京王線の線路手前にあるのが山谷稲荷神社で、ここには力石があります。
国道20号線に戻って西へ進みます。
上北沢駅入口第二交差点から720mさきの上北沢四丁目交差点を左折すると赤堤通りに入り、190mで八幡山駅です。
駅の下を通り抜け、そのまま赤堤通りを南下すると、左手に松沢病院が沿い、先ほど紹介した大宅壮一文庫へ戻ります。
そのまま赤堤通りを進むと、南から東寄りに進路が変わり、通り名の赤堤を通って梅が丘駅北口から小田急線に沿い、世田谷代田駅手前で環七通りに突き当たります。

再び甲州街道に戻って上北沢四丁目交差点から西へ進むと、260mで環八との交点にあたる高井戸陸橋交差点です。
その手前右側の角に、上高井戸宿の武蔵屋本陣がありました(碑などはありません)。
下高井戸と上高井戸あわせて高井戸宿とも呼ばれ、1軒ずつ本陣があるものの、脇本陣はありませんでした。
時代が下って内藤新宿が開かれると、もともと通行料が少なかったのに、高井戸宿を素通りする旅人も多くなったといいます。
次回はここ高井戸陸橋交差点から、旧甲州街道の旅を続けたいと思います。

(環八高井戸陸橋。この右手に上高井戸宿の武蔵屋本陣がありました。)