水上勉著『五番町夕霧楼』を読む(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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(前回からの続き)

で、やっと『五番町夕霧楼』のヒロイン、片桐夕子さんの登場です。
ここからはネタバレですから、これから読むつもりの方はご注意ください。
戦争疎開中、与謝半島の樽泊で亡くなった京都五番町夕霧楼の主の葬式で、未亡人となった女将の酒前かつ枝は、近在に住む樵の長女、19歳の片桐夕子を「本人も遊女になるのは覚悟の上」だと父親から託され、京都の売春宿である夕霧楼に連れて帰ります。
与謝半島の樽泊ってどこ?
日本全国大概の場所は行っているので、架空の地名でも見当はつけられるのですが、最初は地名から新潟や北海道の日本海側かと思いました。
しかし一日で山陰線に乗って京都まで帰っていること、経ヶ岬という地名が出て来たこと、宮津からバスで4時間、便船だとそれより早いという描写があり、金閣寺放火事件の犯人の出身地が舞鶴だったことを考え合わせると、丹後半島の先端に近い東海岸、伊根町泊だろうとあたりがつきました。
丹後なんて小学校低学年の時に一度天橋立に行ったきりで、伊根については朝ドラに出てきた舟屋くらいしか想像できませんが、とにかく山がちの土地の中で貧困にあえぎ、病身の母親と3人の妹を養わねばならない夕子さんはお金を稼ぐ覚悟で遊郭に身を投じたというところまでは理解できました。

太平洋戦争後10年経ったくらいの話でしょうが、経済成長期に入る前はこういうケースがたくさんあったと思います。

五番町は京都市上京区にある実際の地名で、江戸時代に北野天満宮の門前町が花街から色街へと変化してゆく中で、北の上七軒が京都五花街のひとつとして残っているのに対し、戦後西陣新地として売春防止法施行まで下級の花街、いわゆる赤線地帯として通っていました。
おもなスポンサーは西陣織を商う旦那衆だったようです。
今風に場所を説明すれば、堀川通と北野白梅町の中間、千本通と中立売通の交差する千本中立売交差点の西南角の南といったところでしょうか。
私もブロンプトンに乗って京都の街中を散歩するようになり、北野に宿をとった時は一条通沿いの大将軍商店街とか、中立売通り沿いの北野商店街などで食事をしました。

あの辺りは昭和レトロな匂いがプンプンして昔の京都を見る気がして、四条河原町から祇園にかけての観光客受けを狙った街よりも好きなのですが、その裏にある五番町はもう住宅街になってアパートが建て込み、今行っても面影は殆ど残っていないようです。
そこから妻に先立たれた西陣にある帯問屋の大旦那、竹末甚造とかつ枝との、夕子をめぐっての最初は水揚料、次には身請け話の丁々発止がはじまります。

このあたり、戦後の売買春事情をよく描写しています。
また生娘から春をひさぐ女性へと変貌を遂げる粘着質系統の話かと思いきや、ギラギラした大旦那はともかく、何とか遊女たちの人生が立つようにと甲斐性を発揮する女将かつ枝のおかげで、それほど湿っぽい話にはなりません。


そこに時間花(泊りではない客)として夕子のもとに通うようになる謎の学生風の男が登場します。
この男が夕子の幼馴染み、というか樽泊の小さな寺で赤ん坊の時から兄妹同様に育てられたその寺の跡取りで、今は京都の鳳閣寺(金閣寺を暗示しています)で小坊主をしている、欅田正順でした。
この小説には京都五山筆頭として燈全寺、その別格地(本山に次ぐ格式の寺院)として鳳閣寺、聚閣寺という寺院が登場しますが、その地理的な位置と、「閣」のつく観光客に人気の有名なお寺ということで、京都に詳しい人ならそれぞれが相国寺と臨済宗相国寺派の鹿苑寺(金閣寺)、東山慈照寺(銀閣寺)だと理解できるようになっています。
欅田は幼いころから吃音で、自分の言いたいことを相手に伝えられず、大学でも山内でも馬鹿にされて孤立していました。
唯一境遇を分かち合えるのが、小さい頃から一緒に育った夕子でした。
ところが、ふとしたことから竹末は欅田の正体を知り、それを女将のかつ枝に告げます。
それを聞いたかつ枝は夕子を問いただしますが、「吃音で誰からも理解されない欅田が可哀相で自分から遊郭に呼んだ」「花代は時々自分が負担している」「欅田とは子どもの頃の話をして添い寝するだけで男女の関係は一切ない」という彼女の告白に半信半疑のまま、たとえ何もなかったとしても、売春宿でヒモのような行為をする欅田を放置しておいたら夕子のためにならないと考えます。
学生の身分ながら遊郭で遊ぶ欅田をアプレーゲルの不良学生ときめつけ横恋慕を仕掛ける竹末が、嫉妬から寺院の役僧に彼の素行を密告し、遂に欅田は遊郭に姿を見せぬようになり、そのタイミングで夕子が肺を病んで喀血し、やがて東山五条の病院に入院します。
竹末は夕子の病状を聴いた途端に冷たくなり、彼女の見舞客はかつ枝と遊郭の遊女たちのみという状況になります。

(旧島原遊郭)
あらためて夕子と欅田の間柄を不憫に思ったかつ枝は鳳閣寺へ赴き、人目につかぬよう欅田を呼び出して、夕子が入院していることと、一度彼女を見舞って欲しい旨を伝えますが、その際欅田はどもりながら「すべて済んだから安心して欲しい」との夕子への伝言を頼んで寺の奥に引っ込んでしまいます。
果たしてその日の晩、日付が変わってから金閣寺は炎上し、放火犯として欅田が検挙され、新聞には彼の不良ぶりが喧伝され、数日後に彼は留置場で自殺をします。

その時になってかつ枝は、夕子は欅田から寺院放火の計画を打ち明けられていたのではないかと気が付きます。

夕子の後追い自殺を予感して不安がる夕霧楼の娼婦たちですが、女将のかつ枝は、あの子はしっかりした面があるから大丈夫だと皆を諫めます。
はたして夕子は病院を抜け出し、その2日後に欅田とともに育った寺の境内で睡眠薬を服用して亡くなっているところを発見され、その骸は父親の背中に背負われて家へ帰るというところで小説を閉じています。
この小説も『罪と罰』みたいに中盤に欅田の正体が割れるところから一気にテンポが速くなり、話自体はあまり長くないので一日半か二日で一気に読めてしまいます。

(こちらも京都が舞台となっている、吃音症の主人公のお話です)
映画は興行のためにヒロインの性的描写ばかりが強調されていたといいますが、この小説の主題は性を売り物にしてお金を稼ぐ夕子が、いっぽうで純粋な愛を貫いていて、それに嫉妬する太客や、理解を示しつつも彼女のためにならないと分別を押し付ける女将のコントラストだと思います。

読んでいて感心したのは、女将のかつ枝はもちろん、好色爺の竹末甚造も、その人物なりの人生哲学をもって生きていることをちゃんと描き切っていることで、陳腐な悲恋小説になるのを回避しているところでした。
本作の登場人物の中では夕子の同僚の娼婦たちだけが、2人の純愛を確信しています。
渋沢栄一の親戚筋にあたるフランス文学者の澁澤龍彦氏は『エロティシズム』と題された随筆の中で、第二次性徴期前の男女は性を意識できないアセクシャルかつ両性具有状態で、聖書の創世記に登場する知恵の実を食べる前のアダムとイブと同じだと書いていました。
そして神の命に背いた楽園追放とは人間の性的な目覚めを暗示しているというのですが、この小説に登場するヒロイン夕子と欅田の関係が、まさにエデンの園にいたままのアダムとイブで、ヘビが竹末やかつ枝だったのかもしれません。
すると娼妓に身を堕として女性としての性の歓びを知ってしまった片桐夕子は、心と身体が引き裂かれた状態のまま、抗うこともできず運命に翻弄されてゆく気の毒な女性ゆえに、読者の心を打つのでしょう。

『罪と罰』でいえば、家族のために自ら売春婦に堕ちたものの、主人公のラスコーリニコフを見捨てないソーニャそっくりです。

こういう二面性を抱えたまま呻吟する人というのは、昔から小説の題材になっていました。

ある意味で、自分に正直で嘘がつけないところに魅力があるのだと思います。

(懐かしい京都市電)
作者の水上氏は小説のセオリー通りに、二人の関係を互いに相手を思いやる純粋な愛のまま悲劇的な死で幕を閉じています(実際の金閣寺放火犯は病死)が、読者として最後まで分からないのは、周囲の無理解から美しい金閣とともに自死しようとする欅田の行動でした。
彼は三島由紀夫の『金閣寺』で独白する主人公の溝口とは内面も対異性感もずい分違うように思われます。
人はどんなに辛い境遇でも、たった一人の理解者(それは生きている人間でなくても良い)さえいれば、その相手のためにも決定的な破綻を免れるといいます。
彼は成績が良かったと描写されていますから仏の教えは理解していたでしょうし、いくら寺院が世俗的な垢に塗れているように見え、周囲の無理解からいじめられても、そして、たとえ第三者の密告が原因で唯一の理解者と会えなくなっても、もっといえば重文放火犯として全国から非難を浴びても、それまでに夕子と交わした共感が金銭欲や性欲に堕ちずに高潔なままであれば、そしていつかまた会えると信じさえしていれば、あのラスコーリニコフのように乗り越えられそうな気がするのですが。
それだけに犯罪者となった挙句に自死した彼の後を追って自殺をしたヒロインは痛ましい限りでした。

それにしても、こんな小説の主人公の名をお菓子の名前に使ってよいのでしょうか。
たしかに夕子さんは甘いものが好きだという描写はありましたけれども。
さらに細かいことを言えば、夕子さんはパッケージにあるような丸顔の目がぱっちりとした現代風の可愛らしい女性ではなく、細面の切れ長の目が少し吊り上がっている、いかにも和服が似合いそうな昔気質の美人ですよ。
これから八ツ橋の夕子さんを食べるときは、二人に合掌してから手をつけようと思います。
そう思いながら、改めて小学生の時に友だちと行ったきりで、今はあの頃よりもっと観光客が押し寄せている金閣寺や、昔の京都を彷彿とさせる北野界隈を改めて訪ねてみたいと思いました。

それから、暖かくなったら丹後半島の棚田巡りもブロンプトンでしたら楽しそうです。

やはり小説を読む習慣は、未知なる旅への誘いだからやめられないと感じました。

<今回読みたくなった本>

『雁の寺』水上勉著

『金閣寺』三島由紀夫著(再読)

(おわり)

(桂川の夕照)