水上勉著『五番町夕霧楼』を読む(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

私は読書する時に複数(といってもせいぜい3~4冊)の本を同時進行的に読むのですが、その際はなるべく同じジャンルの本が重ならないように注意しています。
たとえば、仏教の解説書を読んでいる時には、宗教関係の本は他に読まず、認知心理学だとか脳神経科学の本と、もう一冊は全然関係ない小説を読むようにしています。
そのうちのどれか1冊の内容が自分の興味にあてはまっていたり、作者の筆致がその時の自分に時宜を得て合致したりしていると、他の本そっちのけでうち1冊を1日で読み切ってしまうことがあります。
この本もそうでした。

そしてそのような本ほど、読後には小説の舞台を旅してみたくなるのです。

もちろん、読書は独りでするものですから、旅もひとり旅になります。

これは三浦綾子の『塩狩峠』『氷点』を読んで北海道へ列車と連絡船を乗り継いでいった中学時代、遠藤周作の『沈黙』『海と毒薬』を読んで即夜行に飛び乗って長崎に旅立ちたくなった高校時代から全く変わってません。

先般も、ドストエフスキーの『罪と罰』が殊の外良かったので、サンクトペテルブルグへ、バルザックの『ゴリオ爺さん』を読んでパリに行きたくなったばかりです。

ところで、読書家を東京に惹きつける小説というのはあるのでしょうか。

私は夏目漱石の『三四郎』とか司馬遼太郎の『坂の上の雲』(特に最後の描写)を思い浮かべるのですが、まさかインバウンドの観光客がこれらを読んで「東京に行ってみよう」となったら、相当のマニアのような気がします。
水上勉氏は幼少の頃に貧困から小僧さんとして京都のお寺(相国寺の塔頭)に預けられ、一度出奔するものの連れ戻され、それまでとは別に預けられたお寺の蔵書を隠れて読み漁っているうちに読書好きになって、そこから色々な職業を経験して作家になった人ですから、どこか今の自分の境遇に通じるところがあるのかもしれません。
私の手伝っているお寺も本が沢山りますが、住職は読むのを禁じたりはしていません。

(三条通り界隈)
この本を読もうと思ったきっかけは、旧東海道で大津宿から逢坂峠を越えて山科盆地へ下ってくる追分あたりに有名な井筒屋八ツ橋本舗さんがあり、京土産として修学旅行生には定番の八ツ橋「叙情銘菓夕子」が本作のヒロイン片桐夕子にちなみ、作者からの許諾を得て発売されたと知った時に、「そういえばそんな小説があったな」と思い出したからです。

せっかく京都に着いたのだから、京都が題材の小説をと思って川端康成『古都』、志賀直哉『暗夜行路』、谷崎潤一郎『鍵』などを考えていたところでした。

しかし、こうして小説の題名から舞台になった土地のことをあれこれ空想してみるというのは大事なことです。

映画や漫画と違い、文字の本を読むということは、場所や時代を違えて生きた人たちの息遣いを想像することですから。

それが「自分とは立場も、生きている時代も違う人たち」への共感につながります。

そうやって子どもの頃から読書の習慣をつけてきた人は、他者に対しレッテルを貼ったり、「あいつはこうだ」などの決めつけはせず、ひたすらその人の内面を推し量ろうとします。

逆にテレビばかり観て読書をしてこなかった人は、思い込みが激しいように見えます。

不思議ですよね。

テレビの方がいっけん色々なものを色々な角度から見せてくれそうなのに。

これはひとえに「認識力」と「想像力」の問題だと思います。

目に見えるモノしか評価をしない人というのは、その人もまた、目に見えるところでのみ評価され、その狭い世界で生きている人ですから。

これ、「自分だけの世界を持っている」とか、そんな次元の話ではありません。


水上勉先生の小説は、中学生の頃に『飢餓海峡』と『くるま椅子の歌』の2作を読みました。
詳細までは覚えていないのですが、前者は三浦綾子著『氷点』でも題材にされていた洞爺丸事故のことを知りたくて読んだのですが、どちらかといえば推理小説のようでした。
後者はお子さんのひとりが身体障害者と知り、同様の家族を持って書かれた大江健三郎著『個人的な体験』と読み比べました。
『飢餓海峡』が暗くじめじめした感じだったのに対し、『くるま椅子の歌』の方は一転明るくて希望が持てる内容だったと記憶しています。
最近ではブロンプトンに乗るようになってから信州別所温泉近くにある無言館という美術館(戦没学生の絵画等を展示していて、『春さんのスケッチブック』(作:依田逸夫/絵:藤本 四郎 汐文社刊)で知りました)に行った時、付属の読書館でここの館長さんが水上先生のご長男だと気がついた時に、そういえば先生は晩年佐久の北御牧村に移住していたと思い出しました。
長野への移住を考える人は、加島祥造さんのように気候が温暖で雪も少ない伊那谷を考えるのに、火山灰層で土地もやせ、浅間下ろしに代表されるような冬が厳しい佐久に移り住むなんて珍しいと思っていたのです。

本作は前知識として三島由紀夫著『金閣寺』同様に、金閣寺放火事件を題材にしていることくらいは知っていましたが、題名からして妓楼の話だし、『飢餓海峡』同様にまた暗い話なのだろうと読む前から身構えていました。
私は観ていないけれど、たしか自分が生まれる前と、まさに『飢餓海峡』を読んでいる頃に2度映画化されていて、その性的描写ばかりがクローズアップされていました。
何でも問題のシーンを半分カットすることで映倫を通したとか。
それで当時の流行作家の本だったのに、学校で「またそんな暗くてHな小説読んで」と言われましたっけ。
『飢餓海峡』はたしかに娼婦がキーパーソンとして登場しますが、彼女がメインテーマではありません。
そんなこと言ったら、学校の課題図書にもあがっていた三島の『金閣寺』(こちらも1976年に映画化されていますが、もちろん観ていません)の方が、よっぽどあからさまな性的描写があるでしょう。
どうも原作を読まないで映画だけ観て読んだ気になっている人ほど、勝手なイメージを膨らませているのではないかと思いました。
それに「セックス=不純=悪」と頭から決めつけてかかる人は、たとえ小説の主人公と同性であっても、アンビバレント(二律背反的)な人間の性に対する姿勢についてや、娼婦の複雑な心情など共感できず、小説の世界に入ってゆけないのではないでしょうか。


さて、『五番町…』はたしか新潮文庫だったよなと思って検索したら、それはとっくに廃版になっています。
今入手できるのは、小学館P+D BOOKSのみ。
なんじゃ、そのP+Dって?
パブリックドメイン(Public Domain)かな?
でも水上先生亡くなってからまだ50年経過していないでしょう。
正解は“Paperback”+”Digital”の略なのでした。
大型書店に行ったら文庫本とは別のコーナーにずらっと並んでいて、手に取ってみてびっくり。
ペーパーバック(並製本)としてカバーが無く、無線綴じ(丁合後の折丁=背文字の裏に糊で表紙を貼り付けただけの本。製本時に線=糸や針金を使用しないことからこう呼ばれます)なのはいいとして、手に取ると質量に対してもの凄く軽い、そしてお値段は文庫本以上にお手頃です。
同じシリーズを眺めてみると、昔大衆小説として文庫本棚の広いスペースを占めていた石川達三(『金環蝕』)や石坂洋次郎(『青い山脈』『若い人』)、大佛次郎(『鞍馬天狗』)のほかに、昔読んだ加賀乙彦の『宣告』や遠藤周作『おバカさん』『ヘチマくん』(こんなところで復刊していたの⁉)もありました。

むかしこの手の本が祖母の家にあって、読んだ記憶があります。
でも、この手の本は洋書のペーパーバックもそうですが、紙の質が悪い分、時間の経過とともに劣化が早く、また本を開いたまま伏せておくのを繰り返すと、本の背が割れてくるのです。
だから所蔵向きではないと思うのですが、最近は糊も質が良くなって昔のように簡単に壊れないとのこと。
暫く本棚で様子を見てみます。

(その2へつづく)