ティク・ナット・ハン師の著書との出会い | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(今回の写真は本以外は本文と関係がない、最近のスナップです)

私のスマートホンの中には聖書アプリなるものが入っておりまして、これが毎日の聖書朗読には大変役に立っております。
あの重たい聖書を持ち歩かなくて良いことと、駅ホームでの待ち時間や電車の中など、ふとした瞬間にさっと今日読む箇所が引き出せるので、細切れの時間の有効活用になります。
SNSでくだらない短文投稿をしながら人目を集めようと躍起になり、つながっているようでつながっていない、空疎な連帯感を確かめようとするより、こうして内面でハッとする言葉に出会い、あとで家に帰った時に本を開いてじっくりとことばを味わってみる方が、自分にとってどれほど滋養になるかわかりません。
本を読む人と読まない人の差は、こういう何気ないところにも出るものです。


ところでこの聖書アプリ、自分が読む箇所とは別に、「今日の聖句」として毎朝最初に開いた途端にAIが選んで出してくる聖書の言葉があります。
先日は眠たい目をこすって3時半にスマホの電源を入れたら、以下のパウロのことばがいきなり出てきて面喰いました。
『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい』(ローマ信徒への手紙12章2節 新共同訳)
この世に倣ってはならないなんて、この世を管理したい、長い者には巻かれた方が心地よい人からしたらとんでもない話です。
だからキリスト教徒はローマ時代の昔から迫害されてきたんだよなと思いながら、今年読んだある本のことを思い出しました。


日本にはかつてキリスト教徒を弾圧し強制的に改宗を迫り、拒絶すれば苛烈に追放、処刑してきた歴史があります。
哀しいことに、その際に権力者側に利用されたのが仏教で、強制改宗として宗門改めがありました。
こうしたキリスト教と仏教は共存できない政治体制が数百年にわたってとられた歴史的経緯から、まともに教義が衝突した訳でも、また財産や権力争いによって信者同士の血みどろの宗教戦争が国内で繰り広げられたわけでもないのに、キリスト教と仏教は敵対してきたという雰囲気だけが独り歩きしているように思います。
いま必死になって政治と結びつこうとしている新興宗教も、そうした過去のトラウマゆえに「利用したもの勝ち」みたいに考えているのかもしれません。
私のこと、お寺に潜む隠れキリシタンのように誤解するひともいるのですが、お寺やお坊さんに対するリスペクトと、自己の内面における信仰ゆえに洗礼をうけたカトリック信者だということを黙っているだけで、意図的に隠そうとか、面倒に巻き込まれないよう仏教徒のふりをするとか、そんな気持ちはさらさらありません。


今年(2022年)の2月のある日、四ツ谷のサンパウロさんに行った時のこと。
あそこは1階がキリスト教系の一般書籍、2階が各国語聖書やキリスト教専門書と分かれていて、階段を上ってすぐの本棚に本書が平積みにされているのを見かけました。
表紙の著者と思しき人物はどうみても仏教のお坊さんなのに『ブッダとイエス』ではなく『イエスとブッダ』。
どうも同じ著者の本が幾種類かまとめておいてあるようでした。
これはどういうことだろうと思いながらも、探している本があったためチラッと見ただけで通り過ぎてしまいました。


2週間後、あの本が気になったので教会の帰りにサンパウロさんに寄ってみたものの、その本は同じ本棚からは跡形もなく消えていました。
著者名はカタカナの、しかも西欧人ではない日本人には馴染みのない名前で、どうも上座仏教の僧侶のようでした。
上座仏教というと、先日甲州街道のところでもご紹介した、アルボムッレ・スマナサーラ氏の本は幾冊か昔読んだのですが、他宗教、とくにキリスト教批判がたまに出てくるので、そこから先は進みませんでした。
キリスト教徒がお寺を手伝いながら仏教を学んでいるという状況なので、「仏教のこれはキリスト教でいったらあれ」みたいな本に出会えればいいのですが、なかなかそのような本にはお目にかかれません。
おそらくはどっちにも通じている人があまりいないからでしょう。
私はキリスト教の本を読むのを一時停止してでも仏教書を読んできましたが、4年経ってもまだ全体が俯瞰できていません。
仏教はそれくらい歴史も長いし教えが場所を変え、中身を変えて多岐にわたっています。


私の場合、大概は読んでいる本の中に紹介されたり参照されたりしている中から次に読む本をネット検索して「買いたい本」として登録しておき、大きな本屋さんに行った時にそれがあれば、中身をパラパラ読んでお財布の中身と相談して買うかどうか決めることにしています。
本書のように、本屋さんでチラ見してというのはむしろ例外です。
そこにこだわっていたら、「買いたい本」が永遠に買えなくなりますから。
だから『イエスとブッダ』というタイトルをうる覚えで忘れてしまい、あとになって『ブッダとイエス』と倒置して検索しても、著者の名前を覚えていなかった私には例の漫画が出てくるだけで、本書に辿り着けないのでした。
数カ月して初夏になって新宿の紀伊国屋書店3階にゆき、ある経典の解説書を探すために仏教書コーナーを眺めていたら、アルボムッレ・スマナサーラ氏のコーナーの隣に、この本を見つけました。
灯台下暗しとはまさにこのことです。


この本、副題は『いのちに帰る』ですが、表紙に『聖霊はマインドフルネスである』とあります。
マインドフルネスとは仏教の瞑想を源流にして医療目的の臨床行為としてアメリカで開発された「現在自己の内外で起こっていることに意識を向ける技法」です。
仏教の瞑想(ヨーガ行)をあらわす言葉に「止観」があり、「止」は心を鎮めて本源の真理にとどまること、「観」は不動の心が智慧のはたらきとなって、ものごとを真理に即して正しく観察することなのですが、医療行為としてのマインドフルネスは、観の方を自分の内面や周囲を観察することと置き換えて考えても良いかもしれません。
お寺の関係者にたまたまマインドフルネスを実践し教えている方が居て、副題を見たときに「あれっ、こんなところで出会った」と驚いたのですが、目次をめくってみて納得しました。
この本の中身は、ベトナム出身の禅僧である著者(本を読んだ後に経歴を知って少なからずショックを受けましたが、この本を読んでいる時には気に留めていませんでした)が、南フランスの田舎にある自己が主催するプラム・ビレッジと名付けられた瞑想センターにおいて、宗教、宗派に関係なくマインドフルネスを実践するなかで、クリスマスを前に開いた特別なセッションの翻訳だったのです。
今年(2022年)1月22日に96歳で遷化された(お亡くなりになった)のを受けて、キリスト教系の書店にもコーナーが設けられ、私はそれを偶然見かけたのでした。


本を手に取って最初は仏教徒がキリストの誕生を祝うなんて…と思ったのですが、のっけからこの本は異教間の対話を目指しているということがひしひしと伝わってきました。
最初に「日本語版への特別な序」があり、その中で複数の宗教が共存する日本の文化を踏まえたうえで、「お互い同士が理解しあい、受け入れ合い、慈悲といたわりを持つこと、無分別と不二を実践し、自然を敬い、生態系を守ること……偉大な文明や文化がもつこのような資質、諸要素は、仏教の実践によって現代の日本社会にかならず実現されるはずだし、西洋文化に根を持ちながら、いまや日本文化の遺産の一部になっているキリスト教もまた、あなたがたに同様の語り掛けをしてくれるでしょう」と書いています。
そして冒頭の第1章では「双方が自分を変える意思を示すときにこそ真の対話が成立し」、「真実は自分の属している共同体の中からだけではなく、その外部からも受け取ることができるという事実を、私たちは十分に認識しておかなければならない」と語りかけています。
教会でも司祭が「キリスト教を深く理解することが仏教理解につながり、逆に仏教を知ろうと努力することが、自己の中にキリストを見出す助けになり得るはずだ」という趣旨のことを仰っているのを聴いたことがあります。
そして、「異宗教間の対話で最も基本的な原則は、まずその対話が自己の中ではじめられなければならず、他者や世界との平和的な関係や世界と私の平和を打ち立てる力は、この自己内部の平和にかかっているのです」と続きます。


もしも両親や家族、組織、社会、あるいは自分の宗教の教会や寺院との間に諍いが起こった時には、おそらくその人の心の中も穏やかではないはずで、そこから平安を取り戻す作業として、まず自分自身に戻って自分の中の様々な要素、すなわち感受作用(受)、認識作用(想)、判断作用(行)を調和させることが必要で、自己の内部を深く見つめる瞑想の修練が大切なのはこのためだと著者は説いています。
仏教に少し詳しい人なら、「受想行」とくれば、前に「色」、後に「識」がついて「色・受・想・行・識」で五蘊(ごうん)という人間の肉体と精神を5つの集まりにわけて示したものだと理解できるでしょう。
般若心経にもお弟子さんの名前を呼んだ後に「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。」という有名なくだりがあります。
(人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)である)
「色」が物質的存在なら、同音の「識」は人間の意識や生命力、心ですから、これに挟まれた「受想行」という私たちの心の作用(動き)を平和的に調和させる作業が最初に必要だという著者の主張はにわか寺男の私でもよくわかります。

逆を言えば、そこが歪んでいたら何を見ても不正に思え、何をやっても徒労におわるということでしょう。

(この本は対立を煽るような内容に思えたので、お勧めしません)
なぜ「キリスト教か仏教か」という“or”の関係ではなく、「キリスト教も仏教も」という“not only A but also B”の関係にならないのか、ずっと不思議に思っていました。
天地の創造主、全能の父である神を信じることと、仏の悟った真理、すなわち仏法を信じることとはひとりの人間の中で本当に両立しないのでしょうか。
本当に「彼方立てれば此方が立たぬ」の関係なのでしょうか。
しかし、ティク・ナット・ハン師のことばに耳を傾けたら、そう考えた瞬間から既に自己の中で異宗教間の対話は始まっていることになります。

そこで「キリスト教なんて」「仏教なんぞ」「宗教なんか」と手前みそなレッテルを貼って対話を遮断してしまったら、或いは自分が信じている宗教(別に宗教ではなくても常識とか信念でもよいのですが)こそが真理真実であり、それ以外はみな虚偽や誤謬であると頭から断じてしまったなら、そこから先の対話へは一切進めなくなり、自己の内面において「もはや口舌を以ては如何ともし難し」という状況になります。

そうなったら自己の内言の放棄とも呼べる愚かな結末です。

案外、個人が暴力(力とは限りません。言葉によるものやネグレクトも含みます)にうったえたり、国家が戦争をはじめたりするのも、そのような心性からはじまるのかもしれません。
これは違う宗教を信じる人の間に限らず、自分と立場を異にする人、たとえば宗教を信じている人とそういうものを一切信じない世俗的な人、強い人と弱い人、健康な人と病気の人、権力を持つ人と持たない人の間でも同じではないでしょうか。
だとしたら、まず自分の心を普段から平和裏に整えておくこと、それは瞑想でもよいし、「理解されるよりは理解することを私が求めますように」と神に祈ることでも良いのですが、両方習慣的にできたならなお良いのではないかと思いました。

これは学問や金儲けよりももっと優先されることだと思います。

なぜなら上述のように、歪んだ「受・想・行」を是正しないまま生きていたら、名誉も財産も自己にとって却って毒になりかねないのですから。
今回も長くなってしまったのでそろそろ終わりにしたいと思います。
どうしてキリスト教書店でティク・ナット・ハン師の本に出会ったのかは今をもって謎ですが、それまで仏教書も読んでいたことと、宗教の間で少なからず板挟みにあっていたこと、ちょっとした信仰に対する危機が訪れていたことから考えると、何やら暗示的にも思えます。
著者の著作に関しては本書に限らず気付かされることが多かったので、また折に触れてご紹介してゆきたいと思います。

引用『イエスとブッダ いのちに帰る』『生けるブッダ生けるキリスト』ティク・ナット・ハン著 池田久代訳 春秋社刊