旧甲州街道にブロンプトンをつれて 1.内藤新宿(その3) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

新宿2丁目交差点から新宿通りを西へ、200m先の明治通りと交差する新宿3丁目交差点で、旧甲州街道は左へ折れて南へ、旧甲州街道の脇往還にあたる旧青梅街道は直進してそのまま東口駅前広場(いわゆるアルタ前)へと分岐します。
つまり、新宿3丁目交差点は、その昔は宿場外れの追分だったのです。
その名残を残すのは、北東角にある追分交番の名前だけです。
因みにこの交番、1971年のクリスマス・イブの晩に、脇にクリスマス・ツリーを模した爆弾を仕掛けられ、警官と通行人が重軽傷を負う爆破事件をおこされています。
のっけから暗い話題でスミマセン。
でも、今の人には50年前にここでそんな事件があったことをおぼえている人が少ないのではないでしょうか。
70年代安保の新左翼による犯行だったそうですが、思想や立場にかかわらず、暴力に取りつかれてしまった人というのは、八つ当たり的に周りの人を巻き込むから始末に悪いわけで、今でこそ爆弾なんて過激な手段はなくても、文章や口頭、態度などで暴力を振るう人間はそこかしこにおります。
そういう人たちから距離を置く意味でも、ひとり旅というのは良い機会だと思うのです。

(新宿元標として交差点にある追分の説明。誰も見ていません)


新宿三丁目交差点の北西角には、アール・デコ様式の伊勢丹百貨店がそびえています。
伊勢丹の創業は1886年(明治19年)、千代田区外神田1丁目(秋葉原駅の西、昌平橋の北詰)においてですが、関東大震災によって焼失後の1930年(昭和5年)にこの地に移転しました。
今でこそ三越と統合しましたが、両者とも日本の代表的な呉服商起源の老舗百貨店で、ここ伊勢丹のもと本店はファッションの伊勢丹として、店舗別年間売り上げ高ランキングの全国1位を続けています。
ファッション・美容業界では「東の新宿伊勢丹、西のうめだ阪急」と呼ばれていて、売上高ベースで2位のうめだ阪急に年間売上高ベースで300億円以上、3位の西武池袋本店には700億円近い差をつけての1位ですから、まさに百貨店の巨人です。
私は近所でアルバイトしていたので、商品搬入口や従業員出入口を観察していましたが、新宿の真ん中にあって、どこか「よそと違う」雰囲気が漂っていました。
そういえば、自分の学校は新宿が起点の小田急線沿線にあったのですが、すごいお金持ちは伊勢丹のオーダーメイドで制服をつくってもらっていました。
私なんか安物の吊るしで済ませていたので、一年もすると制服がくたびれてテカテカになるのですが、伊勢丹製の制服は呉服店としての誇りからか、生地がものすごくよいらしくて、そういう上着を着ている人は、シャツも高価なものをお召だったので、通年でお洒落な制服のまま登下校されているのでした。

伊勢丹と追分交番の間の明治通りを320m北に行った左側にあるのが、花園神社です。
家康の江戸入府以前から存在したらしいですが、内藤新宿が開かれてからは宿場の総鎮守、街の守り神として祀られてきました。
もとは今の伊勢丹百貨店付近にあったものの、その地が大名屋敷として拝領されることになり、寛政年間に氏子の訴えにより今の場所に遷座したそうです。
その際、今の場所には花が咲き乱れていたことから、この名前がつきました。
靖国通り沿いに鎮座する唐獅子像は区の有形文化財です。

変わったところでは、境内に「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑があります。

嘘を肴に酒汲んで、前後を見ずによそ見していたら泣きを見たという歌ですね。

いやぁ、それはやはり自分で自己を見ないと…。

11月の酉の市には露店が明治通り、靖国通りにまで多数出店し、熊手を求める客で賑わいます。
この神社は、私が好きな遠藤周作の『悲しみの歌』という小説に、神社裏手にある新宿ゴールデン街とともに描写されていました。


『悲しみの歌』は、『海と毒薬』の続編ともいえる小説で、『海と毒薬』の主人公として、当時は大学の平医局員だった勝呂医師のその後を描いています。
戦中に軍主導の生体実験に参加したことを隠し、戦後、新宿の裏町で小さな診療所を営む主人公が、貧しい末期ガンの老人に頼まれ、祭りの晩に安楽死を与えたことで、それを嗅ぎつけたジャーナリストが、罪を免れた過去も含めて彼の責任を追及してゆくというお話で、そこに表裏の顔をもつ似非文化人の大学教授やその娘、彼女にちょっかいを出す無気力な大学生たちなどがからんで、ちょっとドタバタ的に話が進みます。
さらに『おバカさん』のガストン・ポナパルドがスピンオフで登場するので、遠藤文学ファンにとってはたまらない作品です。
ネタバレになってしまいますが、お話の最後、マスコミや街の教育者や保護者たちから追い詰められた主人公は霧雨の降るこの神社の境内で、自死を試みます。


『ポケットから睡眠薬の瓶を出し、錠剤を口に入れた。水がないから彼はそれをいくつも歯でかみくだいた。苦い味が舌に残った。それから彼は意識が少しずつ痺れるのを待った。
誰かがそばで泣いているように感じた。その泣き声はガストンのようだった。五時間前に新聞記者の折戸が彼を責めていた時、待合室でガストンがすすり泣いたあの声のようだったからである。
襟にうずめた顔をあげ、医師はあたりを見まわした。勿論、誰もいなかった。
「オー、ノン、ノン。そのこと駄目」
とその声は彼に哀願した。
「死ぬこと駄目。生きてくださーい」
「しかし、私はもう疲れたよ。くたびれたのだ」
「わたくーしもむかし生きていた時疲れました。くたびれました。しかし、わたくーしは最後まで生きましたです」
「あんたが……? あんたはガストンじゃないのかね」
「いえ、ちがいます。わたくーしはガストンではない。わたくーしは……(以下略)」』
(『悲しみの歌』遠藤周作著 新潮文庫刊より)


高校生の頃、この小説が好きで、クラスメイトから「こんな暗い小説のどこがいいの?」とバカにされたものです。
あの時は、いい加減に生きている大学生の気持ちくらいしか分からず、ここに出てくる新聞記者や大学教授など、世間でいわれる成功者には絶対になるまいと思っていましたが、だからといって、主人公のような世間から虐げられる側に立つ勇気も無かったのです。
しかし、自分が他人の悪を追求する立場になりかけ、その後この物語の主人公みたいに自己の弱さから追及される側に回り、そのときに居た場所から石もて追われ、この神社近くのビルの1階でアルバイトをする身になったとき、振り返ってみると、死にたいほど辛いときは、この「オー、ノン、ノン。そのこと駄目」という哀願するような声がいつも聞こえていたような気がしました。
そんなことを思い出して仕事帰りの夜に花園神社に立ち寄ると、周囲の喧騒の中に『悲しみの歌』に登場する弱い立場の人たちの息遣いが聞こえてくるような感じがしました。
40年も前に読んだ小説なのに、忘れられないということは、それくらい、10代の多感な時期に読んだ本は影響があるということなのでしょう。
今の若い人たちは本を読まないといいますが、身近な街を題材にした大衆小説でも良いので、是非感性が豊かなうちに本を読んでみてください。


神社裏手のゴールデン街は、売春防止法施行以前は、いわゆる2丁目の赤線に対する青線だったそうです。
すなわち、1階がバーで2階が経営者の居住区や泊り客用の部屋、そして3階が無許可で売春を行う「ちょい(ん)の間」だったということで、法律によって取り締まりを受けるようになってから、3階部分を廃して今の2階構造になったのでしょう。
今は外国人観光客に人気のゴールデン街ですが、かつては「文壇バー」と呼ばれる店(今でも文庫本を並べているバーはあるらしい)があって、周作先生もお友だちの吉行淳之介氏とよく飲んでいたそうです。
ゴールデン街の遊歩道側の入り口から区役所通りへ出たところには、ガストンのモデルとなったネラン神父(彼はひそかに周作先生の留学を援助していた)がバーテンをしていた「エポぺ」(“Epopée”フランス語で「美しい冒険」の意)というバーがありました。
神父さんが酒場をやるなんてと一般の人には眉をひそめられそうですが、彼は教会にいても相談者の本音は聞けないと、大学の講師をしながら教え子や教会関係者から出資を募って店を構えたそうです。
(残念なことに、エポぺは2011年にネラン神父の死去後まもなく閉店しました。)

そいうえば、自分もはじめてカトリックの神父さんに相談したのは、教会ではなく居酒屋の中だった気が…。

アルコール依存症の相談ではなかったから私のほうは良いのですがね。(笑)
それにしても、昔はこうした人間くさい場所で人というものを観察しながら、周作先生ならぬ、狐狸庵臭作さんが構想を練ったのが『悲しみの歌』だったのでしょうね。

やはり高校生の頃よく聴いていた、サイモン&ガーファンクルの"Sound of silence"にある、“The words of the prophets are written on the subway walls, and tenement halls and whispered in the sound of silence”(預言者の言葉は、地下鉄駅の壁や安アパートの玄関に書かれていて、この沈黙という調べをささやいている)という歌詞がぴったりあてはまる新宿の情景だと思います。
新宿というと、区役所通りの西側にあって東洋一の歓楽街と呼ばれる歌舞伎町ばかりが目立ちますが、あちらこそ戦後の復興都市計画が頓挫することによって1950年代から形成されていった新参者です。


さて、旧甲州街道に戻ります。
新宿3丁目交差点で左折して南下した旧甲州街道は、130mさきの新宿4丁目交差点で右折して、西へ向かいます。
ここが内藤新宿の枡形(鉤の手)です。
ここまでが宿場で、交差点南側には高札場があったようです。
新宿4丁目交差点の南側には東西に玉川上水が流れ、南側の天竜寺境内にある池に分水していたようです。
そこから御苑内を池伝いに東南に流れ、千駄ヶ谷駅の東から隠田川として南下し、原宿の旧渋谷川遊歩道路下を暗渠で宮下公園へと下り、渋谷駅付近で西から流れてきた宇田川に合流するのが、渋谷川の谷です。
逆に新宿3丁目交差点で直進した旧青梅街道は、新宿駅北側の歩行者用地下道(自転車は押し歩き)でJR線をくぐり、思い出横丁の南側を西へ向かって新都心歩道橋下交差点に出て、そこから丸の内線が下を走る青梅街道を、カメラ系家電量販店や浄水場でお馴染みの、神田川に架かる淀橋に向けて谷を下ってゆきます。
地形図をみると、新宿3丁目交差点(追分)付近で、渋谷川と神田川に挟まれた武蔵野台地の主脈尾根が「へ」の字に屈折しており、ここでも旧甲州街道は尾根筋に忠実に枡形を設けて防衛施設としていることが分かります。


そして、新宿4丁目交差点から現代の甲州街道でもある旧甲州街道は、新宿駅南口に向って陸橋をのぼってゆくわけですが、往時もここからは尾根の高みに向ってのぼっていたようです。
その証拠に、新宿駅東側の新宿4丁目交差点の標高は35.5mに対し、同駅西側すぐの西新宿1丁目交差点の標高は39.6mと、490mの間に4m以上の標高差があります。
ちなみに、以前神田川を遡るシリーズでお伝えしたように、山手線内の最高峰は新宿区にある戸山公園内の箱根山(44m)ですが、山手線の駅の最高地点も新宿駅(京王線の駅があるあたりで40m)です。
次点が代々木駅で、西口付近の標高が39.3mとなります。
つまり、この付近の東側に行く場合、両駅のどちらかで下車し、地形を上手によんでいれば、下り坂でゆけるということになります。

陸橋を登り切ると左側にバスタ新宿の入口があります。
私も白馬へ行く際に利用してみましたが、現代の格安旅行の主役です。
ただ、いかんせん高速バスは狭くて長時間乗車は窮屈なのと車窓に難点があります。
スキー場へアルバイトに行く際も、高速バスなら割引が利くところ、自腹を切って鉄道で往復していました。
こういうことを書くと、旅情ロマンチストの誹りを受けかねませんが、高速バスの車窓は学びに乏しいのは事実です。
だから、私は経済合理性を考慮してもなおかつ鉄道派で、日本がアメリカの後追いをして、グレイハウンド社に代表されるような高速道路網+長距離バスばかりの公共交通になってしまうのは反対です。
よく、鉄道は施設維持にお金がかかりすぎるといいますが、高速道路だって利用者負担のほかに、管理維持と整備のために莫大な国家財政が投入されています。
さらに燃料に二重に税をかけることによって、さらに利用者から搾取しているわけですから、そこからピンハネしている一部の人には都合が良くても、公共経済的な合理性はあまりありません。
ということで、次回は新宿駅南口と新南口に挟まれた地点から、旧(・現)甲州街道を西へ向かいたいと思います。