旧甲州街道にブロンプトンをつれて 1.内藤新宿(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

新宿1丁目西交差点から、旧甲州街道(新宿通り)を西に向かいます。
新宿1丁目という住所だけきくと新宿の中心に思えますが、駅や区役所よりずいぶん東寄りです。
因みに新宿区新宿1丁目1番地は新宿御苑の大木戸門前です。
これは前回説明した通り、内藤新宿という宿場の中心がこちらにあったからです。
前回、内藤新宿は浅草の豪商たちの請願によって設置されてから20年足らずで、風紀取り締まり(岡場所として私娼が増えた)によって閉鎖されたと書きました。
宿場をもういちど開こうと、その後何度か再開願いが出されるも却下され、54年後の1772年、幕府の政策が緊縮財政贅沢禁止から消費拡大に舵を切られたこともあり、東海道の品川宿や中山道の板橋宿の飯盛女の数が大幅に緩和されたことに伴い、内藤新宿は再開を許可され、飯盛女(公娼)も150人まで置くことを認められました。
再開された内藤新宿は幕末の頃には旅籠が50軒、遊女を呼んで酒宴を催す引手茶屋が80軒と繁栄します。


旧東海道の品川宿でも書きましたが、江戸時代の日本橋からひとつ目の宿場は、旅立ちにあたって見送りの人たちと酒宴を催すことが多かったようです。
その時代の旅は気が向いたらちょっと京都までというわけにはいかず、何年も前から準備して、いざ旅立っても山賊に襲われて殺されたり、病で行き倒れになったりする危険もありますから、今生の別れの盃という意味合いも含まれていたのかもしれません。
司馬遼太郎の『燃えよ剣』には、鳥羽伏見の戦いの後、官軍(西軍)が東海道と中山道両方から江戸に向って進撃している頃、関東にいると官軍の江戸入城の際に暴発しかねない旧新選組隊士たちに、勝海舟が甲府城分捕りを教唆し、浅草弾左衛門配下という穢多頭配下の、いわゆる被差別民をつけることで急ごしらえの甲陽鎮撫隊という二百人たらずの一軍を組織して、甲州街道を西に向かわせたときの様子が描写されていました。
先に甲府城を押さえた方が圧倒的に有利という状況において、官軍側である東山道方面軍は1868年3月7日に砲車をひいて京都御所を出発、3日後の3月10日には大垣に着きました。
そして中山道から甲州街道が分岐する下諏訪に着陣したのが3月24日です。


『この同じ日に、近藤、歳三ら新選組を主軸とする「甲陽鎮撫隊」二百人が、江戸四谷の大木戸を甲州へ向かって出発した。
第一日目の行軍は、わずか三キロ。
歩いたとおもえば、はや、
「新宿の遊女屋泊り」
という行軍であった。新宿の遊女屋をぜんぶ隊で借りきった。
「歳、にがい顔するもんじゃねぇ」
と、近藤は、いった。
「これも戦法だ」
近藤のいうとおりである。二十数人の新選組隊士をのぞいては、みな、刀の差し方も知らぬ浅草弾左衛門の子分どもで、これをにわかに戦さ場にかり出すには、それなりの手練手管が要った。
「まあ、見ておれ、一ツ屋根の下で女を抱くと、あくる日は、一年も一ツ釜のめしを食ったようにびしっと二百人の呼吸があうものだ」
歳三だけは、高松喜六という宿でとまり、女をちかづけなかった。
隊士が気をつかったが、近藤は捨てておけ、といった。
「あいつは年若のころから猫のようなやつで、人前では色事をしない」
翌朝、出発。』(司馬遼太郎著『燃えよ剣(下)』新潮文庫刊より)


上記引用は縦書きを横書きにしただけで、改行や句読点はそのままですが、司馬氏の小説らしい独特のテンポが良くあらわれています。
はじめて時代小説を読む初心者にはお勧めです。
改行がやたら多いので、馴れるとボリュームのわりには読むのに時間がかかりませんから。
なお、『燃えよ剣』の主人公は上記の通り土方歳三で、あの一枚だけ残っている写真の風貌から女性ファンが多いわけで、内藤新宿の部分だけ読むと、いくさを前にして青白く燃えて女を寄せ付けない様子ですが、小説の冒頭は彼の若い頃の性の滾(たぎ)りからはじまります。
この時代の話ですが、これから読もうというファンの女性はお覚悟を。
あ、そんなことはどうでも良いのです。(笑)

官軍が山越えの続く317㎞の中山道を、背嚢を背負い、銃を担いで砲を曳きながら三条大橋から下諏訪までわずか17日で踏破しているのに対し、甲陽鎮撫隊は初日にたったの3㎞進軍。

(四谷大木戸からだと内藤新宿は目の前で1㎞もありませんから、上記小説は「四谷御門」の間違いだと思われます)

それにしても、宿場で女性を買って結束を固める以前に、出発時点で負けが決まっているようなものです。
これは東山道軍の話ですが、東海道を進んだ西郷率いる本軍は、東征にあたって沿道の徳川親藩から何ら抵抗を受けていません。
そうした中で、甲府で一戦交えようとする甲陽鎮撫隊は、近藤や土方は大真面目でも、傍で見ていたら珍奇な集団だったのかもしれません。
近藤は大名駕籠にのっていたというし。
(身分は大名クラスに取りたてられていました。)
著者も書いていました。
徳川幕府が瓦解するその刹那に、一国の大名になることを夢見たのは近藤勇ただ一人だったと。
急遽動員され訓練もままならない状態で対ウクライナの前線に送り込まれる、まるで現代のロシア兵みたいです。
あとで史家によって「連邦が瓦解する刹那に、領土拡張を目指したのは彼ひとりだった」なんて書かれませんように。


新宿1丁目西交差点の向こうは、新宿2丁目です。
新宿通りの進行方向右(北)側は、ご存知ゲイ・タウン。
上記引手茶屋が戦後赤線(公娼が認められていた地域)になっていたところ、1958年の売春防止法の施行に伴って空き家となり、そこがオカマ・バーとして再利用されたところから、今の状態に発展してきたとか。
私はゲイではないけれど、長いこと「同性愛者は精神病質者だ」という時代を生きてきて、日本語では同音になってしまう性的嗜好(Sexual preference)と性的指向(Sexual orientation)の区別もつきませんでした。
しかし今では同性愛者の中にもそうでない人と同様に、健常者と病者がいるということを承知しています。
病気かどうかは性的指向とは何の関係もありません。
同性愛者だというだけで差別する自己の心こそ病的気質なのでしょう。
今回、ここが宿場だったことを示す店名がゲイバーにあるかと思ってリストを見たのですが、見つけられませんでした。
歴女ならぬ歴ゲイっていらっしゃるのでしょうか。
「オカマバー、もとはオカバの夢の跡」


新宿1丁目交差点から310m新宿通りを西へ進むと、新宿2丁目交差点です。
交差するのは都道305号線のバイパスです。
都道305号線はこの辺りは明治通りと重なっているのですが、こちらのバイパスは御苑通りと名前がついています。
左に折れてすぐの突き当りが、新宿御苑の新宿門にあたるからでしょう。
新宿御苑は前回ご紹介した大木戸門とここ新宿門、そして南側に千駄ヶ谷門と3つの出入り口がありますが、どれも自転車置き場があります。
また、苑内には外周道路がランニングコースになっており、朝7時~9時の間に限って走れるそうです。
皇居外周よりも排ガスは少なそうですし、その時間帯なら歩いている人も少なくて走り易いかもしれません。
走った後のシャワーや着替えは、バスタ新宿近くにある夜行バス客向けのカプセルホテルや、歌舞伎町の入浴施設、千駄ヶ谷門側の神宮外苑にもランニング・ステーションがあります。
ブロンプトンならそういう格好にランニング・シューズを履いてここまで来て、上に何かを羽織って家でシャワー浴びるという手もありますけれどね。


新宿2丁目交差点の南西角には、画材・文具専門店として有名な世界堂新宿本店があります。
とくにここ本店は品揃えが豊富で、文具の実店舗販売では珍しい値引きとポイント還元があるので、絵に興味のない人でも一見の価値はあります。
私が両替店でアルバイトしていたときも、インバウンド客がここの場所を聞いてくることがよくありましたし、これから海外へ戻る日本人が、お土産として安くて質の良い文具を大人買いしている話もききました。
かつて秋葉原にあったオーディオ専門店と同じく、世界堂も上階へ行けばゆくほどマニアックになります。
私にもう少し空間認知能力と絵心があったら、友だちのように小さなスケッチブックと油性の色鉛筆をブロンプトンのフロントバッグに忍ばせて、ここぞという場所で、畳みかけたブロンプトンのハンドルにフォールディング・スタンドをたて掛けてお絵描きと洒落こむのですが、どうも私にはゆっくり一か所に留まってのんびり風景画を描いている時間があったら、この先にもっと美しい場所があるのではないかと先を急いでしまう性分なようです。
でも、世界堂には御朱印帳やフィールドワークに使える測量野帳も売っています。
他にも御苑通りを右折して140mいった右側には、ブロンプトンをはじめ折りたたみ自転車を扱うワイズロード新宿本店もあります。


次回はここ新宿2丁目交差点から新宿通り(旧甲州街道)を西へ向かいます。