人間を神さまにしてはいけません―今話題の宗教団体について考える | 旅はブロンプトンをつれて

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「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」
こう発言したのは、最後の海軍大将井上成美氏です。
背景を説明すると、戦前、海軍には兵機一系化問題(海軍機関科問題とも)というのがありました。
簡単に言うと、船の上で操船しながら兵器を操りドンパチやる将校(兵科)と、船底でボイラー炊いて船を動かす将校(機関科)とを統合するか否かという問題です。
旧海軍は昔の水軍からの伝統を引き摺り、船を漕ぐ水夫は、船の上で弓を射たり刀や槍を振り回したりする侍よりもずっと低い身分だったように、軍艦の動力を担当する兵士たちは、指揮権、階級制度、給与、養成機関などでことごとく差別されていました。
同じ海軍将校といっても、かたや江田島の兵学校出身で、かたや舞鶴機関学校出身では、前者は出世すれば艦長や提督、海軍大臣になれても、後者はせいぜい機関長か、陸に上がって軍政官に転じても局長止りでした。
(ほかに築地にあった海軍経理学校で会計を学ぶ主計科もありました)
会社でいったら、営業からはじまっていずれは管理職を昇りつめてゆく一般総合職に対し、ずっと管財課で過ごすことを義務付けられ、職能制度を飛び越えることのできない技能採用職の人みたいなものです。
客船の世界では乗船客にも明確な等級があるように、船乗り軍人たちにも厳然たる身分制度があったのでした。


当然、両者の仲はよくなく、兵科出身の将校は「戦っているのは俺たちだ」と威張って機関科を見下し、機関科出身者は「俺たちが船を動かさなければあいつらは何もできないくせに」両者がギクシャクしては戦争どころではない、できれば統合してひとつにまとめたいと、旧海軍においては長年の懸案事項になっていました。
井上成美氏は、太平洋戦争開戦前の時期、横須賀鎮守府参謀長から軍令部に転じた際に、この問題に熱心に取り組みました。
のちに海軍省軍務局長になって、山本五十六、米内光正ととも日独伊三国同盟締結に強硬に反対し、「海軍左派三羽カラス」と呼ばれ、自らも私のリベラリズム(自由主義)は、上に「ラディカル」(急進派)がつきますと言っていたくらいですから、かなり大胆に海軍組織改革を計画したみたいです。
当然、「あいつらと一緒なんてごめんだ」という兵科の保守派からは妨害が入ります。
彼らは井上氏が頑として改革路線を曲げないと知ると、日本海海戦でバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめして日露戦争を勝利に導き、当時は既に現役を退いていた東郷平八郎のもとに相談にゆきます。
彼は「罐焚き(=機関科将校たちのこと)どもが、まだそんなことを言っているか!」と一喝し、鶴の一声で改革は取りやめになりました。


すぐ後に提督が亡くなった際には、小学生が「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」と新聞に投書が載り、その後神格化され、東郷神社が今に続いているのはご存じのとおりですから、晩年にもすでに海軍内では天の一声を発する神様扱いだったのでしょう。
冒頭の「人間を神様にしてはいけません…」という表現は、この兵機一系化問題を潰された際、井上氏が発した言葉です。
この問題は太平洋戦争末期にようやく両科が統合されることで解決をみましたが、その時点では既に海軍の主要な艦船は海戦や空襲で喪失しており、残った船舶も燃料が不足していて動かせず、主な対空兵器は陸上用にと移設のために撤去され、艦は軍港内に錨泊して防空砲台として使われている有様でした。
つまり、機関科出身の将校が機銃を撃とうにも撃つ銃が無く、兵科出身の将校が軍艦を動かそうと窯を焚こうにも火が入らない状況での統合だったのです。
海軍だけでなく、全国民から神様として崇められていた東郷提督も、晩年には軍縮や組織改革を握りつぶす老害に成り果てて、「東郷バカネ」(当時あった東郷ハガネという鉋ブランドをもじったあだ名)と海軍内では裏で揶揄されていました。
もちろん、東郷元帥本人は生前、自己の神格化を拒んでいたらしいですが、彼を神輿として担いで事態を自分等の思い通りに運ぼうとする集団がいたのでしょう。
この例は、周囲の人間が自分勝手な意見を通す目的で、ある人を神様まつり上げてしまったために、却って事態を悪くした典型でしょう。


なぜこんな話を長々と書いてきたかというと、人間を神さまにすることの危険性を、宗教抜きで説明したかったからです。
日本にはこれ以外も戦前の国家神道で現人神をいただいたことがありましたよね。
あれなども、彼を担ぐことによって軍人たちが「統帥権干犯」などと好き勝手にやって国を戦争に引き摺り込んだ経緯がありました。

人を神にした規模も大きければ、結果の甚大さも破滅的でした。
あの戦争、侵略と防衛両方の側面があったのは承知していますが、それは別にして、神さまにされた人が、いい迷惑だったと思います。
日本の神様とは、中に何でも入る容れ物のような存在だと本で読んだことがありました。
だから、祖先でも、ついこの間亡くなった人でも、極端なことを言えば生きている人間でも神さまになれます。
これって、遠藤周作の小説『沈黙』のなかで、主人公(ロドリゴ神父)に棄教を勧める先輩の(フェレイラ)元司祭が言っていた次のことばに端的に表れているとおもいます。

(聖書は確かに難解ですが、暗号というほどのものではありません)
『「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った。「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」
 その言葉は動かしがたい岩のような重みで司祭の胸にのしかかってきた。それは彼が子供の時、神は存在すると始めて教えられた時のような重力をもっていた。
「日本人は人間とは隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない。」
「基督教の教会はすべての国と土地とを越えて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」
「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。」』(『沈黙』遠藤周作著 新潮文庫刊)


多神教と一神教の違いなどともいわれますが、別に信者にならなくても、聖書を読んでキリスト教を少し学べば、神と人は全く別個の存在であり、神は絶対的な存在で人のような相対的存在ではないとすぐに気が付きます。
人間は神の似姿ではあっても、死んで天国に行こうが神さまには絶対になれないし、神さまが(自分の子を人間として遣わすということはあっても)人になって元には戻らないということはありません。
この神と人との断絶は、ユダヤ教もイスラム教も同じです。
人間を超えた存在(Higher Power)とは、あくまでも「人を超越した存在」であって、他より優秀な人でも、普通の人間を越えている人でも、たまたま枕元に神さまがあらわれてお告げを授かった人でも、それによって奇跡を起こした人でもないのです。
こうした唯一絶対の神を信じる人というのは、そうでない人からしたら、狂気の沙汰に見えるかもしれません。

だから仏教のほうが科学的だということを言う人がいますが、どうなのでしょう。

お釈迦様だって「神はいない」とは言っておらず、「存在するしないを考えない」と述べただけですからね。

(解説書を読むのなら、できるだけ多くの、できれば古典といわれる本を紐解いてみることをお勧めします)
では、キリスト教における神さまとはどんな存在なのでしょう。

イエスが十字架に磔にされた際、聖書には次のようなやり取りが記録されています。
『そこを通りかかった人は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら自分を救ってみろ、そして十字架から降りてこい。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、神に救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。』(マタイによる福音書 27章39節~44節)
この文脈だけ読むと、キリストはどうしようもないほど無力な存在です。
しかし、神の最も偉大な業(わざ)は、人間の罪咎を取り除くところにあり、その顕現は、罪を裁いたり罰したりする行為にではなく、罪を赦す憐み深さの中にあることを理解すれば、磔刑に処せられて上記罵倒に一言も反応せず、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死を迎えるイエスの姿は、逆にどこまでも憐み深い神の全能を示しているように思えてきます。


『十字架にかけられて苦しみを極みまで苦しみぬき、神から遺棄されたままで死を迎えたイエス・キリストは人の目には無力と弱さそのものであった。
その十字架のイエスについて使徒パウロは「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです」と語り、また「神の弱さは人よりも強い」と宣言する。
つまり神はわれわれ人間の目には無力と見えるところにおいて真実に強いのであり、神の力は弱さにおいて顕示されるのである。』
(『神とは何か―哲学としてのキリスト教』稲垣良典著 講談社現代新書)
このように、神の業と人間の行為とは「力」という点において完全に倒置されています。

だから人間の行為=神の御業にはなり得ないし、人間が神になることなどあり得ないのです。
ところが、今問題になっている宗教団体は、上記に基づいたキリスト教の神の概念について、以下の点で相容れないと、カトリック中央協議会が1985年に声明を出しています。
的を絞って要約すれば、次のようになります。


1.私たちの信仰によれば、キリストは神のみことばであり、神の啓示の完成者だが、彼らによると、キリストの啓示は不完全で、教祖(夫妻)こそすべての啓示を完成する真のメシアで最後の救い主になっている。
2.わたしたちは、キリストは人となった神であり、そこに御父の私たちにたいする深い愛を信じるものだが、彼らによるとキリストは神であることを否定し、ただの人間にすぎないとしている。
3.私たちの信仰は、キリストの十字架が私たちの罪をつぐなう救いであり、恵みの源であることを宣言するが、彼らは、十字架が失敗と敗北にすぎなかったとし、そのために、教祖(夫妻)が神から真の救い主としての使命を授けられたとしている。


もう35年以上前の文章なのに、見事に人間を神さまにして、逆に神を人間になり下げているかの教義の中身が見て取れます。
キリスト教を名乗りながら、もしあの団体が上記の通りの教えを広めているのなら、もはやキリスト教ではあり得ません。
韓国では学校を、米国ではビジネスを手広く経営していると聞きますが、これらの国で被害が報告されず、日本だけが信者のマインドコントロールと、その経済的被害を訴えているのは、上記のように、人間を神さまにしてしまう日本人の心性も関係しているのかもしれません。
(確かにかの団体のホームページをみると、上記のような主張はあらわれておらず、一部仏教的な価値観を取り入れた、キリスト教に見えます。)
韓国でも米国でも、いくら世俗化しているとはいえ、どこの国はアダムだのイブだの、「私が真のメシアだ」と名乗る人間だのをカトリックであれ、プロテスタントであれ、まともなキリスト教徒だけではなく、聖書を教養として読んでいる常識人がとりあうはずもありませんから。
逆に言うと、きちんとした宗教教育を受けておらず、何でも神さまにしてOKかつ、人間を超えたものだけが神という概念のない素朴な日本人の宗教的な純粋さの弱点を突くことで、上手に信者を増やしているのかもしれません。

さらにキリスト教は、神とひとりの人間との関係性を問題にする宗教なので、先祖供養(あの団体では先祖解怨というそうです)とか回向(還元祈願)などという考えはありません。
ましてや、そのために多額のお布施(献金)を募るなど、考えられません。

そのお金で「コングロマリット」(多業種に跨る巨大企業)を運営しているのなら、まさに教祖が神としてお金に拝跪する偽宗教です。

それにしても、人は生まれてくる場所を選べないのだから、祝福二世と呼ばれる人たちは気の毒です。

上記稲垣氏の書籍では、「人間が神になる」(神化する)ということは、「神の神性に与かる」「神の命によって生きる・神の命を神とともに共有する」ということであって、人目を惹くような仕方で現れたり、人びとを驚かせ、感歎の的となり、時としては熱狂的信者集団を生むような超人的能力を身につけることとは何の関係もない、と断ったうえで、わが国では真の宗教と偽りの宗教について、上記のような神がかり的な業にまで範囲を拡大解釈する傾向があり、その原因として、真偽の区別を明確にする努力を軽視している現状と、知恵(智慧)と科学的知識の区別を無視し、(いわゆる哲学を学ぶ人間だけではなく、すべての人にとっての)知恵の探究の重要性が認識されていない教育の問題をあげています。
選挙に勝つためなら悪魔とだって手を結ぶと考え、数の力ばかりを信じて無力などにはこれっぽっちも興味のない政治家のセンセイ方や、教義に立ち入らずにガチャガチャと感情的な議論に終始しているメディアはさておき、良い機会だから「日本人のとっての神」、「私にとっての神」とは何か、秋の夜長に読書をしながら、旅をしながら静かに考えてみては如何でしょうか。
今年もまた、あのコマーシャリズムにのったベルの音が喧しいクリスマスが来る前に。