ブロンプトンをつれた旅のエピローグ(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(その1からの続き)
一般の宿泊施設において、朝に食事よりも遅くまで利用可能なのがお風呂ですから、汗を流すのは朝食後という形になることが多くなります。
温泉宿で源泉かけ流しの場合、24時間利用可能の宿もありますが、大概は大浴場、露天風呂とも清掃が入り、そのタイミングはチェックアウト前後の施設が多いと思います。
朝に運動して、その後で食事と水分補給して、それから温泉に浸かると、学生時代の合宿中における朝練を思い出します。
寝起きの朝風呂と違い、既に覚醒はしているので、ほんわかした心地よさに包まれます。
スキーをした後の温泉もそうなのですが、いったん運動で使った身体がほぐれてゆくような感覚は、定期的な運動をしている人ならお分かりと思うのですが、癖になります。
ただ、長風呂をすると疲れてしまうので、身体を洗ったら湯船は短めにして、早々に部屋に引き上げるようにしています。
チェックアウトの時間と、帰りの電車の時間があるので、マイカーで来る旅行と違い、あまりグダグダとはできません。

部屋に帰ると、冷たい水を飲みながら読書します。
この時間にする読書は、旅先ならではの贅沢だと思います。
朝に運動をしていないと眠くなってしまうのですが、有酸素運動をしたせいかもっとも効率があがる時間帯です。
私は学生でないからやりませんが、試験勉強をしたり、レポートを書いたりするのに最も適した時間かもしれません。
本当はこの時間帯にブログを書きたいところですが、旅先では極力荷物を減らすため、メモくらいしか持ってきていません。
けれども、先ほど走った時に見たもの、感じたことなどをキーワードだけでも書きとっておくと、あとでブログを書く際の参考になります。
iPhoneやタブレットにメモすればよいという人もいますが、あれらは起動したり電源を落としたりしているうちに記憶が薄れるし、パラパラと俯瞰できないしということで使いません。
帰りの荷造りをする時間もここです。
荷物が多くて往路もホテルまで送った場合、お土産がある場合などは、フロントで自宅までの送付手続きをします。
そしてアラームをチェックアウト予定時刻5分前にセットし、時間の許す限り部屋で読書しています。

チェックアウトの時間から、駅で帰りの電車や新幹線、あるいは空港へ向かうバスなどの時間まで多少の間がある時、そしてある程度の規模の都市に宿泊した場合は、ここでブロンプトンを活用し、観光客相手ではなく、地元の人がゆくようなお店を巡ってお土産を探し、珍しいものがあれば購入して送ったり、地場の本屋さんによって地元の本を立ち読みしたりします。
この時間に地元の本屋さんに行くと、珍しい本に出会う確率が高い気がします。
天気が悪い場合は、送迎バスやタクシーを使って最寄りの駅までゆき、そこからターミナル駅、空港まで移動して列車や飛行機の時間を待ちます。
空港はともかく、駅の方は週末平日にかかわらず、その地方の様子がよく感じられます。
以上のような理由から、最終日は県庁所在地などのターミナル駅近くのホテルを選んで泊まるということもよくやっています。
帰るのに便利ですし、幹線道路のロードサイドとは違い、その土地ならではのお店や本屋さんがありますから。

(上諏訪駅)
そしていよいよ新幹線や航空機を利用した長距離移動にかかるわけですが、ここでぐっすり寝るか、意識があれば車窓を楽しむか、読書をするかです。
まだ午前中ですが、起床が4時くらいだとすでに7,8時間は経過しているわけで、6時起床の人にとっての13時、14時と同じですから、反動がきて眠くなることが多いのです。
そして短い時間の眠りであっても、頭がすっきりするのがこの時間帯の居眠りの特徴です。
睡眠は時間の長さよりも、リズムと質だと実感する瞬間です。
起きている場合でも、往路と違い、帰路の車窓というのは非日常から日常へとだんだん戻ってゆく感覚で、その逆の往路よりもワクワクする気分が減退するのですが、旧道を辿っていると、映像の巻き戻しを見ているような気持になります。
あそこではこんなものを見た、あそこではこんなことがあったなどと反芻しながら帰るというのは記憶の整理にもなります。

また、時々車窓に目をやりながらの読書というのも、今回旅行した目的地に関連のある小説や地誌等の場合はとくに感慨深いものがありますが、そうでなかったとしても、頁を読み進めてゆく自己と、列車の進行がシンクロして、ひと所でじっと読むよりも先へ進むことがよくあります。
飛行機からの眺めについては、これは往路であろうと復路であろうと、下界が見える場合はリアルサテライトマップ、雲が多い天候だと、文字通り天上の景色ですから、非日常そのもので飽きることはありません。
それに空の上って、天のいと高き所に神の国ありとする神学書や、大宇宙との一体性を説く仏教書を読むのにもってこいの場所だと思います。
最近すっかり国際線はご無沙汰ですが、ヨーロッパやインドへ向かう飛行機のなかで、かの地の古典を読むなんて、わたしにとっては物凄い贅沢な気分になれると感じています。

(上諏訪駅ホームの足湯)
そののちに新幹線や飛行機を降り、そこから最寄りの駅まで来て、最後に自宅までブロンプトンで走るわけですが、ここが旅のフィナーレ、校長先生の訓示にある、「玄関のドアを開けてただいまと言うまでが旅行です」の部分にあたります。
実はブロンプトンをつれた旅のエピローグにおいて、そうでない旅行との違いが際立つのは、このラスト・ランにおいてです。
というのも、ブロンプトンをつれていない旅であれば、冒頭に書いた通り、「疲れているし、荷物も重くて面倒くさいから家までタクシーを奮発しよう」となり易いし、マイカーの旅であれば、もっとも帰路の疲れがたまり、運転が雑になり易い(それこそ危険です)区間にあたるのに、対するブロンプトンでの最寄駅からの帰宅は、電車や航空機の中で寝ていたということもあるかもしれませんが、今回ご紹介した帰宅日早朝のお散歩や走行に近い感じとなり、それがかつて何度も通った通学路で、或いは今も通勤、通学に使っている道であったとしても、普段とはちょっと違う、いつもとは別の立ち位置で自宅の周囲を眺めているような気分になれるのです。

(茅野駅ホーム)
これは、おそらくは家の近所まで戻ってきていても、旅人気分が未だ抜けておらず、ゆえに第三者的な立場で日常を眺めているような気持になるのだと思います。
もう少し具体的に表現すると、1月からアルバイトでスキー場に詰めていて、3月になって下山して都会に戻ってくると、街はすっかり春の装いに変わっていて、真冬の格好をしている自分だけが浮いているようで戸惑いを感じるような場合です。
スキースクールでは、これを浦島太郎花子現象と呼んで、ネタにしていました。
このブログでも、中央線の旅の特色として、下り列車に秋に乗ると季節が進み、春に乗ると季節が巻き戻る(上り列車はその逆)とご紹介しましたが、旅は国内旅行であっても時差が存在し、ある意味においては時空を超えた性格をもっています。
これをひっくり返せば自己の生活を内省的に眺めながら、旅をしてきた地方のことに思いを馳せていることであり、自己の日常と旅先での非日常が交差する瞬間でもあるわけです。
そしてこの時こそが、読書でいうエピローグを読む際の気持ち、すなわち著者や訳者の気持ちと情緒的に共鳴し合う瞬間によく似ている気がします。
こうした思いは、旅が終わると日常に埋没することで、やがて消えてしまいますが、「終わりよければすべて良し」ではないですけれど、記憶の中には残っていて、「また旅に出よう」というモチベーションの基になります。
言い換えれば、旅を終えて自宅に帰ってきたときのストレンジャー(よそ者的)な感覚が、また旅に出て自分をよそ者の立場に置いて、様々に見聞を広げ、現地の人と交流し、自分を内省しようという勇気の原動力になるのだと思います。

(小淵沢の本屋さん)
そう言われてみれば、エピローグまできっちり読んで印象深かった本は、また同じ作者の別の本を読んでみようという気分になりますし、そうでなくても、著者が巻末に参考文献としてあげている本を読んでみようかなという気持ちになることが多い気がします。
後書きについて、気合を入れて読む人がいないのと同様、旅のエピローグも、身体的には弛緩した走り(ゆるゆると、緊張を解いた走行)になりますが、心の中は豊かで満たされた気持ちでいっぱいになります。
この「虚しく往きて、満ちて帰る」(弘法大師が唐へ渡って帰国した際に詠じたことば)というのは、旅のもっとも大切な要素だと思います。
これはブロンプトンに乗るようになって気が付いたことですが、よくよく考えて見ると、旧道歩きをして帰ってきたときも、似たような気持になっていました。
徒歩旅行の最後は、不思議と贅沢をする気分にはならず、駅からぶらぶら歩きをして帰りたくなりました。
運動をやっていた人ならご存知かと思いますが、走ったあとや泳いだ後にするクールダウンと同じです。
怪我を防止するために準備運動(ウォーミングアップ)を重視する人は多いのですが、運動後のクールダウンもそれと同じくらい重要です。
もし私が旅するランナーだったら、旅の最後は最寄駅から家までジョギングしながら帰ることで、同じ気持ちを与えられたのかもしれません。

(小淵沢駅ホーム)
旅の終わりがこのような結末であったなら、おそらくは、家に帰ってお土産を渡したり、旅先での体験談を話したりする以前に、「ただいま戻りました」の一言で、旅に出なかった家人から、或いは職場復帰して会う仕事仲間から、「旅に出て、ひと回り大きくなって戻って来たな」と感じてもらえるのではないでしょうか。
長いこと旅を仕事にしてきて、なぜ諺に「かわいい子には旅をさせよ」というのか、上手く説明できなかったのですが、読書同様に、日常と非日常を往き来する旅は、人間の成長に必要不可欠であり、よい旅を積み重ねれば、その人の成長に資する旅(経験)をさらに積み上げてゆくことができる、という事実を指しているのだと思います。
逆を言えば、幾度あちこちへ旅して、どんな人と交流しを繰り返しても、質(旅にかけるお金ではない)を下げるような旅ばかり繰り返したなら、そこには何の成長も無いということになります。

では、旅の質を下げないようにするにはどうしたらよいか?

私は旅する人の心のありように尽きる気がします。
会社の上司に、パスポートを何冊も机に並べ、自分がいかにたくさんの旅をしてきたか得意になって喋る人がおりましたが、自己の努力やその結果としての昇進を自慢するばかりで、そこから何を学びとり、どんな自分を見出したのかについては全く触れないのです。
そして威張り散らして「悔しかったらお前たちも自分のようにやってみろ」と部下たちにマウント(本人はハッパをかけているつもり)するものだから、皆から嫌われ、「いくら出世して偉くなってもあれではね」とお客様からも煙たがられておりました。
あの人は、最初に書いたように、知識量や読書量、そして自己の地位を自慢するばかりで、生徒や学生たちには「教え導いてやっているのだ」という上から目線で、彼らからは一向に学ぼうとしない教育者様たちと同じです。
これは、旅においても読書においても、自分がどんな身分、どんな状況にあっても謙虚な気持ちを持ち続け、その質をあげてゆく自己努力をいくつになっても続けてゆく大切さを示しているのではないでしょうか。

人間は地位や名声、財産などがついてくると、知らず知らずのうちに傲慢になってゆくおのれに気付けない、勘違いしやすい生き物です。

身についたそれらを捨てて日常から離れ、徒手空拳でひとり旅人としてストレンジャーになること。

ブロンプトンをつれた旅は、つれているのが小さな折り畳み自転車ゆえに、それをある程度実現してくれるように感じています。
旅や読書に興味のない、それらに価値を見出さない人びとは論外として、拙文を最後まで読んでくださっている方々が、よき旅のエピローグを重ねてゆけるよう、お祈りしております。
(おわり)