コロナ罹患中の読書―福岡伸一著『動的平衡』(木楽舎刊)を読む | 旅はブロンプトンをつれて

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コロナウィルス罹患に陽性反応が出た時、「これで最低でも10日間は読書三昧だし、ブログ記事もいっぱい書ける」と思ったものです。

いくら身体がだるいからといって、食事をしないわけにはゆきませんし、24時間ずっと横になって安静にしているのは無理です。

そうなると、家から出てはいけないのですから、テレビの無い家の中では、本棚の本を読むか、インターネットを見るかしかありません。

しかし、ネット依存症の恐ろしさも知っているので、ネットだけを見続けるのはできるだけ自制しています。

そういう意味でもテレビ無しの生活と読書は役に立っています。

もっとも、本を読めばちょこちょこ調べたくなるものですが、そこからネット検索が止まらなくなることもありますから、どこかで線を引くようにしています。

さあ、それでは枕頭においてある読みかけの本を片っ端から…と思ったのですが、発症初日は頭痛がひどくてとてもではないけれど文字が入って来ません。

頭痛は翌日には散発的になり、3日目はほぼなくなりましたけれど、この間ワクチン接種後の副反応みたいなだるさは続き、とてもではないですが、目に入ってくる文章に集中できません。

そういえば、読書魔の知り合いも、一か月間病院への入院が決まった時に、これでゆっくり本が読めると思ったものの、結局全然読めなかったと退院後に告白していました。

もちろん、ブログの文章書きにも挑戦してみましたが、考えがまとまらず、文もあっち行ったりこっち行ったり、落ち着きません。

こんな時は、「頭が痛くて、ブログを書こうにも中身が支離滅裂」とだけ書いて、一葉の写真とともに投稿すれば良いのかな~とも思ったのですが、ネットは感情のゴミ捨て場ではないと思いなおし、読める本だけ読もうと考えなおしました。

(8月だし戦争系の本を読もうかとも思ったのですが…)

そこで、病気の時に読み易い本とはどんなものだろうかと考えてみました。

消去法でゆくと、登場人物がやたら多くて、人間関係が複雑な長編小説や、最後まで読まないと種明かしがされない推理小説などはパスします。

同じ作家の小説でも、たとえばヘルマン・ヘッセなら短編集『メルヒェン』とか、内容が分かりやすい『シッタールッタ』などはいいけれど、推論をいっぱい働かさねばならない『ガラス玉遊戯』などは絶対無理です。

ややこしい社会科学系や哲学の論文も、自分が普段読まない基礎知識が圧倒的に不足している理系の本も、煩雑な調べ物が必要という点でボツ。

すると、残るは漫画しょうか。

でも、家の本棚には学習用の古い歴史漫画くらいしかありません。

それに、漫画は読書のうちにはいるのかどうか、普段から疑念を感じている自分には、病気の時くらいいいだろうとは思えません。

地方などへゆくと、喫茶店に大量のマンガ本が置いてあったりしますが、あれを読んで時間潰しというのはどうもいただけないのです。

体がだるいせいか、どうも思考が消極的になりがちです。

そうか、こんな時こそ先般ご紹介したライトノベルの『スーパーカブ』とか、肩肘張らずに読めるエッセイ集(ジャンル問わず)などが良いのではと思い直しました。

そして改めて本棚に目を向けると、かなり前に買って読まずにカバーをかけたまま棚へ直行した本書が目に入りました。

著者は生物学者の福岡伸一氏。

テレビによく出ている方らしいのですが、自分は全く観ないので分かりません。

帯の写真を見たら、たしかに記憶はあるのですが、それよりも「生命はなぜそこに宿るのか」という副題に惹かれました。

「自分は死後にどこへ行くのか」興味のある自分にとって、「私はどこから来たのか」というテーマは同じくらい大切ですから。

私は、これは絶対にあとで読もうと思った本は、本屋さんのカバーをかけたまま本棚に入れておく癖があるのです。

家に近い日吉駅ビルに入っている本屋さんのブックカバーは、題名が透けるようにできているので便利です。

こうして病気の際に目にとまったのも、何かの縁でしょう。

早速本を開いて端書きに代えた逸話を読んでみたのですが、これが面白いのです。

ある研究者が、青いバラ(英語の“Blue Rose” は長いこと「不可能」の代名詞だったが、2008年にサントリーがオーストラリアのベンチャー企業と共同開発した。だが、花の色は青というよりは紫色)を開発しようと、ツユクサにあってバラにはない色素合成酵素の遺伝子をバラに導入するのですが、それだけでは足りず、該当酵素を助ける別の酵素も導入し、くわえてバラの花を赤くしている酵素群を丁寧に除去してゆきます。

何年もの月日をかけて根気よくバラの遺伝子を改良していったその研究者は、ついに鮮やかな青色に輝くバラを咲かせることに成功します。

但し、本人以外の人から見ると、その花はどこからどうみてもバラではなくツユクサだったというオチで終わっています。

つかみはばっちりといったところですね。

この本は専門書ではなく、『ソトコト』という環境系の一般向け雑誌に連載されたエッセイをまとめた本ですから、論文と違って文体がずっと易しいのです。

冒頭の端書きと同じような生命とは何かについての話が、わたしたち人間に関して続きます。

私たちが新陳代謝を繰り返すことによって、絶えず細胞を更新していることは周知の事実ですが、加齢とともに時間が早くすぎるように感じてくるのは、その際の細胞分裂や分化などを制御するタンパク質の合成サイクルが、年齢を重ねるごとに確実に遅くなる、つまり新陳代謝の速度が鈍化することで、体内時計もゆっくりと動くようになるというのです。

それに対して、物理的な時間の経過は全く変わらないゆえに、時間の感じ方がはやくなるそうです。

また、わたしたちが必要以上に食べてしまう傾向があるのは、人類の進化の過程で食物を満足に摂取できない期間が長く続いたため、満腹中枢が鈍く働くようにできているとか、これに対処するには、ゆっくりちびちび食べることなど、日常生活に則した話題がたくさん入っています。

ダイエットやアンチ・エイジングで健康を保ち、或いは増進させようとする目論見が、いかに愚かで浅薄な行為なのか、読んでいて身につまされます。

極めつけは、第6章で細菌やウィルスについて、その発見の歴史から、彼らが大都市で群れて住まう人間に姿かたちを変えながら「共存共栄」しているという記述があって、こうしてコロナウィルスで世の中が大騒ぎとなり、自分もそれにお付き合いして10日間も自宅に引き籠っている事実は、いったい何を示唆しているのだろうと、考えずにはいられませんでした。

そのような病に冒されながらも、身体の生命活動とは、タンパク質がアミノ酸に分解され、それが体内に入って細胞内に取り込まれることで新たなタンパク質に再合成され、新たな存在を紡ぎ出す、いわばアミノ酸というアルファベットによって、アナグラムの置き換えが不断に行われる状態を指しているわけで、今流行のサスティナブル(持続可能性)とは、常に動的な状態のことをいうのだと書いています。

そう考えれば、身体の病は社会病という側面をもっているのでしょうし、こうして罹患することで、今を生きているともいえるわけで、ただひたすらにウィルスを恐れ、自分ひとり安全なら他人のことなどどうでもよいとエゴイズムに染まりながら生きるのとは、同じ生命の維持であっても雲泥の差があると感じてしまいます。


(植物も見方によってはすごく均整がとれていると思います)

だから、生命をいくつもの部品を組み合わせて成り立っている機械のように認識するのは勘違いであり、足りないものを外から補ったり、余計なものを取り去ったりすれば、欠乏が満たされ不足が解消し、或いは病が治るという考えに行きつくのは、「生命とは何か」という基本的な問いに対する人間の浅はかさを見落としているのだと筆者はいいます。

これは結構最初の方に書いてあることなのですが、わたしたちは何のために学ぶのかといえば、上記のような自己の直感が導き出しやすい誤謬に気付くため、そこまでゆかなくても、直感では把握しづらい現象へ想像力を働かせるためであり、生涯学習し続けることが、自分で自分を縛っている呪縛から自己を解き放つ鍵だというのです。

これは私が読書を続ける理由と同じです。

たしかに、沢山学んできて自分に必要な知識はすべてそろっているのだ、だから後進の人たちを指導できるのだと考える教育者は、自省がないから、その人の成長もそれ以上はありません。

そういう人は、自分より未熟な人間を成熟に導いてやっているのだと、どこか傲慢な態度をちらつかせながら、自分より未熟な人からも学ぶことがたくさんあるという感覚には、決して到達し得ません。

これも、人間を完成品と未完成品という、静的なモノにしか捉えられない勘違いでしょう。

そういうセンセイが牛耳っている学校では、生徒の学びも傲慢の再生産になってしまうのではないでしょうか。

最後の方で筆者はあまりにも機械的な自然観、生命観のうちに取り込まれ、インプットを二倍に増やせば、アウトプットも二倍になるという線形的な比例関係で世界を制御しようと必死になり、その結果常に右肩上がりの効率を求め、もっともっとと尻叩きをする社会に警鐘をならしています。

人間の生命も、誕生から死までを直線的にとらえ、その途中でどれだけ蓄財できるか、他人に影響を与えられるか、後世に自己の創造したモノを残せるか等で人間の尺度を測るのは、愚かな考えだと思います。

それは客観的にみれば立派な人生かもしれませんが、反面極めて貧しく、「善い人生」とはとても呼べない代物に思えます。

とどのつまり、生命とは何かと問われれば、そこにあるものは流れそのものでしかなく、その流れの中で、わたしたちの身体はかろうじて一定の状態を保っているわけで、これを筆者は動的平衡(英語では“dynamic equilibrium”=直訳すると「動き続けながらつり合いがとれ続けている天秤」)と訳しています。

その流れは環境との大循環の輪の中に存在し、流れながらも環境との間に一定の「動的平衡」を保っており、生命は生きながらえることに関してはエゴイスティックに見えるけれども、すべての生物は、いずれは必ず死を迎えるという点においては、きわめて利他的なシステムの中にあって、それが「動的平衡」の致命的崩壊が起きる前に、生命がリセットされることでそれを防いでいると著者はいいます。

最後は仏教の因縁と輪廻の話を聴いているような気分になって、本を読み終えました。

(「動的平衡」という同著者の本には、続編があるようです)

病の中にありながらも、このような内省を促す内容の本に出会えたことは幸いでしたし、自己の生命という「動的平衡」をどこでどのように保ってゆこうかと考えさせられました。

同時に、身体も精神も、動き続ける(動的であり続ける)ことの重要性を考えると、走り続けることで平衡を保ち続ける自転車にも思いを馳せました。

「人生は自転車に似ている。バランスを保つには動き続けなければならない。」(“Life is like riding a bicycle. To keep your balance, you must keep moving.”)と言ったのは、アインシュタイン博士でしたか。

私は死ぬまで神さまとの対話をやめず、読書を続け、自転車にも乗り続けることで平衡を保つ努力をしよう、そしてその素晴らしさを他人にも伝えてゆこうと病床にて思うのでした。

<こんな人にお勧めです>

・生きることとはなにか、生化学の観点から気楽に考えて見たい

・私たちはどこから来て何処へ行くのかを知りたい

・自己の直感からくる誤謬、勘違いに気付きたい、直感で生きるのをやめたい

・「もっと、もっと」を止めるにはどうしたらよいのかヒントが欲しい

・なぜ学び続けねばならないのか、なぜ本を読む必要があるのかについて考えたい

・細菌とは何か、ウィルスとは何か、あれらも「生物」と呼べるのか疑問に思っている

 

<この本を読んで読みたくなった本>

『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』アントニオ・ダマシオ著 田中三彦訳 ちくま学芸文庫刊

『中動態の世界 意思と責任の考古学』國分功一郎著 医学書院刊

『マリス博士の奇想天外な人生』キャリー・マリス著 福岡伸一訳 ハヤカワ文庫刊

『福岡伸一、西田哲学を読む―生命をめぐる思索の旅』福岡伸一著 小学館新書