旧甲州街道にブロンプトンをつれて 0.日本橋~1.内藤新宿(その5) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(麹町六丁目)

麹町六丁目信号から旧甲州街道を西へ向かいます。
今は新宿通りとなっている交差点の信号脇に、千代田区立仲良し公園があります。
小さな公園なのに、道路が周囲を巡っていて、おそらくは何かの遺構と思われますが、調べても分かりませんでした。
ただ、ここに「駅から時刻表」なき後にお世話になっている「駅探」さんがあります。
私が知る限り、時刻表をネット上でマニュアル引きできるのはここだけなので、本当に重宝しています。
なぜ乗り換えのアルゴリズムをAI任せにしないかといえば、
1.    乗り継ぎがあれば、各列車の始発駅、終着駅は必ず確認する。
2.    標準乗り換え時間を切っていても乗り換え可能な場合がある。
3.    青春18きっぷの旅のように、一日に何回も列車を乗り継ぐ場合、できるだけ長距離を走る列車を選んで効率よく遠くへ行こうとすれば、各列車の筋の確認は必須。
4.    乗車予定列車の途中駅停車時間確認。
などを自分で一つひとつ確認することによって、オリジナルの行程をつくるためです。
これ、英文翻訳したときに、知っている言葉も含め、辞書の該当単語項目を最後まで目を皿のようにして読んだ経験と似ています。
ブロンプトンを併用した鉄道旅の場合、昼食をどこで取るかも含め、こうした作業が大切なのです。
でも、会社の時刻表編集部の人に訊いたら、地味で労多くしてあまり報われない仕事だって言ってましたっけ。

(心法寺)
さて、麹町六丁目信号から旧甲州街道を90m四ツ谷駅寄りの右手奥にあるのが、浄土宗心法寺です。
1590年、徳川家康の江戸入府に随伴して三河の国泰宝寺から来た然翁聖山和尚が帰国しようとしたところを家康に引き止められ、1597年にこの地に創建しました。
当初家康は市ヶ谷に広大な土地を与えようとしましたが、和尚は「衣食が十分だと僧侶が怠け者になり、仏に仕えるのが嫌になる」「同じく江戸に移住した町人たちのための大衆的なお寺にしたい」という理由から、これを断り、大名や旗本が檀家になることを断ってこの地に寺を構えたといいます。
江戸も中期になると土地柄か大名の檀家も増え、幕末の1938年にこの寺から出火して周囲が焼けたときは、すぐそばの尾張藩中屋敷から御殿が払い下げられ、復興することができました。
当時は閻魔像が信仰を集めていたそうですが、東京大空襲によって消失してしまいました。
現在は門前に、塩を塗ると身体健康にご利益があるという塩地蔵があります。

(心法寺客殿)
心法寺よりひとつ西寄りの北へのびている路地は、番町文人通りといい、明治から昭和にかけて島崎藤村、泉鏡花、有島武郎、与謝野晶子・鉄幹、藤田嗣治など、多くの文人、芸術家が住んでいたといいます。
今はここから市ヶ谷の向こうにかけて学校が多く、文教地区になっています。
私が子どものころ、小学生向けの「四ツ谷大塚」という進学塾があった(今もあります)のですが、本部が中野にあるのになぜその名前なのだろうと思っていました。
今考えると、四ツ谷や大塚の超難関私立、或いは国立附属中学を目指すという意味だったのかもしれませんね。
もちろん、私は名前だけで全然ご縁がありませんでしたが。


(四ツ谷駅手前で右折)
麹町六丁目信号から旧甲州街道を230m西へ進むとJR四ツ谷駅です。
ここで元の甲州街道は四ツ谷駅前交差点を右折、ここに四谷御門があり、江戸城の外堀を渡って侵入してくる敵を防ぐ役目を負っていました。
麹町口の駅舎に沿ってすぐに左折した向かいの角が四谷見附跡の石垣です。
見附とは見張り所のこと。
そして中央線四ツ谷駅ホームの上に架かる四谷見附橋で江戸城の外堀を越えます。
江戸城の外堀は濠や土塁などを佐竹家や上杉家などの東国大名が、石垣を毛利家、森家、蜂須賀家などの西国大名が分担して普請しました。
四谷見附橋の東詰めには、外堀を構成していた石垣の石が展示されています。
案内板によると、これらの石は伊豆半島北西の肩にあたる大瀬崎より沼津市側、同東岸の稲取から宇佐美にかけて、そして真鶴半島から小田原にかけての複数の石切場から切り出された安山岩を、石船と呼ばれる和船に積んで沿岸航路をとり、三浦半島を反時計回りにまわって隅田川河口の石川島に降ろしていたそうです。
記録によれば、1636年の1年の間に細川家が普請した分で、13,452石(1石150㎏換算で、2,017.8トン)もの石が運び出されたそうです。
なお、四ツ谷という地名の由来ですが、四つの商家が軒を連ねていたからとか、近在に千日谷、茗荷谷、千駄ヶ谷、大上谷という四つの谷があったからなどという説があるそうです。

(左に四谷御門跡碑、正面の石垣が四谷見附跡)
四谷見附橋で外堀に敷設された中央線を跨いだ後、すぐに四谷見附北交差点で左折して南に向かいます。
JR線の四ツ谷口を左に見ながら60m先で新宿通りに戻ったら、四谷見附交差点を渡ってから右折します。
つまり旧甲州街道は四ツ谷駅を「コ」の字型に迂回するように設けられており、ここが堀や門、見附とともに、江戸城にもっとも近い防衛拠点として、枡形を形成していたわけです。
新宿通りの南には、東京メトロ四ツ谷駅があります。
丸ノ内線は外堀の斜面、JR中央線より一段高いところにホームがあり、同線の後楽園駅や茗荷谷駅と並んで地上駅として有名です。
地下鉄が地上に顔を出すところというのは本当に少なくて、昔の営団地下鉄は撮影が許可制でフラッシュを焚くのは禁止されていましたから、暗いホームで三脚をたてて撮影しないと、ちゃんと撮れませんでした。
だから子どもやアマチュアカメラマンが撮影しようとしたら、このように地上に出てきている部分でスナップを撮るしかなかったと言います。
もっとも鉄道写真には興味の無い私のような乗り鉄は、一瞬車窓を横切る外の景色に、映画のひとコマのような印象を受けていました。
一方、JR四ツ谷駅の四ツ谷口前の辺りは、四谷門外の大横丁(おおよこちょう)といって、江戸の西側では最も大きな繁華街だったといいます。
その繁栄は明治にも引き継がれ、1873年に玉川上水の掛樋(今でいう上水管)の修繕を行おうと通りを封鎖しようとしたところ、地元住民などから苦情が出て、交通を止めないように仮設橋を架けて工事を行うほどだったそうです。
1894年に四ツ谷駅が開設されると、都心西側の交通の要衝となりました。
今でも中央快速が停車する、乗り換え駅です。
(昔の新宿駅西側は、ただの原っぱだったとか)

(四谷見附橋 左側のフェンス前に外堀に積んだ石が展示されています)
ところで、四谷見附橋を渡りながらふと疑問に思ったのですが、中央線はなぜ外堀の下を走っているのでしょう。
東京駅から新宿駅へ鉄道を利用して最短で行こうと思ったら、誰もが中央線快速を利用するでしょう。
しかし両駅を地図上にて直線で結んで最短距離を求めると、皇居の真ん中を突っ切って、半蔵門から新宿通りを通るルートが最短であり、皇居の中を鉄道が横切ることは無理にしろ、中央線のように東京駅を出て大きく北を迂回し、四ツ谷で新宿通りと交差した後、今度は逆の南を遠回りして、S字を描いているので、距離的には無駄の多い経路になっています。
しかも車窓を観察していると、途中に急なカーブがやたらと多く、トンネルや掘割もあって、簡単に敷設した線路とは思えません。
実際に中央線の快速に乗ってみればわかりますが、東京駅から新宿駅を過ぎて東中野以西の直線区間に入るまで、電車はやたらと揺れる印象です。
これは現在の中央線が開業した当初は、甲武鉄道という民営鉄道だったこと、その当時は様々な規制があったことが関係しているといいます。
甲武鉄道は1889年(明治22年)4月に新宿~立川間が開業し、同年8月に八王子まで延伸した後に、新宿から東の都心方面への延伸を目論みます。
中央線は新宿が起点で最初は西に向かって開設されたのですね。
というか、今でいう私鉄線ですから、官営鉄道の山手線とは新宿駅が別々で、今のように中央・総武緩行線千葉方面と山手線内回り、山手線外回りと中央・総武緩行線がそれぞれ同一ホームで乗換などできなかったはずです。


(中央線=外堀を渡ったら、すぐ左へ)
さて新宿から東の都心方面へ伸ばそうとした甲武鉄道、当初は曙橋経由で市ヶ谷へ出ようとしたものの、この案では新宿駅でスイッチバック、つまり機関車の付け替えが必要になってしまい、現実的ではないと退けられました。
ということで、新宿から南東方向へまわるルートを検討したのですが、今度は東京の中心部の用地買収が困難という要素に加え、今の千駄ヶ谷駅の先で陸軍青山練兵場を抜けるかたちとなり、軍部が難色を示しました。
代替の土地を提供することで何とか妥協してもらったところ、その先には赤坂離宮の土地が立ちはだかり、今度は宮内省を説得しなければならなくなりました。
これもトンネルを掘ることで何とか譲歩を引き出します。
しかし、そこから東の区間は東京市(当時は千駄ヶ谷から東が東京市内)が待ったをかけます。
今の四ツ谷駅からは真田濠を通ることで、市ヶ谷まで抜けることができました。
もしここに江戸時代外堀を建設していなかったら、四ツ谷と市ヶ谷間は長いトンネルを掘らねばならなかったそうです。
その先の飯田橋、水道橋方面も外堀を利用しているのは、当時は鉄道が都心において交通量の多い道路と交差する場合は、立体交差にしなければならないという規制があったからだそうです。
車なんか殆ど走っていない明治大正になぜ立体交差が必要かと訝しくなりますが、平面交差の踏切にすると、列車待ちの牛馬が音に驚いて暴れるからというのが理由でした。
(実際にそういう事故が鉄道敷設当初には多発したそうです)
元々掘られている外堀に線路を敷けば、交差する道路は皆橋で跨ぐ形になります。
これをもし鉄道側が高架橋をつくるとなると、ばく大なコストがかかってしまいます。


(新宿通りへ戻ったら、渡って右へ)
それでも別の理由をつけて東京市は認可をしようとしません。
表向きは江戸城外堀の景観保護という形を取りながら、その実東京市電と競合する鉄道への敷設許可は出したくないというのが本音だったようです。
これらはすべて、民営鉄道が東京市中心部へ線路を敷くということで、官吏側が簡単に許可を下ろさなかった事例です。
もし甲武鉄道は官営だったなら、現在の水道橋駅付近にあった兵器工廠への資材運搬などを理由に、もっと簡単に申請が通ったのではないかという推理も成り立つそうです。
結局甲武鉄道が新宿から御茶ノ水迄開通させたのは1904年(明治37年)のことで、新宿駅以西が開業してから15年後のことでした。
その2年後の1906年、甲武鉄道は国有化されて官営鉄道になったあと、1908年に中央東線と名前がつき、1919年に神田まで延伸して東京駅乗り入れを果たしました。


(中央線四ツ谷駅ホーム 奥の左手に見えているのが東京メトロ丸の内線の駅)
山手線は地形上の制約を受けて難工事だったと聞きますが、中央線の新宿以東も計画から建設、完成までこんなに紆余曲折があったとは知りませんでした。
新宿以西も、甲武鉄道計画の際には旧甲州街道沿いの住民が、陸蒸気が走ると家が火事になるのではないか、或いは農作物に被害が出たりするのではと反対し、旧街道を避けて何もないところに直線で線路を敷いたところ、鉄道駅の方に人と物の流れが移行してしまい、かつての街道沿いが寂れる一方だったので、慌てて街道沿いに馬車鉄道(のちの京王線)を敷設して対抗したと聞いています。
今回も旧街道の話題から、鉄道談義ばかりになってしまい、全然先に進んでいませんが、旧街道を鉄道併用しながらブロンプトンで走破する場合、こうした街道の歴史についてあれこれ学ぶのが楽しみの一つになります。
これから甲州街道を西へ向かうのに、尺取虫方式で中央線や京王線は何度も往き来することになりますし、それくらいの予備知識は四ツ谷駅付近で仕入れておけば、以降中央線を利用して車窓を眺めるときも、感慨深くなると思います。
次回は四ツ谷駅前の四谷見附交差点から、旧甲州街道、現在の新宿通りを西へ向かいます。


(桝形をすぎ、一路新宿へ)