旧東海道にブロンプトンをつれて53.大津宿から終点の京・三条大橋へ(その8) | 旅はブロンプトンをつれて

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京都市蹴上浄水場の坂の上の方にある門の前から、三条通りを下ります。
浄水場とは、水道水をつくる工場のことで、河川や湖沼から取水された水はまず着水井(ちゃくすいせい)と呼ばれる深いプールに貯められて、そこから水量を調節したうえで沈殿池(ちんでんち)と呼ばれる池に送られ、そこで凝集剤(ポリ塩化アルミニウム)を注入すると、水中の浮遊物が粒子のかたまりになって沈むことで、それらを取り除きます。
さらに急速濾過地において砂や砂利の層を通すことで、より微細な浮遊物を取り除いたうえで、消毒施設で次亜塩素酸ナトリウムを加え、水道水が出来上がります。
原水から水道水につくりかえられた水は、配水池にプールされ、そこからポンプ場を経由して水圧を加えたうえで、各利用者へと送水されます。
東京の境町浄水場や、横浜市の小雀浄水場が、域内の標高が高い場所に設けられるのは、できるだけ高いところから水を落とすことで、ポンプ場の負担を減らすためでしょう。
水道の検針員が漏水に神経質なのも、同じ理由からだと思われます。


ここ蹴上浄水場は琵琶湖の西南にある大津市内の取水口から京都へ排水する疏水の中継地点にあたります。
ここから琵琶湖疏水は二手に分かれます。
そのまま西流して夷川(えびすがわ)発電所を経由して冷泉(れいぜい)閘門から鴨川へ注ぐ本流と、南禅寺の境内を水路橋で横切り、山の中腹に沿うように哲学の道を北流し、白川疏水と名前を変えて高野川沿いにある松ヶ崎浄水場へと注ぐ分流がそれです。
蹴上浄水場自体は東山の中腹にあってつつじの名所でもあり、文字通り京都市内を見渡す位置にあるので、展望台でも設ければ眺めは良いのでしょうが、水道水に変なものを混入されたら大変なことになるので、大概の浄水場と同じく高い柵で囲われて、一般人は容易に入れないようになっています。
どうしても入りたい場合は、5月に行われる一般公開に参加するしかありませんが、コロナの影響と市の財政赤字を鑑みて、ここのところ中止されているようです。
なお、東山から京都市を俯瞰したいのであれば、前回ご紹介した青蓮院門跡福徳門の東にある、京都市営の展望台に登ることをお勧めします。


三条通りを下ってゆくと、左側は浄水場の柵と煉瓦壁が続くものの、右側にはインクラインが沿うようになります。
インクラインとは傾斜鉄道の一種で、上述した琵琶湖疏水には大津~蹴上間に舟が運航され、その西の区間は傾斜が急なために、軌道上を走る台車に舟を載せてケーブルで引いて上下させる、ケーブルカーのようなドライ式をとっていました。
ここで使用された船とは、三十石船という平底の和船で、長さ15m、幅2m、深さ0.55mでその名の通り重さ450㎏までの積載量で、人であれば船頭4名乗客28名の計32名が定員でした。
このサイズの船は汎用性が高く、淀川の川舟にも利用されていたといいます。
台車を引き上げる際には坂の下に今も煉瓦建ての建物がある蹴上発電所(水力)の電力が利用されていました。
インクラインの運行は戦後に廃止されてしまいましたが、疏水船に関しては、ここ5年ほどは春と秋に大津と蹴上の間にて現代の船で運航されているようです。
上部の上下船場脇には同じく煉瓦造りで京都御所に防火用水を送水していた旧御所水道ポンプ室があり、かつての船溜まりの下にはインクラインの台車とそれに載った三十石船が展示され、さらに下の公園には、琵琶湖疏水を建設した工学者、田辺朔郎博士の銅像のある公園、そしてかつてのインクライン上には軌道が残され、両側が桜並木の遊歩道になっています。
歩いた時も、DANさんとの旅でゴールしたときも、ちょうど花見のシーズンだったのですが、三条通りの左側を走っていたために、道路越しに眺めただけでした。
もっとも、凄い人出だったので、遊歩道を押し歩きできたかどうかは分かりませんが、朝早くに花見に行くと良いのではないでしょうか。

(右手土手上がインクライン)
坂を下ってきて三条通りと右に仁王門通りが分岐する蹴上交差点の手前、浄水場の下の門の通りを挟んだ向かいにあるのが、ねじりまんぽです。
インクラインの下に設けられた煉瓦の人道トンネルで、煉瓦が斜め渦巻き状に、ねじれて積んであるのでこの名前がついています。
目的はトンネル強度を増すためだそうです。
実際に中を歩いてみると、渦に引き込まれてゆくような感覚を覚えるとか。
このねじりまんぽ、実は大津の旧東海道脇にもあったのです。
大津本陣跡から逢坂峠へ登ってゆき、東海道本線の上を越えて、京阪京津線の踏切を渡る手前、逢坂交差点(信号機無し)を、1号線バイパスの取りつき道路へちょっと入ったところの、バイパス下をくぐる水路トンネルが、同じ形式です。
ただこちらの方は落ちないようにガードレールが設置されているのと、水路のため中に入れないので、意識して探さないと見つからないと思われます。

蹴上のねじりまんぽの先には、門前の湯豆腐、瓢亭の朝粥で有名な南禅寺があるのですが、そちらはまた別の機会にご案内しましょう。

蹴上交差点に戻って分岐を左へ、三条通りをさらに下ります。
交差点のすぐ先向かい側には、上述の関西電力蹴上発電所が見えます。
三条通り側にある煉瓦造りの建物が、産業遺産に指定されている第二発電所(1912年完成)です。
明治の昔から、京都市内の街灯や工場へ電力を供給してきました。
通りから見て裏手の変電所との間にある第三発電所は今も現役だそうです。
三条通りの反対側はウエスティン都ホテルです。
都ホテルは京都では最も古く格式のあるホテルのひとつで、京都の迎賓館ともいわれています。
1890年に油商人の西村仁兵衛が保養遊園地として開いた吉永園を前身とし、1900年に園内に都ホテルとして創業、1960年に村野藤吾氏による現在の本館が完成しています。
村野氏の作品は、関東では有楽町駅前の読売会館、中目黒の目黒区総合庁舎(旧千代田生命本社ビル)、関内の横浜市役所などが有名です。
1966年にウエスティンホテルズと業務提携を行いました。
ウエスティンといえば、これを買収したマリオットホテルズとともに、同じマリオット系列のザ・リッツ・カールトンやフォーシーズンズホテルの次くらいに位置する高級ブランドホテルチェーンですから、そのサービスを体験してみるだけでも勉強になると思います。
但し、こういう超高級ホテルはブランドものの服に高級車で乗りつけないと」などと、お金持ちの真似事がしたくて宿泊するのなら、お勧めしません。
ヨーロッパでひと通り体験しましたが、本当にホスピタリティが充実しているホテルは、こちらが卑屈にさえならなければ、身なりなどでお客を差別したりはしません。

(左三条通り 右仁王門通り)
都ホテルは東京の椿山荘や八芳園同様に、敷地内に有名なお庭も抱えています。
ひとつは三条通り側からみて手前山側にある葵殿(あおいでん)庭園です。
近代庭園の先駆者として有名な作庭家の7代目小川治兵衛によって1933年につくられた回遊式庭園で急斜面を活かした三段の滝があります。
もうひとつは、上述の村野氏が設計して1959年に完成した数寄屋造り建築の和式宿泊施設佳水園(かすいえん)を抱かれるように奥に位置する、7代目小川治兵衛の長男、小川柏楊によって1925年に作庭された、佳水園庭園です。
こちらは巨大な自然岩盤に沿うように、琵琶湖疏水の水を引き入れた流れを設けた池泉鑑賞式庭園で、伏見の醍醐寺三宝院の庭を模してつくられたと言われています。
前にも書きましたが、生前司馬遼太郎先生と遠藤周作先生は、ここ都ホテルで年越しをするのが恒例となっており、何度か大晦日の晩をホテルのバーで語り合ったそうです。
司馬氏は言わずと知れた歴史小説家ですが、遠藤氏も後期に小西行長が主人公の『鉄の首枷』、支倉常長を題材にした『侍』、大友宗麟を主人公にした『王の挽歌』など、歴史小説を多く書いています。
よく考えると、『沈黙』だってジュゼッペ・キアラをモデルにした歴史小説です。
こうした時代物を書こうとすると、資料収集とその読み込みが大変だといいますが、司馬先生の小説は、フィクションと割り切っても現場で当人を見てきたような書きっぷりです。
それに対して周作先生の歴史小説は、主人公に対する作者の思い入れがけっこう見えていて、そこが歴史ものとしての好き嫌いをわける要素かもしれません。

ウエスティン都ホテルの敷地にそって、旧東海道(三条通り)は北西から真西に向きを変えます。
ホテルの敷地が切れたところから80mほど進むと、左手に佛光寺霊廟と彫られた大きな石柱を認めます。
真宗佛光寺派の本山佛光寺は、下京区の新開町、すなわち四条烏丸の東南になりますが、そちらでお祀りしていた親鸞聖人のおたまや(ご廟所)を江戸時代にこちらへ移したのだそうです。
以来、親鸞聖人のもとで眠りたいというひとが墓地をもとめ、現在は納骨堂なども建立されているとか。
でも、親鸞聖人の御霊廟は浄土真宗の各宗派毎にあるでしょう。
一番有名なのが、東山の五条バイパス脇にある、通称西大谷と呼ばれる大谷本廟ですかね。
あちらは清水寺の下まで、広大な大谷霊園を擁しています。
親鸞聖人は、倉田百三、吉川英治、丹羽文雄、五木寛之などが伝記小説を書いていますので、それくらい人々に膾炙して人気なのでしょう。

(手前煉瓦造りの建物が、旧蹴上発電所)
親鸞というお坊さまは、ご存知の方も多いと思いますが、たいへん波乱万丈な人生を歩まれました。
天台宗の僧侶として叡山で修行を積むものの、29歳の時に突然下山し法然のもとへ走り、専修念仏の道に入ります。
そして1207年、後鳥羽上皇が熊野参詣の留守に、上皇お気に入りの女官二人が東山で行われた念仏会に参加した際、髪を下ろして尼となったのをきっかけに上皇の怒りを買い、法然ともども流刑に処せられます。(承元の法難)
越後の国(現在の上越市)に流された親鸞は、藤井善信(ふじいよしざね)という俗名を与えられ、非僧非俗の生活に入ります。
彼は僧でもなければ、俗でもない自分のことを自嘲気味に「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と呼ぶわけですが、仏教学者の増谷文雄博士によると、ここには単なる絶望だけではなく、自己を恣意的に貶めた権力者への反骨の精神が混じっているといいます。
権力を持つ者は、自分の身分を奪い、道を遮り、生命をも奪うことができる(承元の法難では処刑された僧侶も出た)けれども、魂を殺し、志を奪うことはできない、そしてどんな絶望の淵に佇んでもなお、そこで血路を開こうとするのが人間であると。

愚禿の「禿」の字には、内外不相応な虚仮(こけ)の姿(内と外での人間性が一致しない、聖人ぶった顔をしながら、本質は邪な人間のこと)こそ恥ずべき禿の姿であるという皮肉が込められているそうなのです。
これ、物知りを装いながら青年を徳に導くといいつつ、自分が無知蒙昧であることに全く気付かないソフィストたちを「私は少なくとも自分が無知であることを知っている」と批判したソクラテスに通じるところがあると思います。
自分の地位や身分を隠れ蓑にして、人を使ってハラスメントをする、60代、70代、80代になっても他人いじめがやめられない、過去の栄光にすがって相手を見下してばかりいる、そんな自分に気付かないまま、加齢とともに権力や名声を失い、認知症の深みにはまってゆく元権力者という方々は、今でもそこいら中にうじゃうじゃおります。
そういう人たちが、介護される身分になって逆にハラスメントに遭ったとしても、私には自業自得としか思えません。
否、いじめ、いじめられという道を選んだのは本人なのだから、そこから降りると本人が意思表示しない限りは、その意思表示すら不能になってしまったら、周囲の人たちは手の出しようがないと思います。

 

そういう人たちには、若い頃から貯め込んできた財産や名誉を、目いっぱい利用して介護を受ければよいのです。
すくなくとも、お金で相応の優しさは手に入るでしょうから。
しかし、お金抜きの誠意や真正直さを育てたり、交わしたりすることは、もう一生叶わないとおもいます。
ともすれば、正直に生きよう、他人を傷つけるような言動には注意しようと生きてきた人とは、老境の立ち位置も、その後の行き先も別なのですから。
私の実家が檀家となっている真宗大谷派のお寺のお祖師さま、親鸞聖人に魅力を感じるとしたら、彼のそういう偽善者を心の底から嫌うところだと思います。
ああ、親鸞聖人の話から脱線してしまいました。
次回はここ佛光寺霊廟前から旧東海道(三条通り)を西へ向かいたいと思います。