木賊温泉2022春(その4) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(その3から続く)

午後の2時間弱を使って、標高差546mを完全舗装の林道で上り下りしてきた身を、木賊温泉の湯に沈めると、頭の上から湯気を伝って疲労が出てゆくような気分になります。
外は川のせせらぎがたえず聞こえ、ときおり網戸を通って涼しい川風が吹き込んできます。
お昼に食べたのは蕎麦一杯とあって、さすがにお腹がすいてきました。
しかし、お風呂からあがってきてもなお、夕食にはまだ間があります。
ここで、西根川を見下ろす廊下に座布団を出して、今日の午後によろず屋さんで買ったワカサギの南蛮漬けを肴に、家から持ってきた会津のお酒を飲もうということになりました。
銘柄は、会津坂下(ばんげ)にある廣木酒造のお酒、飛露喜の純米大吟醸。
これ、簡単には手に入らないお酒です。
一昨年の春に、会津若松から喜多方までブロンプトンで走った際、会津坂下に立ち寄ってみたのですが、当の廣木酒造さんにも、その正面の大きな酒屋さんにも、「飛露喜はありません」と札が掛っていました。
どうもこの銘柄、レストランや旅館などでも年間定数購買しか叶わず、お金を出せば確実に飲めるのは、東京においてはそれなりの格がある料亭やレストランだけという状態らしく、ネットで在庫があったとしても、倍以上の価格で販売されているお酒なのです。


その時は、熱塩温泉まで行って、帰りに喜多方の酒蔵を巡りながら、若松へ列車で戻り、市内でこの日本酒を扱うお酒屋さんに行き、名前と住所を書いておいたら、10か月後くらいにクール宅急便で届きました。
飛露喜は料理に合うお酒で、ガツンと来るような日本酒が好みの人には物足りないらしいのですが、私のように、20年も酒断ちしていた人間にとっては、存分にポン酒気分を盛り上げてくれる酒です。
もちろん、家で独り宅飲みする習慣など無いので、こういう機会に持ってきて、お酒の飲める友だちとしみじみ味わうことにしました。
なお、コロナによる移動制限が解除された今は、電話予約による自宅配送サービスは停止してしまったため、また会津若松の酒屋さんに直に行って申し込むしか入手する方法がなくなってしまいました。

実を言うと、福島県や首都圏以外の、人口が少ない街で取り扱いのある酒屋さんに行くと、置いてあることもあり得るらしく、昔スキーの帰りに信州の某酒屋さんにダメもとで立ち寄ったら、見事最後の1本をゲットした経験があります。
そんな会津の名酒を、川の瀬音を背景に、お酒の匂いと味を楽しみながら、ゆっくりいただきます。
運動した後だけに、昔スキー宿で飲んだウィスキーを思い出しました。
あの時も、チビチビ飲んでは「いやぁ、疲れが取れますね」なんてやっていましたっけ。
飲酒とは、飲む行為よりその環境を楽しむものなのではないかと感じ、お酒なら何でもいい、酒なしには生きてゆけないというアルコール依存症者の人たちは、そんな次元をとっくの昔に突き抜けてしまっているわけで、もう一生お酒を周囲の雰囲気で楽しむことのできない、ある意味二度と元には戻れない不具者になった人たちなのかと思うと、哀しい人たちだなと思いました。
最近、年のせいか、お酒を飲んでも湿っぽくなります。


四合瓶を半分以上飲んだところで、夕食の時間になりました。
最初にテーブルにのったのは、食前酒としてのイワナの骨酒、赤蕪のお新香、山菜ときのこの天ぷら、野菜の煮つけ、おひたし、イワナの魚卵、メカブの酢漬け、そして陶板焼きでした。
これに続いて、イワナの塩焼き、イワナの刺身とたたき、山菜の味噌かけ、しし汁が出てきます。
もう、お酒のおつまみとしては最適なお皿が並んでいますが、さっき飲んだばかりなので、ここでは食事に集中します。
一説によると、飲みながら食べるのがもっとも肥満になり易いといいますし、せっかく美味しいものが出ているのだから、料理そのものを楽しむために、アルコールで感覚を鈍らせたくはありません。
また、運動して来たのに、それを帳消しにするような行為を直後にするのも考え物です。
「あれくらい辛い運動をしたのだからビールくらい構わないか」といって、スポーツ直後に乾いた喉をお酒で潤す人がたまにいますが、アルコールを体に入れたら水分補給とは逆のことをしていることになります。


イワナは付近に養殖している家があるそうですし、野菜は自家製で、山菜もご主人が山に入ってとってきたものということで、食べているうちにどんどん元気が出てくるようなものばかり。
そしてとどめはお約束の、キノコの炊き込みご飯です。
毎度のことながら、3人いてやっとお櫃のご飯を完食できました。
「お代わりが必要ですか」と尋ねられましたが、さすがに断りました。
お昼を蕎麦だけにとどめ、その後2時間汗自転車でのヒルクライムをして、最後に温泉で汗を流してきた後なので、私は山では肺の中の空気を、宿では身体の水分と胃の内容物とを全部入れ替えたような気分になりました。
きっと一日山歩きした後にここの食事を食べたら、同じような気持ちになるのでしょう。
つまり、身体が内側から浄化されてゆく感じになったのです。


食事が終わった後、炬燵に入って、残りの飛露喜を飲みます。
6月なのに炬燵があるのは例年通りで、夏の一時しか片付けないそうです。
炬燵を囲んで湯のみで日本酒を飲んでいると、またスキー宿の雰囲気を思い出しました。
温泉&日本酒って、冬が一番よく似合います。
熱燗にすると、アルコール分が幾分飛ぶので、非飲兵衛には飲みやすくなりますし。
暫く話し込んだ後、もう温泉に浸かる元気もなく、洗面と歯磨きを済ませて寝ます。
3人のうち、ひとりは奥の別室、わたしともう一人は、広い部屋の端と端に布団を敷いて寝ます。
夜は廊下のサッシを網戸にしたまま横になったのですが、夜中は布団を巻き込まないと寒いくらいでした。

翌朝はお酒もまったく残らず、5時過ぎにすっきりと目が醒めました。

私は朝に目を醒ますと、まずは本を読みます。

今回も鞄に入れておいた本を2,3ページ読んで、それから聖書アプリで今日の箇所を読んでと、顔も洗わないうちから読書です。

でも、一日のはじめをテレビだとかネットだとかに接するよりも、ずっと穏やかなスタートが切れるのです。

やはり文字の本は他のメディアに比べて自分のテンポで頁をめくり、読めることが多いからでしょう。

テレビをつけられると画面をみなくても、アナウンサーやコメンテーターがいきなり早口でまくし立てるような喋りが嫌でも耳に飛び込んできて、「あさイチからこれかよ」と閉口したことが何度もあります。

あの人たち、息があがってしまっている自分の姿に気が付いていないようで、視聴率を取るためとはいえ、因果な商売だなと思ったものです。

さて、力まずに本を読んでいたらだんだん覚醒してきたので、手ぬぐい片手に5時半に外湯に行ってみたのですが、もう結構な人数が入っているようでしたので、宿に戻って内湯に浸かりました。
こちらはまだ友だちが起きてこないので貸し切り状態です。
心なしか、時間帯によって泉温が変わるらしく、昨日の夕方よりは若干ぬるくなって入り易い気がします。
ただ、程度の差こそあれ、基本は熱い湯なので、気持ち少しだけ低い気がするという感じでしょうか。
朝風呂に浸かって手足を伸ばすと、体全体が始動するような気持になります。

このような山のいで湯でボーッとしながら、さっき短く読んだ本の内容についてあれこれと思いを巡らせるというのは贅沢です。

でも、ブログに書こうと思うテーマが頭に浮かぶのも、朝のこの時間帯がもっとも多いのです。

そんなこんなでなんとなくのんびりしていたら、あっという間に6時半を回ってしまいました。
朝食まで1時間ちょっとしかありませんが、天気も良いし、食べる前にもう一度ブロンプトンで走ることにしました。
といっても、昨日の午後のように、ヒルクライムするわけには参りません。
そこで、田代山への登山口に通じる西根川沿いの道を、時間いっぱいまでブロンプトンで遡ることにしました。
宿の外には木賊温泉の由来となったトクサ(磨くことができるから砥草とも)がプランターに植えられています。
今日も日が出てきて日中は暑くなりそうですが、まだこの時間は肌寒いほどです。
昨日と同じ、宿から840mほど上流へ向かって走ると、緑資源模幹線林道との分岐のY字路に出ます。
今度は進路を左の川衣(かわぎぬ)方面にとって、すぐ先で黒石川に架かる橋をわたり、緩い坂を登ってゆきます。
すこし開けた場所に出ますが、ここはキャンプ場の跡地です。
バブル直後の頃は、ここで野宿して下の木賊温泉の露天風呂に来るキャンパーがたくさんおりました。
今はキャンプ場を示す看板も撤去され、野原のようになっています。

右手には高い鉄塔が立ち、上部には複数の無線と思しきアンテナが立っています。
きっと携帯電話会社のものでしょう。

こんな山の中にまで電波を飛ばしている凄まじさに、強迫的なものを感じます。

人家のある範囲に電波を届けるだけなら、あそこまで塔を高くする必要はないはずです。
日本という国は、新しいシステムが流行ると、何でもかんでもそれで環境を再定義してしまうところがありますが、人が住んでいない、登山道だけしかない山の中で通信環境が良いことが、そんなに必要なことなのかと思ってしまいます。

最近、山で遭難して携帯で救助を呼ぶという話をニュースで耳にしますが、元来山という場所は、電話が通じないことを前提に、いざという場合に備えて入るのがセオリーでした。

でも便利になったおかげで、山に入る人間の方に「いざとなったら携帯で助けを呼べばいいさ」という傲慢さが出てくるようになったと思います。

上記のテレビの話ではありませんが、山に入ってYouTubeを観たり、ネット配信したりと、何か違う気がしてなりません。

山に来た時くらい電子機器をやめて目の前の環境を観察するとか、日常生活ではなかなか読めない本を読むとか、もっと落ち着けないものでしょうか。

ブロンプトンを背負って山に入るにしても、享楽的な気持ちの延長で登山道に足を踏み入れるのはやめようと自戒しながらさらに谷奥へと自転車を走らせました。
(つづく)