紙の本をお供にしない旅なんて | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

先日、とある町の小さな本屋さんに立ち寄った時のこと。
そのお店は駅から近いわけでもなく、そばに大型のショッピングモールがあるわけでもなく、マンションの1階で駐車場も無く昔からずっと同じスタイルで営業されていると思われる佇まいで、たまに前をブロンプトンで通るものだから、いつかは中を覗いてみようと思っていたのです。
こじんまりした店内は、入口に少量の雑誌があるほかは、文庫と新書ばかりが並んでいます。
でも、買い取り制の岩波文庫は僅かです。
「希望の本があれば取り寄せます」との貼り紙が本棚に架かっています。
何の気なしに店主さんと思しき男性に、「ここは文庫と新書が主体なのですね」と声をかけると、「今は単行本が売れないのですよ。最低でも1冊2000円から3000円もするでしょう」とのお答えでした。
たしかに今の物価状況で1冊3,000円以上する本なら、1万円出しても3冊しか買えず、割高な感じがします。


そこではたと気付いたのですが、書籍の世界ってデフレが起きていないのです。
正確にいえば、電子書籍は紙の本よりはずっと安いので、あちらが出版業界のデフレーションを担っているといわれれば、頷くしかないのですが、こうした現象は音楽ソフトの方が先をいっていて、もうずいぶん前から、CDなどの記憶媒体を買うよりも、ストリーミング配信を再生したり、ダウンロードしたりというスタイルが主流になっています。
昔は友だちの家に行くと、本棚とは別に、部屋にレコードやカセットテープが並んでいて、それを眺めれば、その人の音楽の趣味が分かりました。
家庭教師の下宿に行くと、“Oscar Peterson”(オスカー・ピーターソン=超技巧派のジャズピアニスト)と転写シートで丁寧に記された背表紙のカセットが並んでいて、煙草と珈琲の入り混じった部屋の匂いとともに、「大人ってこういうものかな」などと思っていたものです。


その頃、私の部屋にも同様に“Chopin Ballades and Scherzos / Rubinstein”(ショパン好きの間では「バラスケ」の愛称で通っていた名盤)なんてロゴされたカセットテープが並んでいました。
レコードも持っていましたけれど、あの頃は高価だし、傷がついたりすり減ったりするのを嫌い、一度カセットに録音したら、そちらを何度も聴くようにしていました。
で、私の部屋に並んだカセット群をみて、「チョッピンってヘビメタ聴いているの?」と言われた時は、『ああ、たしかにあの時代ショパンは尖がっていたし、演奏者のルービンシュタインも若い頃はイケイケだったとうから』と内心で苦笑していました。
ちょうどウォークマンの全盛期で、もちろんソニーの件の商品は高いので、類似の安い商品をスキー旅行で往復する電車やバスの中に持ち込むわけですが、ロックとかヘビメタはシャカシャカ音漏れがうるさかったのに対し、クラッシックは静かなもので、それも自分には似合っていました。


大晦日の夕方に、NHK-FMで「軽音楽ハイライト」(ポップスやロックなど当時若者の間に流行っていた洋楽を、「軽音楽」と表現してしまうところがNHKらしい)という3時間番組がありまして、その前に同じ長さの邦楽主体の番組があって名物になっていました。
その時間にして180分もの番組を、90分、120分のカセットテープにエア・チェックして、そのままスキーバスに乗り込んで聴いているなんてことをよくしていました。
レコード・アルバムを買うお金が無かったし、今のように1曲ずつ売ってくれるわけではなかったので、高校生はFM放送を録音するしか他に手が無かったのです。
後に車でスキーに行くようになると、自分でお気に入りの曲を集めたマイ・カセットテープを10本、20本と収納ケースに入れて、それをかけるものだから、ドライバーの音楽趣味がすぐわかるという時代になりました。
あの頃は、音楽を聴くのにも手間がかかりましたが、今よりもずっとありがたく聴いていたように思います。


ところで、こうした音楽趣味を読書趣味の話に戻してみると、「マイ・カセットテープ」ならぬ、マイ・ブックレットとか、私製合冊本というのは存在しませんでした。
手軽に持ち運びができるという点では、文庫本や新書本より優れた本がありませんでしたが、だからといって、持ち運び可能な収納ケースに5冊、10冊と文庫を入れて、「マイ・移動本棚」を携帯している人も、見たことありません。
(そんな収納ケースがあったら、重すぎてお荷物になります)
読みかけの文庫本か新書本を、1冊、ないし2冊、出し入れしやすいような鞄のポケットに差してスキーや登山に行くというのがせいぜいだったと思います。
でも、音楽鑑賞がそうであるように、家以外の場所、とくに旅先のような環境が違う場所で読書するというのは、同じ人が本に向き合うにしてもだいぶ変わるように思います。
というのも、文章や書いてあることの心への入り方が、ニュートラルというか、家に居るときよりも素直な気持ちで読めるのです。


仮に旅先の土地が舞台となっているような小説を読んでみるとはっきりするのですが、物語の中の登場人物とか、作者の気持ちに共感しやすくなります。
シェイクスピアとかジョージ・エリオットの小説を読んでいても、一度イギリスへ行っているのといないのでは、あの大陸とは違う、独特の空気を想像できるか否かという点で大きな差が出るように思います。
いま居る場所と何の関係の無い本を読んでいても、旅の記憶が関係しているからなのか、旅先で様々な見聞に接しているからなのか、やはり文字の入り方が普段と違うように感じます。
うまく表現できないのですが、先般清泉寮に行って読書コーナーで本を読んでいたときも、家にあるお馴染みの本を手に取ってパラパラめくっていても、同じ本には見えないという感覚です。
良本とは、一度だけではなく、何度も読むうちに色々な面に光があたって、様々な顔を見せてくれる書籍だと思いますが、出先で本を読む行為は、そうした良本を見分けるのにも役に立ちます。
「こりゃダメだな」という感想の本は、旅先で出会ってもそのままですから。


で、この本に相対する旅先での出会いということになりますと、持ち運びがしやすい本であるかどうかは、乗りものの中で読むか否かにだけ関係してきます。
鞄に入れて背負ったり、肩掛けしたりして重くないかどうか、取り出しやすいか否かですから。
ところが今や、電子書籍の時代です。
携帯できるタブレットやスマホになって、そこに家中、いや、世界中の本を詰めて、旅に出ることが可能になりました。
「やった、これなら好きな時に、好きな場所で、好きな本を心ゆくまで読める」と思ったのですが、こと私に関してはそのように手放しでは喜べませんでした。

ためしにスマホで青空文庫などを読んでみたのですが、字が小さい、液晶が眩しいなど、紙媒体との差異を考えなくても、あの紙の本を素直に読んで、周囲の環境と一体化するという感覚には、どこかなりづらいのです。
同じようなズレは、電車やバスの中でスマホの文字を読むか、本の字を読むかでもでてきます。
スマートホンの方が、読みや意味が分からないときはすぐに調べられるし、聖書アプリなんて、画面から目を離していても音声が読んでくれるから大変便利です。


でも、あの重い本を抱えて、巻末の註釈と行ったり来たり、「これ、どういう意味だろう?」と本から目をあげて外の景色を見ながら思案したりといった、電子書籍と比べれば読書における「無駄」とも思われる行為が、実は人間の思索には重要なのだと気が付きました。
スマホやタブレットは便利なのですが、便利な分、想像力を働かせにくくする何らかの障壁が、生身の人間との間に潜んでいるのだと思います。
その障壁は、相当に意識していないと気が付けない、のんべんだらりと文字を追っているだけだと見過ごしてしまうような「微かな、しかし影響大の邪魔者」なのだと思います。

たとえば、音楽配信サービスを利用するようになった人が、CDを買わなくなったとして、その手のお店に行かなくなるように、、私が電子書籍にダウンロードするようになったとして、街の本屋さんに行かなくなる自分を想像してみると、そんな私は今の読書を続けていられないと思うのです。

それこそ、取り込むだけ取り込んで満足し、中身を全然読まない人になるのではないかと思います。

ここまで書いてきて、子どものころ、大型時刻表を持ち歩いて旅をしていた自分を思い出しました。
大概の大人は、時刻表の必要ページだけカッターナイフで切り取って携行していましたが、私はまるまる一冊持ち歩かないと嫌でした。
というのも、自分が乗る列車以外に、車窓から見える乗り換え列車やすれ違い列車、名物駅弁、駅からのバス便など様々な関連情報について旅をしながらつかみたいからです。
英語の辞書も、関連する語句を連続して引いてゆくと勉強になるように、大型時刻表を見ながら旅をしていると、次にめぐりたい旅に関し、様々なアイデアが浮かびます。
しかも紙媒体は、書誌として綴じてあっても、俯瞰したり凝視したりと自由自在です。
これがスマートホンやタブレットだと、凝視は得意でも俯瞰が不得意で、該当情報からの広がりに欠ける感じがします。
自然観察も同じかもしれませんが、目の前の情報と図鑑など紙の上の情報を見比べて、照らし合わせるというところから学びがはじまり、そこをすべてAIに任せてしまったら、人間の方で差異や共通点を考察することもなくなるし、それでは目の前の「なぜ」という疑問も湧いてきません。
やはりアナログと言われようと、非合理的といわれようと、紙の本を読みながら旅することはこの先も続けようと考えなおしたのでした。