旧東海道にブロンプトンをつれて53.大津宿から終点の京・三条大橋へ(その4) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(菱屋町商店街)

旧東海道は、大津宿本陣跡手前の京町一丁目交差点で左折し、吾妻川の水車谷を遡るように国道1号線を南下し、蝉丸神社の先でおおきく左カーブして、逢坂の関に至ります。
これに対し、京町一丁目交差点を直進し、そのまま西の百々川(どどがわ)の形成する谷間を詰めてゆき、小関という名の峠を越えて、山科盆地北東の藤尾川の谷間へと抜ける裏道が存在します。
昔から有名な逢坂関を越える本道を「大関越え」と呼ぶのに対し、こちらは「小関越え」と呼ばれていました。
平安時代には既に逢坂関経由の方がメインルートになっていたようですが、それ以降も北陸道方面へ向かう旅人を中心に、利用者があったようです。

というのも、大津側の分岐点である京町1丁目交差点から、山科側の合流点にあたる小関越追分まで、本道が4.4㎞に対し、小関越えは4.1㎞とやや短く、地図で見れば琵琶湖疏水もこちらを通っており、最短ルートにあたるからです。
但し、今の逢坂峠は国道による峠道開削によって、かなり低くなっているのに対し、小関越えは昔のままの逢坂山北方の鞍部を越えているため、京町一丁目交差点の標高が97.6mに対し、逢坂関の峠は167.2mで約70mの標高差ですが、小関越えの頂上は199.6mと100m以上の標高差があります。
ようするに、距離は伸びるけれどゆるい逢坂越えに対し、短いけれど狭くて急な小関越えで、自転車にとって楽なのは圧倒的に前者でしょう。
しかし、開発が進んでいない谷間を行く分、こちらの方が昔の雰囲気を色濃く残しているかもしれません。

宗清寺のお許し閻魔さま


旧東海道を北川家住宅前からきて、京町一丁目交差点を直進して古い街並みの残る路地を進むと、左側に真宗大谷派の長寿寺、浄土宗傳光院、曹洞宗青龍寺、同じく曹洞宗の宗清(そうせい)寺と、寺町に入ってきた感じになります。
面白いのは、「お坊さんと話そう」という無料相談の案内があった傳光院さん。
人間、悩みは他人に打ち明けた時点で半分は解決しているといいます。
内容が誰にも話せない深い悩みであればあるほど、その半分は大きいわけで、お寺の住職のような、職業上守秘義務のある方に、とくに自分のような何処の誰兵衛ともつかない一介の旅人が、秘密を打ち明けるのは双方にとって有益かもしれません。
もちろん、相手に明快な答えなど期待せず、ただ聴いてもらうことによって、解決の方向性を自分で探るというスタンスが大事だと思います。
お寺の住職にきくと、そこまで自分の問題を言語化して他人にぶつけられる人というのは、既に解決への糸口をつかみかけている人で、放っておいても自分で答えを見つけられる見通しがきくのだとか。


闇が深いのは、自分には問題が無いから他人への相談など必要ないと思っている、自己の問題すら把握できていない人たちで、こういう人々はいよいよ自滅する段階になっても、言語化はおろか、これまで自分を誇示してきたプライドが邪魔をして、他人へ打ち明けるなど到底できないのだそうです。
そういう人は、お隣の宗清寺の門前にあるお許し閻魔に懺悔してみては如何でしょう。
だって死んだ後のことをえらく恐れているのなら、せめて現世で閻魔様にそっと告白すればいいじゃない…と思うのですが、そもそも自己の罪自体を認識できないのだから、実際の閻魔様の前に引き出されても、滔々と偽善に塗れた自慢話をするのでしょうね。
なお旧東海道の北側には菱屋町商店街というアーケードのついたショッピングモールが並行しており、関西で撮影されるドラマで昭和の雰囲気を色濃く残したシーンを撮影するのに、ロケ地としてよく使われます。
どこかで見たなと思ったら、ある殺人犯女性の長期逃亡劇において、逮捕されたシーンに出てきた場所でした。
実際にゆくと、お店も京都よりずっとレトロな感じですので、興味のある方は立ち寄ってみてください。

(等正寺)
小関越えの道は、京町1丁目交差点から350m先で突き当たります。
ここで右折して、30m先を左折とクランクします。
150mほど路地をのぼってゆくと、左側に小関越の石造道標とともに、より大きな蓮如上人御旧跡の石柱がたっていて、側面には「かたゝげんべゑのくび」とあります。
脇にはおなじ字で「吉崎御下向蓮如上人お泊り 別所山等正寺」(とうしょうじ)とあり、どうもこの先のお寺に「げんべえさん」の首がお祀りされているようです。
調べてみると、浄土真宗中興の祖である蓮如上人(1415-1499)は、延暦寺によって大谷本願寺が破却された際、宗祖親鸞聖人の御真影を持ち出して近江の国内を転々とし、当時は比叡山と対立関係にあった三井寺(現在の圓城寺)に預けたそうです。
その後蓮如上人は山科に本願寺を建立する運びとなり、預けていた御真影を返してもらおうと掛け合ったところ、そのおかげで参拝客が増えて潤っていた三井寺側は返却を渋り、「返してほしければ生首2つを持ってこい」と無理難題をふっかけることで、使者を追い返しました。
この話を聞きつけた信仰に篤い堅田の漁師源右衛門が息子源兵衛に伝えると、息子は自分の首を差し出し、父は息子の首を携えて三井寺へ乗り込み、「わしと息子の首で2つだ」と談判に及んだため、三井寺は驚いてすぐに御真影を返したということです。


但し、この堅田源兵衛さんのものといわれる生首、現在は本堅田の光徳寺、今の三井寺に隣接する両願寺にもあって、同じ人間の首がなぜ3つもあるのかは(もう一つは父親の源右衛門さんのものだったとしても)謎だそうです。
親鸞聖人の御真影を取り返すために自分の首を差し出すって、凄まじい話です。
信仰の為なら自分の命など惜しくもないという純粋さは、宗教が世俗化してしまった現代では恐怖の的ですが、こうして今も大切にされているということは、その想いは伝えたいということなのでしょう。
これは『仏教の思想10 絶望と歓喜(親鸞)』(増谷文雄・梅原猛著 角川文庫刊)は読まないわけにはゆかなさそうです。
とここで、ブロンプトンのプーリーが脱落する事故が発生しました。
「うわー、これから峠越えが控えているところになんてこったい」と思ったのですが、こうした困難を一つひとつ乗り越えてこその旅です。
むかしの旅人は草鞋が切れるなんて日常茶飯事で、修理しても無理、替えの草鞋も使いきったら、入手できるところまで裸足で、見るに見かねた通りがかりの人が、自分の予備を渡すなんて珍しいことではなかったそうです。
「このまま小関越えを押し歩き登り切り、下りはペダルを漕がずに京都地下鉄東西線の山科駅まで走って、そこから地下鉄を乗り継いで北大路駅まで行って、LORO京都さんに持ち込めば何とかなる」そう算段して進みます。

(小関越地蔵)

(左の小道へ入ります)
石造道標から160m登ると、右側に真宗大谷派の新光寺、お向かいの左側に同派で件の等正寺があります。
その先小さく「百々川」(どどがわ)と彫られた石柱をみて、六地蔵と南無阿弥陀仏の石柱のある五本桜墓地を右に見てさらに進むと、やがて道は完全な山の中に入ります。
鬱蒼と樹木が生い茂り、夏の曇天ながら16時近くになっていて、往時もこんな風に寂しかったのだろうと感じます。
ブロンプトンが故障してしまったから押し歩きになりましたが、それでも息が切れるほどの急こう配で、乗ったまま越えられるか疑問の急な坂道が続きます。
途中長等山へのハイキングコース入口を右に見ながらさらに登ってゆくと、等正寺から1.1㎞で左側に峠の地蔵の祠を認め、小関越の頂上に到着です。
車の列が上下線とも続いて途切れない現代の逢坂峠よりも、空気がきれいだし、静寂の中で、肩で息をする自分の呼吸だけが聞こえる小関越えは、鈴鹿峠同様にもうすぐ旧東海道の旅も終わりという意識を余計に盛り上げてくれる気がしました。

(寂光寺)
峠の地蔵から50mゆくと、左手の茂みにガードレールが消えて、車の走れない簡易舗装の下り坂が分岐しており、こちらが小関越の道になります。
自転車で下ってゆくと、簡易舗装で路面が荒れているうえに、周囲の森や竹林も人の手が入っていないからなのか、ところどころ路上を湧水が流れていて、ブレーキをかけ続けても前につんのめりそうになる急な下り坂のため、前輪がスリップして転倒しそうになります。
車が入れないのをいいことに、自転車で飛ばして下ったら、確実に怪我をしそうな坂です。
狭くて細い道を、左側に煉瓦造りの琵琶湖疏水第一竪坑を見ながらくだると、750m先の普門寺門前で車道と合流します。
西大津バイパスの下をくぐり、車道に出てから220m下ると、鎌倉時代の作とされる藤尾摩崖仏のある日蓮宗の寂光寺。
左手の崖に沿って290m進み、湖西線と東海道本線のトンネル出口の上を通過した後に右折し、線路を右下に見ながら進みます。
地蔵堂などをみながら、関西特有の文化住宅(同じ形式の家が棟続きで並ぶ)の建ち並ぶ路地を下り、大津市立藤尾小学校を左にみながらサイロのある工場社屋(日本窒工)を抜け、京阪京津線の踏切を渡ると、本道との合流点に突き当たります。
角の右手には「三井観音道小関越」の石柱が立ち、前に滋賀県大津市と京都府京都市の県境について書いたように、小関越えの道両側は昔から三井寺の荘園とされていたため、ここまでずっと大津市内を走ってきたことになります。

(手前が東海道本線、奥は湖西線)

(京阪京津線の踏切を渡ったら右へ)

今回、ブロンプトンが故障して焦りましたが、こんなことのないように、定期的に自転車をひっくり返して、下からプーリーを留めているネジが緩んでいないかどうか、確認しておくことをお勧めします。
ひっくり返さなくても、後輪だけ折りたたんだ時に該当箇所は見えますので、畳む際に毎回注目していればわかると思われます。
また、これまでずっと乗ってきた赤いチタンモデルのブロンプトンですが、この小関越を撮影した一年後、続きの取材ができないままコロナ下でフレームにひびが入るという憂き目にあい、あえなくフレームをオレンジのそれと交換(チタンフレームはそのまま流用)ということになりましたので、ここから先はオレンジ・ブロンプトンの写真が混じることをお許しください。
もちろん、写真は撮れなかったけれど、DANさんとの旅も含めて、赤いブロンプトンは旧東海道を2度、尺取虫方式で完走しています。

(本道との合流点)
次回はここから旧東海道の本道に復帰し、山科盆地を抜けていよいよゴールの三条大橋へと向かいたいと思います。