成田空港にブロンプトンをつれて(その3) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(大柏川第一遊水池)

(その2から続く)

上野駅から朝の5時ちょっと前にブロンプトンで走り出し、浅草の吾妻橋で隅田川を渡り、スカイツリーのすぐ下を抜けて東進し、平井から平井大橋で荒川を渡って、総武本線沿いをすすみ国道14号線の市川橋で江戸川を渡って千葉県に入り、そこから真間川に沿って東へ、大柏川をさかのぼって、市川市東部の大柏川第一湧水池まで来ました。

ここまでおよそ2時間、時刻は7時です。

マイカーによるドライブや、オートバイによるツーリングもそうなのですが、どうも東へ行くときは道の選択に苦労します。

千葉県に入るまでに大きめの川をいくつか渡る際、どうしても幹線道路の橋を利用せざるを得ず、その都度土手の登り降りに苦労することと、ここまでは特に地形が平らなため、むかしからある古い道が判別しづらいうえに、県道や国道そのものに拡幅されてしまっていて、自転車では走りにくいのです。

かといって北総線沿いに進もうとすれば、あとから作ったニュータウン路線のため、沿線に古い街並みも少なく、昔からの道が並行してあるわけでもありません。

(船橋法典駅近くでJR武蔵野線をくぐる)

とはいえ、海外旅行の前座に成田空港までブロンプトンで走り切ることを考えているので、何とかスムーズに空港まで走り切るルートを考えねばなりません。

湧水池の北側をまわりこんで、市民プールを左に見ながら、妙正寺、姥山貝塚下へと続く谷間の道を入ってゆきます。

途中武蔵野線の線路をくぐりますが、すぐ南の台地上には船橋法典駅があります。

これも市川真間同様、変わった地名です。

このあたりを法典村といったそうですが、何かの言葉が転訛したのか、それとも日蓮上人が通った際に仏法を伝えたからなのか、その辺のところはわかっていないらしいです。

平安の頃の律令を記した木簡でも出土したなら、ロマンのある話だったのですが。

(谷を詰め、姥山緑地付近で下総台地への坂を登る―左側の坂)

(台地の上に出ようとすると、朝日が正面から差し込んできました)

武蔵野線をくぐったのち、さらに谷を詰めてゆくと、姥山緑地のあたりで登り坂となり、下総台地へとあがります。

都内から江戸川を渡って千葉県に入ったばかりの市川橋付近における標高は3.7mですが、そこから真間川、大柏川を遡り、この付近の標高は12.3mです。

ここから260mほどの距離で、下総台地の上(標高23.8m)まで、その差10.5m分を一気に駆け上がりますが、坂自体は3段に分かれており、上に行けばゆくほど緩くなるので、ブロンプトンに乗ったままで登坂可能でした。

なお、下総台地自体は地形図を見ると分かりますが、下総層と呼ばれる堆積層の上に関東ローム層が積もったもので、武蔵野台地同様に、台地上に登ってしまえば、上部は比較的平らで広い土地が広がっています。

(T字路を左折して木下街道へ)

あがったさきで県道9号線(船橋松戸線)に出て右に150mほどゆくとT字路にぶつかるので、左折して木下(きおろし)街道に入ります。

木下街道は江戸湾に面した行徳と、利根川沿いの木下を結ぶ脇往還で、八幡で佐倉道と分岐したあと、鎌ヶ谷、白井、大森に宿場が置かれていました。

銚子でとれた魚を江戸に運ぶ役割を担っていたことから、別名を鮮魚街道ともいいました。

そういえば、私が子どもの頃は京成線や国鉄の成田線・常磐線の早朝上り列車は、担ぎ屋さんたちしか乗れない行商専用列車が運行されていました。

今でこそトラックの冷凍車が運ぶのでしょうけれど、あれを生業としていた担ぎ屋さん(主に高齢の女性)たちは、江戸時代の名残だったのです。

しかしこの木下街道、交通量が多い割には上下2車線で歩道も狭く、路線バスも走っているとあって、自転車にとって走り易い道ではありません。

そこでT字路交差点から1.9㎞東の東武野田線馬込沢駅南側の(野 第290号)踏切手前で右折しお隣の(野 第291号)踏切を越えて、並行している1本南の路地を東へ進み、船橋市二和西3丁目にある御滝不動北側の交差点から、千葉県道288号夏見小室線に入ります。

県道に入ってから950m先、三咲駅南側で新京成線の踏切を越えます。

このあたり土地勘が無く、鉄道路線もどのように配されているのか分からないし、旧陸軍の鉄道連隊が訓練のため敷設した跡を利用して開業したという新京成線の路線は、くねくねと地形の尾根筋に合わせて不自然に曲がっている(ゆえに線路沿いの道はアップダウンが無いと思われます)ため、こうして駅を見ても、この列車に乗ったら何処へどれくらいの時間で出られるのか、全くピンと来ないのです。

(東武野田線踏切)

(途中で住宅街の道で見かけた像 交通事故址ではないかと思われます)

(新京成線の三咲駅前踏切)

いっぽう、県道の方に目を転じると、この夏見小室線は木下街道とほぼ並行して北総鉄道の小室駅付近まで伸びており、番号からわかる通り、新しい県道なので路側帯も歩道も広く幅をとっていて、ずっと安全に走れます。

但し、古い道ではない分延々と畑の中をゆくので、冬場のような追い風の日ではなく、例えば炎天下の向かい風の中自転車で走ると、かなりきついものがあります。

もう少し自転車に優しい道はないかと探したのですが、下総台地の上で連続している道は、木下街道のような古い街道をそのまま車用に拡幅した道か、このように、新たに機械で切り開いた直線道路かのどちらかです。

東京から四方へと伸びる旧街道をブロンプトンで走っていて思うのですが、東海道、大山街道、甲州街道、青梅街道、川越街道、中山道と旧街道を時計回りに比べてみると、バイパスを整備することによって旧道に流れ込む車の量が減って、歩行者や自転車に優しくなった道が、東京、神奈川、埼玉、千葉の順で少なくなってゆき、千葉県の道路は車と人間の分離が一番できていない、というか、生身の人間の通行をあまり考えていないと感じます。

それは、鉄道や街と街の間隔などの兼ね合いで、あるていどまとまった距離を歩いたり自転車に乗ったりして移動する機会が少ない生活を強いられているからかもしれません。

(船橋アンデルセン公園)

昨年に同県の八街市で集団下校中の小学生が複数亡くなる痛ましい事故がありましたが、運転手の飲酒がクローズアップされるばかりで、道路行政の不備は少ししか指摘されていませんでした。

通学路にガードレールを設けるよう再三陳情していたのに、道路拡幅予算の都合から先送りされていたともききます。

いくら取り締まりや刑罰で自動車を運転する側を脅しても、自分だけは大丈夫だと思っている人を引き止めることはできません。

「ダメ!絶対!」で覚せい剤が撲滅できないように、脅しや脅迫、圧力で事故が減るわけではないと思います。

おそらくは、個々人に自動車を運転する機会を減らすよう、産業構造まで見直すか、さもなくば、人間と車の通行帯を完全に分離するしか根本的な解決方法はないのです。

どちらもコストがかかるし、それを利用者の負担に転嫁すれば、自動車やトラックという乗り物は実は物凄くコストパフォーマンスの悪い乗り物ということになるわけです。

しかし、車を使うことを生業としている、或いは道路行政、政策にかかわっている人々は、費用対効果の面ばかりを優先させます。

1984年に上梓された「ああ、ダンプ街道」(佐久間充著 岩波新書刊)には、千葉県君津市において山砂を採取する一日四千台ものダンプカーの往来について、住民がどれほどの公害に曝され、交通事故を引き起こしているか、また自営業の運転手も、いかに低賃金で危険な走行を強いられているかについてリポートしていましたが、あれから40年近くたった今でも、経済の為には人の命を犠牲にしても厭わないという、産業優先の道路交通行政が、とくに千葉県では顕著に感じます。

(国道16号線手前で下総台地から下ります)

(下りきったら左折して国道16号をくぐります)

千葉県道288号夏見小室線を4.5㎞ほど走って、船橋アンデルセン公園の北側角で右折し、そこから千葉県道61号船橋印西線に入ります。

この県道が国道16号線と交差する島田台交差点の手前250mを右折して、国道に沿う形で南下し、坂を下って下総台地から降りた場所が、印旛沼放水路(新川)沿いのはけの道(丘陵の裾にあたる道)になります。

左折して16号線の下をくぐり、右折して新川べりのサイクリングコースに出ます。

ここで時計を確認すると8時10分。

大柏川の遊水池から1時間ちょっとです。

この道は東京湾側から花見川、新川、印旛沼へと続く関東では有数のサイクリングロードで、この自転車専用道をつかって東へ向かいます。

土手には桜が植えられて、春はきれいかもしれませんが、その時期は西風よりも東風が優勢になる日の多い季節で、このような風よけの無い道を向かい風で走るには、小径車は辛いかもしれません。

そのまま台地上を東進しても、自転車にとっては走りにくい千葉ニュータウンがでんと控えていて、自転車にとってはサイクリングロードの方が遥かに走り易いという判断からで、このルートを通る場合は西風が吹く日をお勧めします。

また、人家が乏しい地域のサイクリングロード故、家の近くの多摩川のように、ジョギングや散歩をしている人は殆どおりませんが、だからといってスピードを出したまま走ると、突然河川敷の茂みから釣り人が現れることもありますので、前の見通しがよいからといって、むやみに飛ばさないよう走ります。

なお、東京湾により近い旧房総往還を走ってから幕張の先で花見川に至り、サイクリングロードに入った方がよいかとも思ったのですが、房総往還は途切れている箇所が多く、また成田へ行くには船橋、幕張を経由した方が距離は伸びてしまいます。

(印旛沼放水路沿いのサイクリングロード。向こうに見えるのは米本団地)

冬の朝、新川サイクリングロードにでると、川面には水温と気温の差から川霧が立ち上っています。

オランダの低地帯もこんな感じなのかなと思いながら、東へ向けてブロンプトンを走らせます。

進行方向右側の丘の上には、昭和の団地そのものの八千代市の米本団地、左側の下総台地の上には、遥か向こうに千葉ニュータウンの高層マンション群が見えていますが、新川の周りは広々とした田んぼが広がって、遥か先まで視界がききます。

そのままサイクリングロードを走っても良いのですが、次の逆水橋のもうひとつ上流にあたる平戸橋で対岸へ渡るついでに、川が大きく湾曲している部分は弧の内側にあたるはけの道を利用すると、神尾橋をパスしてショートカットになります。

このあたり、川べりには芦の原と、土手の外に水田が広がるばかりで、何もありません。

進行方向右手の丘の上に、頭だけ出している高層ビルを認めますが、あのあたりが京成臼井駅周辺のマンション群になります。

川沿いのサイクリングコースはこのように、文化的なものが何もないので、ブロンプトンで旅をする場合はあまり走らないようにしているのですが、こと千葉県の成田空港に向かうに際しては、危険な旧街道改め県道を走り続けるよりはずっとましだと感じます。

(近道のためにはけの道も使います)

(正面の丘の上が京成臼井付近)

松保橋付近で新川の土手上に伸びるサイクリングロードに復帰し、左岸(進行方向が上流に向かうため、川に対しては右側の岸)をゆき、阿宗橋、船戸大橋までくると、胃袋のような形をした印旛沼(西部調節池=西印旛沼)の南端に出ます。

印旛沼は、今は北部調整池(北印旛沼)と西部焼成池が、印旛沼捷水路(しょうすいろ=河川の蛇行部分を短縮する目的で開削された水路。中央放水路とも)でつながった状態ですが、もともと、といっても2万年前の話ですが、下総台地の浸食谷が縄文海進によって溺れ谷(何らかの理由で海面下となった谷に、海水が流入すること)となり、香取海(かとりうみ)と呼ばれる海の一部でした。

それが奈良時代になると海退によって、川からの土砂が流れ込むようになり、湖沼が形成されます。

江戸時代の利根川東遷事業によって、江戸湾へ注いでいた利根川が銚子へ向かうように付け替えられると、利根川の水が流れ込むようになり、付近は水害が頻発するようになりました。

江戸時代中期から干拓を兼ねて、今走ってきた放水路(新川)で花見川と結んで江戸湾へと排水すべく疏水工事が行われ、何度も失敗を繰り返しながら結局完成したのは1960年代になってからといいます。

今は外来種の亀や魚の繁殖、そして水質汚濁が問題となっているとか。

そういえば、昔水道局に勤めている大先輩が言っていました。

水は澱んでいても、流れ過ぎてもダメで、その中庸具合が難しいと。

治水とは、山でも野でも人間の思い通りにはゆかないものです。

(左に西印旛沼がみえてくると、サイクリングロードの終点近くになります)

そのまま土手を走り続けると、平成6年に完成した、リーフデ(“Liefde”=オランダ語で「愛」日本に初めて漂着したオランダ船もこの名前)と名付けられたオランダ風車のある、佐倉ふるさと広場に到着し、ここがサイクリングロードの終点となります。

時刻は8時45分ですから、35分くらいサイクリングロードを走っていた計算になります。

感覚的にはもっと長い時間トレーニングのような走りをしてきて、事実冬なのに汗だくになっているわけですが、これは景色が単調だったことの副作用でしょう。

しかし、この調子ならお昼くらいには成田空港へ着けるかもしれません。

そうすれば、午後の海外便には間に合うことになります。

(但し、飛行機に乗る前にシャワーを浴びたくなると思われますが。)

広場の風車は京成本線の京成臼井~京成佐倉間の車窓からもよく見えて、かつて北総線全通前に成田空港へ向かうスカイライナーの、「もうすぐ成田」というアクセントになっていました。

これからの時期はチューリップが周囲に開花するので、一層華やかになります。

なお、京成本線線路の向こう側、格子状の法枠工事が施された崖は、2020年に個人の家から逃げ出した山羊が居ついていた場所です。

あの山羊は現在、佐倉市の自然体験施設、草ぶえの丘で保護されているそうです。

次回はこの佐倉ふるさと広場から、京成本線に沿って成田を目指します。

(その4へ続く)

(佐倉ふるさと広場の風車と、背後を走る京成本線)