車窓からの眺めと読書の関係(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

(その1から続く)
鉄道からの車窓について、窓が開かなくて速度の速い新幹線や在来線の特急列車よりも、のんびりといく急行や鈍行列車の方が、停車駅が多い分、窓から様々な情報が入ってきて、楽しいものでした。
ほかの路線に比べて、あまり景色に変化の無い、会津と越後を結ぶ只見線とか、北海道の深名線とか天北線とか、今や廃止寸前か、既に廃止から何年も経つこれらの路線も、大人になってみればその地域ごとに綿々と続いてきた自然と歴史があり、退屈だったけれど、再訪してみたい気持ちは残ったから、乗っておいてよかったと思います。
これら表を走る鉄道とは対照的に、地下鉄の車窓は何も見えないですからつまらないものでした。
でも、地下鉄だって先頭車両から目を凝らして車窓をみると、けっこう起伏があったり、水路を渡ったり、知らない場所に渡り線があったりして、その路線が敷設された土木技術によっても違いがあったりして、興味深いのです。

(新幹線の駅は没個性的だから、ここが京都だとわかるように撮るのは工夫がいるのです)

同じように、夜行列車について、何も見えないかというと、そんなことはありません。
スキーに行くために中央線夜行の急行アルプスに乗ると、笹子トンネルを出て勝沼から塩山にかけての夜景は見事でしたし、大八回り(当時は岡谷~塩尻間に塩嶺トンネルはなく、全列車が辰野回りでした)では、天竜川の松尾峡に「ほたるの里」という大きな看板がかかっていて、こんなところで夏に蛍をみたいと思ったものです。
大学生になってからは、中国や欧州で長距離鉄道旅行をしました。
北京から烏魯木斉(ウルムチ=新疆ウイグル自治区の中心都市)への2泊3日の列車旅は、それこそ大陸の奥深さと黄河の長さを感じましたし、オーストリアやスイスではため息が出るほど美しい山の景色を堪能しました。
はじめて訪問する国を列車で訪れた場合は、降車駅が空港以上に思いで深くなります。
チェコのプラハ本駅(Praha hlavní nádraží)がまさにそれでしたが、午後にウィーンからの列車を降りた途端、モノクロ無声映画の世界にタイムスリップしたかと思うほどのレトロさに圧倒されました。
「世界の車窓から」という短編の長寿番組がありましたが、あれがなぜあんなに長い期間続いたのか、自分にはよくわかります。

(新幹線の車窓から見た瀬田の唐橋)
航空機に乗る場合は、それが1時間程度の国内線であっても、私は必ず翼の上にはあたらない窓際のシートを自分で指定してきました。
今のようにネットで座席指定できない時代でも、会社にはオンラインの端末がありましたから、操作方を知っていたので自分で少しいじればできてしまったのです。
「超勉強法」を書いた野口悠紀雄氏だったか、飛行機に乗る時は眼下に広がる空からの鳥瞰を見ないのはもったいないと書いていました。
私も、しょっちゅう飛行機に乗ったとしても、絶対に下が見える座席をその都度指定すると思います。
もちろん、機上においては新聞や雑誌、ブランケットを配るCAさんたちには目もくれず、子どものように顔が窓に張り付いたままになります。
地図オタクの自分には、リアル・サテライト・マップを見逃したままの飛行機旅行なんてあり得ないと思っていますから。
雲の多い季節は何も見えないかといえば、さにあらず。
離着陸の前後に地上は見えますし、国際線の長距離飛行においては、(時差ボケにならないため)窓のシェード(日よけ)を下ろすよう指示されたものですが、あれとて日の出や日没前後にそっと外を眺めると、この世のものとは思えないくらい美しい雲海が広がっていたり、雲の間から高い山が顔を出していたりしますから、外を見ないというのは一生に一度かもしれない景色を逃してしまうことになります。

(伊吹山)
海外旅行で思い出しましたが、私が欧州に行き始めたころは、アンカレッジ経由の北回りが主流でしたから、成田から中欧寄りのチューリッヒまで、途中給油の空港滞在時間も含め、17~18時間くらいかかっていました。
当時の国際線はやはり、寝るか、本を読むか、せいぜい映画(モニターはギャレーの背についている大画面を皆で観る形式で、オンデマンドなんてもちろんありません。)を見るくらいしかすることがなくて、その映画鑑賞も、封切り前の映画が観れたりはするものの、著作権の関係なのか、同じ声優さんが声色を変えてアテレコしているため、2本も3本も見ているうちに飽きてしまうのです。
くわえてボーイング747など、当時主流だった広胴型(ワイドボディ)の飛行機だと、窓際の席に座れるようリクエストをあげてもなかなか叶わず、運よく窓際席を確保したとしても、冬から春にかけての北極回りルートはほぼ真っ暗ですから窓からの景色も封じられていました。
そこで、家から持ってきた文庫本を読み耽るわけですが、ご存知の通りエコノミークラスで荷物が20㎏を超えると、超過料金を取られます。
私の場合、外国に行っても本屋さんに入る習慣は抜けず、ドイツ語やフランス語なんか殆ど分からないのに、記念に本を買って帰ることを考慮したら、家から持ってゆける本は小型辞書と旅の会話集を除けば、文庫本2冊くらいが限界でした。
当然、いくら読むのが遅い自分でも、旅の最中に全部読み終わってしまい、仕方なく英和辞書を最初から読んでゆくなんてことまでやっていました。
しかし、こうして列車や飛行機の窓から景色を眺める楽しみがあるからこそ、それら乗り物の中での読書がすすむのだと今は思っています。


自転車に乗って旧街道を旅する時も同じです。
「もっと知りたい、より深く知りたい」という知的好奇心が刺激されるからだと昔は思っていたのですが、それだけではなく、旅をしながら感性を研ぎ澄ますことは、その土地にまつわる歴史やそこに生活する人に目を向けて、思いを馳せることです。
今私がこうして車窓から、そして自転車で走っていて目に入るもの、耳に聞こえるもの、風に乗る匂い、そして手で触れるものに敏感なのは、そして、字ばかりの本を読んでいても想像力を働かせると楽しく感じるのは、幼い時代からずっと、こうした列車の車窓から色々な情報を身体で取り込んできた経験が支えていると思っています。
だから私は筋金入りの乗り鉄になってしまったわけで、そうでなかったら、ブロンプトンに出会ってもここまで鉄道旅行や旧街道尺取虫の旅に深入りできたかは疑問です。
時々、駅のホームから、車窓から、もちろん道端でも、素晴らしい夕空を眺めた時、或いは先日の白馬からの帰りみたいに、虹を見た時、そして、停車した駅で満開の桜や、青空を背景に、麓からすっとそびえ立つ山の稜線を眺めた時、同じ場所でずっとスマートホンに目を落とし続けている人たちは、勿体ないことをしているなと感じます。
新幹線も、忙しそうにノートパソコンのキーボードを叩いているビジネスマンをよく見かけますが、たとえ私がプロの物書きだったとしても、走る列車の中では車窓が気になって、文書作成どころではありません。
でも、車窓から見える景色を帰ってから文章にしろと言われたら、上記のようなマニアックな記述はいくらでも作文できます。
前に予備校の先生が大阪発東京行きの夜行列車「銀河」に乗って、これで抱えている仕事を車内で片づけられると思ったら、列車からみえる夜の町が気になって、結局仕事なんか手につかなかったという感想を述べていました。

その東大法学部卒の先生、その時の空想に耽る自分について喋る時の瞳が少年のようで、とても魅力的でした。

(浜名湖。奥に見えるのは舘山寺温泉)
こうしてブログに長文を書けるのも、旅をして、あるいは日常のふとしたひとコマを観察して、それを内言と呼ばれる、自分の心の中で用いる言葉に言語化しているからです。
テレビの視聴もそうなのですが、列車内で車窓ではなく、スマートホンの中のとくに映像コンテンツを見ているときは、この内言が周囲の環境との間でまったく働きません。
もちろん、窓の外を見ていないのだから伊吹山や富士山の積雪状況はどのくらいだったかとか、利根川の土手に菜の花は咲いていたかとか、韮崎から小淵沢にかけての甲斐駒ヶ岳をバックにした桃の花の開花は何分咲きだったかとか、天竜川の水量は岡谷と浜松でどのくらいだったかとか、わかりようがないのです。
それだけでなく、私は長いこと旅に出ないと、どうしても日常での行動パターンは同じことの繰り返しになって、こうした自然の変化への感動や、色々な地方、国に暮らす人たちへの興味も鈍くなってしまうような気がしています。
家に居て、4Kテレビで同じ風景を見たとしても、自分の脚で行く旅とは全然違いますし、急ぎ足で途中省略したり、自分の車で延々と運転したりして目的地を往復した場合、やはり見るもの、触れるものは限定的になりがちです。
どうもひとり旅というものは、無関心、無感動、思いやりのない生活を防止する役目があって、その手段も楽をすれば効用が薄くなり、苦労すると効き目が濃くなるようなのです。

(富士山)
最近は、スマホに囚われた大人が増えるのに比例して、靴を脱いで列車のシートにのぼって逆を向いて膝をつき、車窓に夢中になる子どもをめっきりと見かけなったように思います。
今、電車の車内にベビーカーを持ち込み、そこにタブレットやスマートホンを固定して、子守をさせている親御さん(当人もスマートホンにばかり目をやって、一向に子どもと視線を合わせない)を見るにつけ、この子たちが大人になった時のリテラシーや対人関係はどうなってしまうのだろうと思います。
拙い対話でも構わないので、車窓から見える景色に一緒に驚いたり、それを言語化するような親子関係を習慣づけたりことが、実は子どもの表現力を伸ばし、読書好きにするための近道ではないかと、ひそかに思っております。
それにはマイカーを運転しながら、或いは高速バスに乗って防音壁ばかり見続けるよりも、鉄道からの車窓の方が向いています。
鉄道の車窓には駅もありますし、線路際の乗客を意識した様々なサインも含め、読み方を知るだけでも漢字の学習になります。

(「大海老」が「おおえび」だと知ったのは、海老名駅のおかげです。)
また、車窓から見える自然は、高速道路よりもずっと変化に富んでいます。
通いなれた通勤、通学の車窓にどんな驚きがあると反論されるかもしれませんが、旅でこうした細やかな観察眼を養っておくと、日常においても季節によって、天候や時間帯によって、さらに見る人の気持ちによって、とくに自然の微細な変化にも気が付くようになります。
鉄道に乗るときは、たまにからでも構わないので、スマートホンは鞄にしまい、窓から見える外の景色に目を向けてみることをお勧めします。
(おわり)

(大山)