旧東海道旧東海道にブロンプトンをつれて53.大津宿から終点の京・三条大橋へ(その3) | 旅はブロンプトンをつれて

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大津宿から逢坂の関を越え、京阪京津線大谷駅前を通って、国道1号線を下って行ったさき右側にあるお寺、月心寺(34.992238, 135.849317)から、京の三条大橋を目指します。

お寺の前の国道1号線を下るわけですが、京滋を結ぶ動脈として深夜早朝を除いた時間は、車が両方向からひっきりなしに続いてきます。

国道の向こう側には、京阪京津線と名神高速が並行していますが、後者は防音壁に阻まれて、交通量はわかりません。

山あいの道ゆえに、京都方面、大津方面それぞれに向かう車に向けたサインボードをみかけます。

「立命館守山高等学校」の看板をみて、昔スキー場でアルバイトをしているとき、こちらの難関私大は「関関同立」で、関東でいうところの“MARCH”とか「早慶上理」みたいなもの、と関西から来た大学生に教えてもらったことを思い出しました。

彼らの特徴は、学年を聞いてくるときに「自分、何回生?」みたいに、質問の相手を「自分」と呼び、「n年生」を「n回生」で表現すること(それに対して「自分は高校3年生であります」みたいな自衛隊言葉で答えると笑われる)、シーズンの時期が同じラグビーに異様な関心を示す(当時、大学は同志社、社会人は神戸製鋼の全盛期)、ショッキングピンクとか、蛍光色を使ったど派手なスキーウェアを好む、「転ぶ」ではなく「こける」、「あったかい」ではなく「ぬくい」などの表現の違い、カラオケで「悲しい色やね」をやたらと歌いたがるなどの特徴がありました。

ホームゲレンデの八方尾根だと、関東圏からよりも、中京圏、近畿圏からのアルバイターの方が多数派だったから、冬休みのバイトが終わって横浜に帰ると、関西弁がうつっていたなんてこともありましたっけ。

でも、彼らに言わせると、偽の関西弁はイントネーションですぐわかるそうです。

関西弁といえば、道で小耳に挟む会話が年配者を中心に、「ほんま、けったいな話やわ」(本当に変な話だね)みたいなノリにいつの間にか変化しているのに気付きました。

おそらくは鈴鹿峠の西からこの調子なのでしょうが、草津宿あたりまで来ないと人と出会うことも少ないですから、今さらながらに認識します。

なお、関東で「けったいな」を使うと、「面倒くさい」とか「うざったい」という意味にとられてしまうので注意しましょう。

月心寺から600m緩い坂を下った、国道と鉄道が右カーブして、名神高速道路をくぐってゆく直前に、左の側道への入口があります。

この側道を入り、そのまま名神高速道路をくぐった先の藤尾交番(34.990405, 135.840067)前を斜め左に入る、滋賀県道35号線が旧東海道です。

県道といっても、センターラインの無い路地ですが。

一見すると、この先にある京滋バイパスへの進入路に見えますが、車で旧東海道を辿る場合、ここでの左折を見逃すと、2.7キロ先の外環三条交差点まで戻る切っ掛けを失いますし、そこでUターンできても、今度はそこから3.7㎞東の大谷駅まで戻らないと、再度のUターンはできませんから注意してください。

自転車の場合は、交番の前を左折できなくもありませんが、歩道を走っていれば間違いありません。

旧東海道はここからほぼ平らにすすみ、国道はさらに坂を下ってゆくので、両者の間には段差が生じます。

県道に入って50mさき左側に、大日如来の祠があります(34.990252, 135.839756)。

その30m先左側に佛立寺。

髭題目で「南無妙法蓮華経」と石柱が立っているので、日蓮宗のお寺かと思いきや、幕末から明治にかけて法華系仏教の一派として独立した、日蓮上人を宗祖と仰ぐ、本門佛立宗の初転法輪道場(ブッダの最初の教えを説く道場)という性格の由緒寺院でした。

明治くらいの分派だと、新興宗教に入れられてしまうこともあるようです。

仏教の各宗派とは、広範な仏教の教えの中から何を強調するかによって、それぞれの教義に特色があるのだと最近分かってきました。

平安仏教も、当時としては最新(つまりインドにおける仏教の最終形態だった)密教を中心とする真言宗と、法華経に密教を加えた総花的な天台宗があって、鎌倉時代になって後者から浄土宗、曹洞宗、日蓮宗が分かれました。

まだ角川文庫の仏教の思想全12巻のうち、9巻までしか読んでいないのですが、このあと親鸞、道元、日蓮と残り3巻の浄土、禅、法華一乗を読めば、日蓮宗成立の経緯がわかるのではないかと思っています。

佛立寺からさらに290m進むと、髭茶屋(山科)追分の道標です(34.990984, 135.836384)。

追分は馬子が馬を追い分ける行為を指し、分岐点を意味することは、これまで幾度か説明してきました。

「右京都、左伏見(現代の道標は宇治)」とある通り、京に立ち寄らずに大阪へ向かう場合、ここから左に折れて奈良街道(伏見街道)へ入り、山科盆地を南下して六地蔵へと至り、そこで西へ進路を変えて伏見港から川舟に乗って淀川を下っていました。

面白いのは、緑色の標識で、右側が大津市、左側が京都市と明記されいるところです。

これから直進する旧東海道側が大津市で、左側が大津市とはどういうことでしょう。

そう、ここはまだ京都府には入っておらず、滋賀県大津市内なのです。

先ほど国道から左折した藤尾交番は大津警察署の管轄ですし、道は滋賀県道35号線、そして追分手前で右側の景色が開け、眼下に国道1号線、京津線の追分駅、さらにその向こう、京滋バイパスの向こうに大津市立藤尾小学校(34.994917, 135.832261)が見えました。

県境がはっきりとわかるマピオンの地図で確認すると、佛立寺まで県境は旧街道左側の山の斜面を並行しており、その先で街道自体が県境となり、追分から先は旧街道左側に並ぶ家並み1軒分だけの幅が滋賀県大津市、その裏の家からは京都府京都市山科区となっています。

縮尺を小さくしてみると、逢坂関を越える旧東海道本道と、北にある小関越えと呼ばれる裏街道に挟まれた部分だけ、大津市が舌状に山科盆地へと張り出しています。

これは、かつて比叡山延暦寺と度々抗争をするほどの勢力を誇った、滋賀県大津市にある三井寺(現在の圓城寺)が、寺領を拡大する際に街道沿いの土地も含めた名残りということです。

現在、この滋賀県大津市に属する藤尾、横木地区のさらに北の行者谷にニュータウンが建設され、そこは京都市に属するため、そこに住む子どもたちは家から500m足らずの場所にある大津市立藤尾小学校の脇を抜け、さらに直線で1.7㎞南の京都市立音羽小学校(34.986004, 135.825040)まで通わねばならず、対して藤尾小学校の生徒たちは、卒業したら3.7㎞北東の山向こうで琵琶湖畔に近い、大津市立皇子山中学校(35.021741, 135.858863)に進学しなければなりません。

歴史によって、旧街道に面して並んでいる家だけが滋賀県に入るというのは、他にもゴミ収集システムとか、役所通いとか、色々不便なことがありそうです。

そのまままだ大津市内をゆく旧東海道を直進します。

追分から先はやや下り坂となります。

80m先の左側に真宗大谷派閑栖(かんせい)寺を認めます(34.991166, 135.835477)。

このお寺は山門前に東海道の道標、門の内側に、厚い板状の花崗岩に轍状の溝を掘り、牛車の車輪をそこへ落として通行を楽にする車石と呼ばれる石が残されています。

江戸時代後期にこのお寺の前の坂は、京都へ向かって右側にこのガイドレールに見立てた車石を並べた車道、そして左側は安全のために、車道よりも一段高い位置に人馬用道と、通行区分が設けられていたそうです。

それだけのインフラを江戸時代に整えるということは、この区間は物流や人々の往来が多かったということなのでしょう。

境内の一角に、その様子が復元されています。

さらにその向こうに「従是西寺門領」(これより西、(三井)寺領)の石柱があり、やはりここまで三井寺の荘園になっていたことを示しています。

閑栖寺から110mほど進むと、旧東海道の右側には背の高い防音壁が立ちはだかります。

この向こうは国道1号線と京滋バイパス、そして名神高速道路の結節点となる京都東ICのランプウェイが控えています。

普通、長距離を走る京都駅行きハイウェイバスが名神高速道路を降りるのは、これよりひとつ西の京都南インターチェンジですが、これは駅の高速バス停が南側の八条口に集中しているからで、駅の表玄関にあたる烏丸口や、祇園から四条河原町にかけての繁華街、旧東海道の終点三条大橋など、市内の主だった観光箇所へゆくには、こちらの京都東インターチェンジから五条バイパスを通って行った方が遥かにはやくアクセスできます。

そのためか、この防音壁の向こうの国道沿いには、有名な井筒八ツ橋本舗の追分店があります。

行き来する観光バスを意識しているのか、広い駐車場を持っていますが、旧東海道側からは歩道橋(34.991348, 135.833723)を渡ればすぐ向うですし、自転車なら上横木町地蔵尊(34.991245, 135.834152)手前を右折して国道へ出ればすぐ左側です(旧街道から片道140m)。

八ツ橋の始祖は江戸前期に、祇園の井筒茶店が売り出した、堅焼きせんべいだそうです。

なんでも筝曲八橋流の創始者、八橋検校(やつはし けんぎょう1614-1685)が、お櫃に残った米粒を洗い流すのは勿体ないと、茶店の主人岸の治郎三に密と桂皮粉末を加えて煎餅を焼くことを教えたといいます。

この商品は花街祇園の芸妓や客、そして東山界隈の寺社へ参詣する人たちの間で流行になり、彼の遺徳を顕彰して「八ツ橋」と名付けられました。

その後、文化2年(1805年)に井筒茶店に仕出しを行っていた津田佐兵衛が祇園南座前でおこしたのが、井筒八ツ橋本舗です。

八ツ橋のルーツはお煎餅だったのですね。

時代が下って昭和22年に発売開始した、粒あん入り生八ツ橋の「夕霧」は、実在した太夫(上方では花魁のことをそう呼びます)夕霧の恋を描いた歌舞伎作品をオマージュして名付けられたそうです。

さらに昭和42年に発売された「夕霧」の普及品「抒情銘菓夕子」は、水上勉の小説「五番町夕霧楼」の主人公からきているらしく、たしか「五番町…」は映画化もされて、遊女と学僧の悲恋ものだったような記憶があります。

旧東海道へ話を戻します。

自転車に乗ったまま旧街道をゆく場合は、井筒八ツ橋本舗追分店へ通じる歩道橋の先を右折して坂を下り、地下道で国道をくぐります。

徒歩、または自転車を担ぐ場合は、そのまま240m直進し、国道との合流点にある歩道橋(34.991225, 135.831234)を渡ります。

こちらの方が、かつての旧道により忠実なルートになります。

国道を越え、反対側の側道に出たら西方向へ坂を下り、70m先で国道と別れて右斜め前へ折れるのが旧東海道です(わりと目立つ地図の看板あり)。

そこから70m先右側、三井寺観音道の石柱と石燈籠のたつ辻(34.991390, 135.829276 後ろのマンション1階にはスーパーマーケットがあります)が、前述した大津から小関を越えてきた裏道との合流点です。

このまま直進して坂を下れば山科駅であり、その先で日の岡峠を越えればいよいよゴールですがその前に、次回は大津からのもう一つのルート、小関越えについてレポートしたいと思います。