アンシュルス(“Anschluß”=併合)ヒトラーが帰ってきた日(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

(今回と次回は、あの頃読んでいた本を中心に、他の写真は本文とは関係ありません)

「ヒトラーが帰ってきた」といっても、前にご紹介した「現代によみがえってお笑い芸人デビューして・・・」という小説や映画の話ではありません。

今回は本物のヒトラーがお里帰りした日の思い出から、今日の紛争について考えてみたいと思います。

いや、独裁者は帰ってきているのかもというお話です。

学生の頃、今の時期はよくオーストリアのウィーンに独りで来ていました。
時期的にいえば春休みであり、冬のスキー場でのアルバイトがひと段落して期末試験も終了し、貯めたお金をかき集めて格安の航空券を購入、最初はアンカレッジ経由の北極回り(業界用語では“Polar route”略称PO)、80年代末から90年代はじめにかけて、当時のソビエト連邦が西側航空会社の欧州~東アジア線にシベリア上空の空路を開放すると、シベリア横断直行便(“Trans-Siberian route”TS)でチューリッヒ(ZRH)とかフランク(フルトFRA)、コペン(ハーゲンCPH)、を経由して、ウィーンのシュヴェッヒャート空港へ飛びました。
もっとも安いのは、香港やカラチなど複数を経由してゆくいわゆる「南回り」でしたが、こちらはなんぼ安くても時間がかかりすぎるということで、私は敬遠しました。
今はロシア上空が飛べなくなりましたから、TSルートはクローズ、日本~欧州便を北極回りか南周りに戻すとニュースで報じていました。
4時間半くらい余計にかかるみたいですね。
でも、以前と違うのは旅客機の航続距離が伸びたため、これら遠回りルートを飛んでも途中給油は必要のないこと。
これは大きいと思います。
旅行を春先に選んだのにも理由があります。
実際、冬から春にかけての欧州旅行は「欠陥品」と呼ばれるほど天候が悪くて、都市に行っても毎日ぐずついた空模様、ならばスキーでもと思ってチロルやアルプスへゆくと土砂降りの雨で、どうにもならないのです。
しかしその分航空券は安価でした。
だから、夏休みはアルバイトにいそしんでお金を貯えて、冬に入ってもアルバイトを変えて、春の年度末前に放出なんてことを繰り返していました。


目的地も、当時のヨーロッパ旅行の花形である、ロン(ドン)パリローマを避けてウィーンにしていたのには理由があります。
別に音楽とかオペラとか、少年合唱団に興味があったわけではありません。
当時はまだベルリンの壁が現存していました。
有名なチャーチル英首相の演説にある「鉄のカーテン」がちゃんと機能していたのです。
“From Stettin in the Baltic to Trieste in the Adriatic, an iron curtain has descended across the Continent.”
(バルト海に面したシュティッティンから、アドリア海のトリエステまで、ヨーロッパは鉄のカーテンによって遮断されている。)
で、チャーチルの自伝を読もうとしていた当時の私自身は当時この鉄のカーテン(東西イデオロギーの対立国境)の向こうへ行ってみたくて仕方なかったのですが、一か所、西側からみたらけっこうな勢いで東側に張り出している、逆に東側からみれば西から押し込まれている場所があります。
それが当時の中立国オーストリアの首都、ウィーンだったのです。


じっさい、ウィーンは当時の共産圏、チェコスロバキアの首都プラハよりもはるかに東に位置していて、市内を流れるドナウ川を船で下れば、60㎞、つまり1時間半ほどで同じ国の第二の都市、ブラチスラバ(現在のスロバキアの首都)に到達します。
また、南東へ同じ距離を高速で走れば、ハンガリー国境を越えてショプロンという街へ行けるので、ここで食事をして、ブタペストに日帰りで往き来できました。
ベルリンの壁が崩壊するきっかけとなった、汎ヨーロッパ・ピクニック(政治集会の名を借りた亡命教唆イベントで、主催者は旧オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子にあたる、ハプスブルグ家の当主だった)は、このショプロン郊外で1989年8月に開催され、ハンガリーに逃げ込んでいた亡命希望の東独市民3000人余が、開放された国境を越えて西ドイツへ亡命を果たしました。
だから、当時の日本も含む西側マスコミの東ヨーロッパ担当駐在員は、通常はウィーンに待機していて、ポーランドやチェコスロバキア、ハンガリーやユーゴスラビアなどの社会主義陣営の国でなにか事件があると、それっとばかりに取材に出かけるという塩梅でした。
同様に、これらの国を巡るバックパッカーも、鉄道旅行希望者はとくに、ウィーンの各国大使館でビザを取得し、中でもチェコスロバキアやポーランド、東独方面への列車が発着するミッテ駅(現在は中央駅ができてそちらに機能が移っています)や、ハンガリーやユーゴスラビア方面列車が出る南駅(サァドバンホフ)に近い安ホテルに泊まったものでした。
当時は親方ソビエトな国々でしたから、鉄道事情も劣悪で、遅延などは日常茶飯事、ユーレイルパスは使えず、私は予め日本で取得した査証をみせて、切符を購入したのですが、西側旅行者にとっては距離のわりにはものすごい格安で長距離移動ができました。
(但しドル建て清算のみ)
そしていよいよ列車に乗り込む段になると、日本の戦前に走っていたようなモノトーンの古式蒼然とした客車がきて、6名定員のコンパートメントには、英語の通じない東欧諸国のお年寄りが乗っていて、身振り手振りで食べ物を交換したりして、これまた旅情をかきたてたのでした。


そして東欧各国へ入ると、最初は西側資本のホテル、慣れてくると現地警察にワイロをつかませて裏営業している民家に泊まりました。
社会主義国を旅する場合、建前上は現地団体からのインビテーション(招待状)を取り寄せて、規定ホテルに宿泊しなければならなかったのですが、実際は代行業者がおりましたし、官憲も米ドルを渡せば大概のことは目を瞑ってくれたそうです。
(さすがに貧乏学生にたかってくるなんてことはなかったですが)
民泊すると、現地の人と生の会話を交わすことができるのも魅力的でした。
ポーランドなんて日本に興味のある人が多いので、英語ができる若い人を通訳に挟んで、日本の紹介本に書いてあるアネクトード(政治や世相を揶揄した小話)を伝えて、大笑いした記憶があります。
Where is the best viewpoint in Warsaw city?
It’s from Pałac Kultury i Nauki(PKiN), because you cannot see PKiN.
「ワルシャワでもっとも眺めの良い場所はどこだい?」
「そりゃ、文化科学宮殿からの景色にきまっているよ。なんたって、あの文化科学宮殿が見えないんだからさ。」
(当時ワルシャワ市内に高層建築は文化科学宮殿しかなく、市内のどこからでも見えて展望台からの見晴らしも抜群でしたが、この建物はヨシフ・スターリンからのプレゼントで建てられ、そのソビエト様式の建築と相まって、ワルシャワっ子には目障りの種で、「墓標」などと揶揄されていました。=第二次世界大戦の末期における、ワルシャワ蜂起時にソビエトからは敵国ドイツから以上の裏切りを受けた=アンジェイ・ワイダ監督の映画「地下水道」に詳しい)


さて、そんなウィーンでの宿泊の際、3月12日の夕方にはホテルにいると今日は特別な日だといわれます。
たしか教会の鐘やサイレンがある時間に一斉に鳴ったと記憶しています。
何の日なの?と尋ねると、現地の人はみな一様に、「アンシュルス、つまりはヒトラーが帰ってきた日」というのです。
アンシュルス(“Anschluß”)はドイツ語で併合とか合邦の意味で、オーストリアでは1938年3月12日に成立したナチスドイツとの併合を指します。
私もウィーンに行くまで実感が無かったのですが、オーストリア人もドイツ人も同じドイツ語を母語とするゲルマン民族で、オーストリア人の方にやや周辺国との混血はあるものの、身体的な特徴では見分けがつきません。
彼らに言わせると、ドイツ人のドイツ語とオーストリア人のドイツ語は発音やアクセントが明らかに違うらしいですが、方言のレベルであって、ドイツ語とオランダ語のように異国の言葉ではないのだそうです。
また人種的にはハンガリー人やスラブ人との混血もすすんで、オーストリア人という民族意識はありませんでした。
1930年代のオーストリアは、第一次世界大戦に敗北したオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、版図であったチェコは独立、自らはヴェルサイユ条約でドイツとの合併を禁止され、世界恐慌の中で喘いでいました。
そこにドイツ本国で失業問題を解決したナチスが勢力を伸ばしてきて、オーストリア・ナチスを支援し、同じゲルマン民族はひとつの国にまとまるべき(大ドイツ主義)だ、とやったわけです。


当時のオーストリア民衆は、ナチスの思想はドイツ系以外の住民は歓迎せず、むしろ危険視していたものの、大ドイツ主義は旧帝国を復活させ、敗戦から見事に立ち直ったドイツのように、かつての栄光を取り戻せるのではないかという期待と憧れから、9割以上が併合に賛成していたといいます。
もともとヒトラー自身がイン川を挟んだドイツ・オーストリア国境のオーストリア側の街であるブラウナウ出身(つまりヒトラーはドイツ人ではなくオーストリア出身のゲルマン人なので、アンシュルスに際して「帰ってきた」と表現されます)だから、傍目に見たらこの合併には何の問題もなく、むしろ歓迎されて当然のように思えます。
しかしヒトラーはあくまでドイツがオーストリアを呑み込む併呑を考えていました。
3年前、第一次世界大戦の敗戦によって結ばれたヴェルサイユ条約によって禁じられていた軍事制限条項について一方的な破棄をして再軍備宣言をし、その翌年、同じ条約によりフランスに割譲した領土(ラインラント)に軍を進駐させて、その奪還を既成事実化していた彼は、表向きには大ドイツ主義を標榜しながら、裏でオーストリアにナチス政党を誕生させ、彼らにゲルマン民族はオーストリアにおいて他民族から圧迫されていると、騒乱や暴動を起こさせることで社会的な不安を醸成し、ナチズムを禁止弾圧した首相を暗殺させて軍事的恫喝を行い、ドイツとの併合を仕向けました。
結局、総論賛成各論反対とばかり主義思想は置いておいて、合併に反対する首相が退陣し、賛成派の首相に入れ替わることで1938年3月12日ドイツ軍の進駐を受け入れ、再統合に関する法律を起草、独墺両国で実施した国民投票で97%の賛成を得て、当日を以てオーストリアという国は消滅、翌13日よりドイツの一部として組み込まれてしまいました。
期待の高さとは裏腹に、旧オーストリア出身者は大ドイツの中で二等国民として扱われ、第二次世界大戦が勃発したのち、出身兵士は東部戦線の最前線など危険な任務に動員され、後方でもホロコーストなど、ドイツ本国市民が手を汚したくない仕事に従事させられるようになってしまいました。

(ドイツでは禁書の「マイン・カンプ」を読んでいたからと云って、ヒトラーに心酔していたわけではありません。歴史を学ぶということは、対極にたつ相手の意見にも真摯に耳を傾けることだと思います。)
合併後のナチスドイツはチェコスロバキアのドイツ国境に接するズデーテン地方に野心を向けました。
当地のドイツ系住民が支配者チェコ人から虐殺されているとさかんに宣伝したうえで国境に軍を展開し、領土をよこさねば武力介入も辞さないとの脅迫を行い、チェコスロバキア側も安全保障条約を結んでいるフランス、イギリスとともに総動員令を発して、一触即発の状態にまでなります。
第一次世界大戦の終結から20年しか経っていない欧州は、この緊張状態を緩和するため、ミュンヘン会談において英仏がドイツに譲歩し、これが最後という約束でズデーテン地方のドイツへの割譲を認めますが、結局翌年にナチスの策動でチェコスロバキアはドイツ、ハンガリー、ポーランドそれぞれに領土を分割させられ、国そのものが解体されてしまいます。
同じ年に密約を結んだドイツとソビエトが同時にポーランドに侵攻し、とうとう英仏も対独宣戦布告をせざるを得なくなり、第二次世界大戦が勃発したのは正史のとおりです。
(次回に続く)