アンシュルス(“Anschluß”=併合)ヒトラーが帰ってきた日(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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(前回からの続き)

1980年代のオーストリアの人たちが、アンシュルスのことをどう感じているのか、留学生に通訳してもらいました。
私が聞いた限りでは、アンシュルスの日には、オーストリアではヒトラーが凱旋したというよりも、国そのものが滅んだ日として記憶されているようでした。

そして、実利をとったつもりが結局は戦争犯罪の片棒を担ぐ羽目になったのだとも。
第二次世界大戦でドイツが敗北することによって、はじめて自分たちがドイツ人でも、ゲルマン民族でもなくオーストリア国民だという意識が芽生えたといいます。
同時に、目の前の安直な餌に飛びついてナチスに協力してしまったことを、今日においても恥じて後悔しているという雰囲気でした。

日本で三国同盟や枢軸国というと、ドイツとイタリアを思い浮かべるのです。

大戦末期に指導者を処刑して先に降伏したイタリアはともかく、ドイツは最後まで戦ったから米ソ冷戦の最前線になって同じ民族同士引き裂かれたと認識していました。

(日本にも分割統治案があったのは承知していました)

その頃旅行者の間で良く言われていたネタに、日本人の若者がドイツでコーヒーを飲んでいると、現地のお年寄りがウィンクしながら、「今度はイタリア抜きでやろうな」と肩を叩いてきたというものがありました。

しかし、戦後に併合を解かれて、西側にも東側にもつかないという東西両陣営による約束のもとに独立したオーストリアという視点は全く無かったので、新鮮でした。
と同時に、地続きで国境を接していて、同じ言語を話す同じ民族であっても、わだかまりが続くような過去を持っているって、日本は島国でつくづく幸せだったのかもしれないと考えたりもしました。
今もオーストリアというと、スキーのワールドカップや冬季オリンピックで選手を見かけるくらいですが、あの連邦共和国は、二度とドイツに併合されないように、永世中立を条件に独立が認められた経緯があるため、スイス同様NATO(北大西洋条約機構)には加盟していません。
そして、EU加盟後は、安全保障に関して国内で議論になっているとききます。
周囲の旧東欧諸国、すなわちかつての敵だったワルシャワ条約機構加盟国が資本主義国になってEUはもちろん、NATOに加盟している状況では、逆の意味で時代遅れになっているのかもしれませんが、ひょっとするとウクライナの落としどころはかつてのオーストリアのような中立化かもしれません。

つまり、ロシアと袂を分かつ代わりに、NATOにも加盟しないようにするのです。

そんなオーストリアのウィーンを拠点として、ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリーを旅したのは80年代半ばのことでした。
当時のウィーンには、これら東欧諸国やバルカン半島、さらにはロシアから逃れてきた亡命者もたくさんおりました。
私は(現在のウクライナも含め)ソビエト領内へは行っていませんが、ポーランドへはゆきました。

ポーランドはロシアと戦争してきた経緯から、同じスラブ民族でも言語も宗教も違うし、ロシア人とその国家に対して想像を超える警戒心をもっています。
だから、上述の大ドイツ主義同様に、ロシアのいう汎スラブ主義という言葉にも懐疑的です。

この言葉を聞くと、まるで両大戦の亡霊が甦ったように感じます。
なお、今その汎スラブ主義という偽善を掲げてウクライナに侵略をしている側のロシア政府が、攻撃の相手をナチスとかネオナチと罵っていますが、上記の通り、かつての宿敵、ナチスドイツのやり口をそっくり真似しているのは、ロシアのほうです。

もちろん、かの国には「今度の戦争は戦車がすすんだ地点まで自国の体制を押し付ける、そういう戦争だ」と語ったヨシフ・スターリンもおりましたね。

クリミア半島を奪い、ウクライナ東部の独立を認め、今度はウクライナ全土を手中に収めようと侵略しているところは、見事なまでに、第三帝国がラインラント進駐をしてからチェコを解体するまでと相似しています。
日本人が思う以上に、ポーランド人はウクライナがロシア化されたら、再びロシア人に国を奪われると戦々恐々としているのかもしれません。
それに、自分のやっていることをそっくり相手に転嫁して非難宣伝するのは、旧ソ連時代はあの国の十八番でした。
第二次世界大戦終結後も、あの国は東ベルリン暴動、ハンガリー動乱、プラハの春と、東欧の衛星諸国に民主化の兆しが見えるたびに、それを戦車で踏みつぶしてきましたから。
今回の戦争をみていると、時代が何十年も逆戻りしたかのようです。
今の若い人には通じないでしょうが、当時はあの国の行動を「ソビエる」(強権を発動して軍事力で弱者をねじ伏せる)なんて言葉で揶揄したものです。
いや、あの頃でさえ、ヒトラーやスターリンが帰って来たとは思わなかったと思いますが、まさかこんなところで「歴史は繰り返す」を目の当たりにするとは・・・。

こうした独裁者への精神的な抵抗もまた、かつての歴史の中に見出すことができます。

西欧、なかでもアングロサクソン流の政治権力の行使を道徳的な流れに調和させようとする努力について、偽善にすぎないと断じてドイツ精神の特殊性を信奉したかつての思想家や政治家、彼らに追随する民衆は、ヒトラー率いるナチスドイツの誕生、勢力伸長をゆるしました。

やがてヒトラーは総統となり、あらゆる国際的な規範を破り、純軍事的な合理性すら無視して侵攻、併合、収奪を繰り返したはてに、のっぴきならぬ現実に直面せざるを得なくなります。

反ナチ抵抗運動で刑死したディートリヒ・ボンヘッファー(1906-1945)は次のようなことを書いています。

「国家統治策(=政治)もまた、その技術的側面をもっているということは疑いない(行政の技術があり、外交の技術がある)。

しかし、もっとも広い意味においては、この国家統治の技術的な面には、すべての実定法の秩序と条約、じっさい、法律的には固定していない規則や、歴史の歩みを通して是認された内政・外交上の共存形式、ついには普遍的に受け入れられた国家生活の倫理的諸原則さえも含まれている。

いかなる政治家も、これらの諸法則や原則を軽蔑すれば、罰を受けないですまされることはないであろう。

傲慢にもこれを軽視したり破ったりすることは、現実を誤認する事であり、おそかれはやかれ、ひどい結果を招かざるを得ない。」

(『ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想』 宮田光雄 岩波現代文庫より)

まさに今、他国を侵略している独裁者へ聞かせてあげたい言葉ですが、かつて日本で信じられていた精神的風土の特殊性を再び奉じ、いま経済制裁を課すのみで、衝突を避けるために軍事力を行使しない西側民主主義を非現実的な弱腰と罵って、「力には力で対抗するしかない」と叫ぶ人たちにも、面白くない話ではないでしょうか。


日本人から見ると、ロシア人もウクライナ人もポーランド人も皆同じスラブ民族です。
歴史を知らなければ、ウクライナとロシアは兄弟のような関係だという言葉を額面通り受け取ってしまいます。
けれども、ウクライナの言語は、語群も使用文字(キリル文字)も同じロシア語より、発音はどちらかといえばアルファベットを使うポーランド語に近い(北隣のベラルーシ語は、もっと近い)とか、ソビエトとウクライナはかつて戦争をしたことがある(1917-1921)とか、ウクライナはソビエト内の共和国としてロシア化政策を押し付けられたり、無茶な農業集団化によりジェノサイド認定された大飢饉(ホロドモール)を蒙った歴史があったり、今のウクライナ、ポーランド国境は第二次世界大戦の結果、ドイツ東部領が削られて、ポーランドの位置が西にずれた分、相当旧ポーランド領に喰い込んでいるとか、難民を受け入れているEU、NATO加盟を果たした同じスラブ人の国ポーランドは、ウクライナ同様、いやそれ以上にロシア=ソビエトからひどい仕打ちを受けてきたとか、汎スラブ主義の裏にはかなり鬱屈した諸国民の歴史があるのを私は知っているので、ウクライナの人たちがEUやNATOに加盟したがる気持ちもわかります。

私がポーランドを旅していた時代、まだ民主化運動は兆しでしかありませんでした。
ゴルバチョフの登場前で、プラハの春の記憶も生々しいなか、ポーランドでは自主管理労組の「連帯」と人民共和国政府が、ソビエトを刺激しないよう慎重に話し合いを続けていました。
現地を案内してくれた大学生から、日本人が東欧を旅することはできても、私たちが国外へ出るのはまず無理だから、そこのところをよく考えて欲しいし、(とくに東ドイツでは)政治的な発言は命取りになるということも言われました。
そして、ポーランドやチェコスロバキア、ハンガリーの人々が、ロシア人とドイツ人双方の団体観光客に向ける、複雑な視線も目撃しました。
日本人がアメリカに行って戦争のことをいわれるよりも、ヨーロッパの鉄のカーテンの両側では、まだ第二次世界大戦の処理を引き摺っているという感覚だったのです。
それは当時の東西に分割されたベルリンの双方を歩いてみると、さらに実感しました。
但し、そういう時代だからこそ、あの微妙なスラブ民族同士の違いと対ロシア観を感じることができて良かったと思います。


こんな経験があるから、いま、日本では「ウクライナに平和憲法があったらロシアは攻め込まなかったといえるのか」と、今回の戦争にかこつけて護憲派を攻撃している人たちには首を傾げてしまいます。
憲法は、成立にその国の歴史が深くかかわっているものであって、ウクライナに日本国憲法をあてはめること自体、歴史と文化を無視した稚拙かつ乱暴な議論でしかないと思います。
同様に、日本がもし隣国から侵攻されたら、米国は守ってくれるのか?(だから日本も核武装が必要だ)という話も、内容が飛躍しすぎているように感じます。
ロシア人がウクライナ人を小ロシア人(この言葉自体、ウクライナを馬鹿にしていると思いますが)と呼んで汎スラブ主義を掲げることや、中国が中華民族の復興をあげて台湾を圧迫することと、日本が隣国から攻撃、侵略されることを並行して考えるのは、帝国主義による植民地支配の時代と、イデオロギーの違いによる冷戦の時代と現代のネット民族主義をごたまぜにしたような乱雑きわまりない議論であり、それをSNSなど数行でやり取りして分かったような気になるというのは、歴史を学ぶという姿勢から程遠いのではないでしょうか。

同時に、昔の南下政策のように他国に侵攻するロシアはけしからん、だからロシア人もけしからんという偏狭な民族差別もおかしいと思います。

子どものころ、「ソ連人は個々人だと良い人たちなのに、集団になると残酷かつ狂暴になる」と言っていた大人がおりましたが、それは人類共通でしょう。

とくに戦争になると、個人の主義や信条よりも集団や組織の論理が優先されます。

だから早く戦争を止めるためのウクライナへの直接援助やロシアへの経済制裁は必要だと思いますが、戦いが終わった後にどのような結果になろうと、破壊されたウクライナはもちろん、疲弊したロシアへの援助も大切だと思います。

そのような戦後のケアは、当事者以外でないと難しいですし、日本人は戦争に勝利・敗北した両方の経験があるから、適任ではないかと思うのです。

あちこち旅をしてみて、近代に入って他国に軍を侵入させ、或いは降伏を受け容れて他国の軍隊に占領されという両方を経験した国というのは、そんなにたくさんありません。

さらに、ドイツは上述した通り、独裁者に対する抵抗の歴史もあります。


断っておきますが、私は護憲派でも改憲派でもありません。
(反戦派か主戦派かといわれれば、間違いなく前者ですが、それも歴史を愛するからこそです)
E.H.カー先生が述べたように、「歴史とは現在と過去との尽きることの無い対話である」という立場をとるなら、敗戦によって米国から憲法を押し付けられたとしても、それも歴史の一部であり、それを改憲の理由にもってくるのは歴史の改竄、対話の放棄だと思いますし、従来ここで書いたように、権力者の側から彼らを縛る憲法を改正したいという話が出た場合には、よほど注意せねばならないとも考えています。
同時に歴史が巡るなかで憲法が民主的な手段によって改正されるのであれば、結果もまた歴史なのだから認めるべきだと思いますし、正しい手続きによって日本の憲法が硬性から軟性に変わるとしても(象徴天皇を戴く日本国に軟性憲法はそぐわないと個人的に思いますが)、結果としてそうなったらなったで受け入れるつもりです。
もちろん、そうした国のあり方とは別のところで、憲法を改正したい人たちがいるのも承知しています。
日本に平和憲法が無かったら、武器の制作や改良研究、売買でもっと金儲けができたかもしれません。
今はこういう時代ですから、何をやってもまず財貨を稼がねばならない事情も分かります。
でも、人殺しの道具を売って得た金でおまんまを食べて、果たして美味しいのかという話なのです。
今もし心から世界の平和を願うなら、不安を煽って自分たちの戦争を準備することではなく、戦争に困っている人たちに対して、自分に何ができるのかを考えることだと思います。
それは、お金や物資を援助すること以外にも、その国や民族の文化に触れてみるとか、彼らの歴史や文化について学ぶとか、そして一日も早く交戦が終わるよう、毎日祈るなど自分ひとりでもできることは沢山あると思います。
難民が押し寄せているポーランドやスロバキア、ハンガリーなどで、彼らの援助に奔走しているであろうかつて旅先で親切にしてくれた友達たちを偲びながら、これらの本を読み返しているところです。

(おわり)