(「その4」からの続き)
本来ならば、本屋さんを出た後に今買ったばかりの本をベンチなどで読みながら、もう少し休憩したいところですが、今日はこれから三島まで行って、そこでレンタカーを返却し、在来線に乗って家まで帰らねばなりません。
それに、真冬の御殿場市内は良く晴れていても気温が低く風も強いので、外のベンチに腰かけて読書していたら、体が冷えてしまいます。
そこで、足柄SAに戻るべく走りだそうとすると、駅前に「ポッポ広場」という公園があって、結構立派な蒸気機関車が静態保存されています。
形式はD52型(通称「デゴニ」)。
ざっくりいうと、動輪の数が3つなのがC形で、4つがD型。
おもに前者はスピード重視の旅客用で、後者は牽引力重視の貨物用というくくりでした。
ひとつ前の形式であるD51は、力持ちというイメージから「デゴイチ」という愛称で親しまれていました。
これに対して特急列車を牽引することの多いC62型は「シロクニ」と呼ばれていました。
戦前から有名なD51に対し、D52は戦争中の輸送力増強(軍に船舶が戦時徴用され、のちに米国の無制限潜水艦作戦により国内の内国航路輸送力が大幅に減じたため、鉄道輸送にシフトしようとした。)のため、資材不足の中でつくられた戦時設計の機関車であり、大きな割には地味な存在なのです。
でも、開放されている機関室に登るとさすが大型、背が高くて遠くの山々迄見通せます。
そして、釜(ボイラー)が大型のせいか、付属している石炭車も大きいのでした。
暫くすると、新宿からのロマンスカーあさぎり号改め「ふじさん」がやって参りました。
むかしのあさぎり号は沼津までの運転でしたが、いまのふじさん号は御殿場が終着です。
あさぎりはJR、小田急それぞれに車両があって日本人向けでしたが、今の小田急60000形電車で運転されるふじさんは、インバウンド向けの雰囲気が色濃く漂います。
アルミニウム合金製でメタリックブルーの車体をみていると、自分がのっているD52の重厚さとの対象が際立っていました。
むかし、この機関車が貨物列車を曳いて往き来していたころは、線路にかける負担も大きくて、保線も大変だったろうと思うのです。
また、このD52機関車のうち、戦後まで生き延びた車両は戦時設計以前の設計に戻して改良され、あるいはC62型(の一部)として再生され、戦後復興の原動力になったといいます。
御殿場線は御殿場駅を境に国府津、沼津方面へそれぞれ下りとなっており、併結してきた補助機関車をここで切り離していたため、丹那トンネル開通前の東海道本線時代は、機関車の蒸気も絶えることが無かったと思います。
そうした状況をあらわしてか、横には童謡『汽車ポッポ』(富原薫作詞・草川信作曲)の碑まであります。
なんでもこの歌は戦前の昭和12年(1937年)につくられ、その名も『兵隊さんの汽車』という題で、作詞者が御殿場市で教員をしていたかたわら、陸軍の演習場があった御殿場駅での光景をもとに作詞したからなのだそうです。
だから元歌は出征兵士を見送る時に激励する歌だったそうで、歌詞も以下のようなものでした。
「汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポ シュッポッポウ
兵隊さんを乗せて シュッポシュッポ シュッポッポウ
僕等も手に手に 日の丸の 旗を振り振り 送りませう
萬歳 萬歳 萬歳 兵隊さん 兵隊さん 萬々歳」
そして戦後に紅白歌合戦で歌おうとしたところ、GHQの命令により禁止され、作詞者みずから歌詞を書き換えてOKになったという、いわくつきの歴史があったのでした。
たしか反戦映画として有名な『二十四の瞳』でも、大石先生と子どもたちが列車ごっこをしながら、桜の木の下で歌っていなかったか?と思って見直してみると、あちらはなんと「ちょうちょ」の節で「汽車ははしるけむりをはいて…」と歌っていたのでした。
さすがにこの歌は使えなかったのかもしれません。
あの映画の波止場での出征シーンでもそうでしたが、テレビや映画では「勝ってくるぞと勇ましく、誓って故郷をでたからは…」という『露英の歌』で見送られる情景ばかりを観ていたので、全然知らなかったのです。
まさかこの歌が日の丸を打ち振るホームでの群衆を歌っていたとは、御殿場の演習場は戦前からあったというエピソードとともに、意外でした。
子どもの頃、この歌の「走れ 走れ 走れ」というフレーズが、あの力強い蒸気機関車の動きにぴったりだと感じていたのに、そこが「萬歳」だったことを知ると、敗色が濃くなって以降はなんだか偽善的なように思えてくるし、3番の「明るい希望がまっている」も、戦後の悲惨な状況から無理矢理元気を出そうとしていたようにも感じてしまいます。
それに景色が見えなくなり、乗客が慌てて窓閉めに奔走するトンネルがなぜ「楽しいな」のか、疑問に思っていたのが、これでわかりました。
戦前の歌を3番まで読むと、これは人によっては日章旗がトラウマになるかもというレベルです。
改めて「デゴニ」を見上げると、彼の数奇な運命とともに、心なしか「二度と帰ってこない覚悟の出征兵士と、彼らを萬歳と日の丸の小旗で見送る人々の悲しみが、平和な時代に生まれたあなたたちにわかってたまるか」と叱られているような気がして、ちょっと後ろめたくなりました。
なんだかな、『海ゆかば』の作曲者が戦中、戦後と悩んだ話に似ているな、と思いながらも『汽車ポッポ』の歌を口ずさみながら、足柄SAへ戻ります。
御殿場駅からだと駅前から北東へ向かう東大路線を走り、市立東小付近で右に折れて東方向へ下ってゆけば、足柄SAまではほぼ下りでゆけます。
途中、曹洞宗のお寺、大雲院さんに立ち寄りました。
ここの山門はここから1㎞ちょっとの場所にあった深沢城の大手門を移築したものとされています。
深沢城は、駿河の今川氏と相模の後北条氏、そして甲斐の武田氏との間で奪い合いになった城で、最後の主である武田氏の家臣駒井昌直(駒井高白斉の子)が、主家滅亡の折に火を放って撤退した後、北条氏によって再建されるも、小田原で北条氏が滅ぼされると、廃城になったといいます。
このお寺のある場所は、その深沢城を造った深沢八郎右衛門の館跡といわれ、山門と道を挟んで向かい側に、土居(どい)と呼ばれる土塁跡の遺構がのこされています。
山門を入って梵鐘ののった鐘楼門にむかって歩いてゆくと、右手に美しい池をたたえた庭園があり、ここが富士山の伏流水に恵まれた場所だということを気付かせてくれます。
瑠璃光院と額がかかった本堂の前で、そっと「南無釈迦牟尼如来」と心で唱えて、お寺をあとにしました。
私の手伝うお寺は札所にもなっているので、納経や御朱印の交付があるのですが、そういうことを一切やっていないお寺もたくさんあります。
また、本堂内を見せて欲しいと申し出ても、人員配置とセキュリティ上の都合から、法会の時に来てくださいとお断りするお寺もたくさんあります。
だから、ホームページで確認して、そうした参詣を許可しているお寺以外は、本堂前で手を合わせてお賽銭をいれ、お寺の雰囲気を感じるところまでにしています。
お参りもなにもしないで、写真ばかり撮っているのは、やはりマナー違反かなと思います。
境内内でもそれ相応の手間と暇をかけて美しく保っているわけですから。
時々、「あなたはカトリック信徒なのに、なぜお寺は参詣しても、教会は立ち寄らないのですか?」と言われるのですが、建築などの造詣は別にして、お寺とキリスト教会では性格が違うからと答えています。
お寺の場合、そこにご本尊(このお寺であれば薬師如来)があって、仏さまも含めたその地域の歴史に対して「南無~」と挨拶しているわけで、そういう参拝は自分の宗教に関係がなくても、その土地への敬意をあらわしているつもりです。
しかし、キリスト教会は(プロテスタント教会も含め)、そこに信徒や信者が集う場であり、教会に行けば聖霊の息吹は感じることがあっても、イエスさまにご挨拶というわけでもありません。
むしろ、キリストは(仏陀も含め)信仰を持つ人一人ひとりの中に居るということでしょう。
基本はやはり、自分が籍を置いている教会のミサに与かるなり礼拝に出席して、祈りを捧げることで内なる神に自己を明け渡し、自分自身の信仰を確かめるという行為でしょう。
だから、旅先などで日曜日になってしまった場合を除き、あちこちの教会へ行くということはあまりしないのです。
「人々は祈るためにわざわざ教会へ赴く。
だが、神へと注意力を向け続けうるような媒介がその人の注意力に与えられなければ、教会へ赴くことはないであろう。
このことを人々は知っている。
教会の建物そのもの、教会に張り巡らされている絵画、典礼や祈りの言葉、司祭の儀礼的な身振りといったものが、人びとの注意力を媒介する。
これらの媒介に注意力を傾けることで、人びとの注意力は神へ向けられる。」
(『奴隷的でない労働の第一条件』シモーヌ・ヴェイユ著 今村純子訳 河出書房刊)
これ、仏教も全く同じで、本当に仏教を信仰しているのなら、菩提心をおこすために、勤行を日々唱え、法会にはちゃんと出て、自己の内なる仏性に目覚め続けないとだめなんじゃないでしょうか。
「目醒める」とは、どこかの教祖さまが言ったように、最終解脱したなんて一度きりの機会ではないし、毎年お札をもらうだの、いくら寄付しただの、これだけ奉仕しただの、そういうことは基本的な信仰心があれば、わざわざ他人に自慢したりすることではないように思います。
但し、どのキリスト教会もやはり歴史を背負ってますから、かつての弾圧をはじめとする、その地域でのキリスト教の歴史という意味では、教会を訪ねてみるということがあります。
長崎の大浦天主堂などは、まさにその典型でしょう。
これに対して、同じ長崎でも浦上天主堂は、原子爆弾というまったく違った意味での歴史が加わります。
そういう意味では、古い仏教寺院に詣でるとともに神社に参拝することが、もっともその土地の歴史をさぐるヒントになると思っています。
その土地の歴史を知るのに、その地域で信仰されてきた宗教を知るということは、旅において、そこでしか買えない商品を安価で手に入れるなどという行為よりも、ずっと大事なことだと考えています。
大雲院をあとにして、足柄SAに戻ります。
行きに渡った南ノ原橋で東名高速道路の本線を越えると、正面に下り線のETC専用出入り口があります。
すぐそこに見える入口のバーは道の半分くらいしかないので、自転車なら余裕ですり抜けられるし、このまま坂を下って行ってしまえば、乗ったままSA内に駐車した車に横付けできそうですが、確信犯でそんなことしたら営業妨害になりますから、ここはぐるっとまわって一般道経由利用者用のSA入口にまわり、そこできちんとブロンプトンをたたんでから、スロープを曳き歩いてSA内へ。
ここまで、お寺に立ち寄ってお参りした時間も含め、5分足らずで、まだ13時になったばかりのSA内は、昼食を食べる人たちで結構混雑していました。
その人たちを横目に無料のお水とお茶だけ飲んで、トイレに立ち寄ってからそそくさと車に戻ります。
正味で言うと2時間半くらいでしたし、うちブロンプトンで走っていたのは45分程度だと思いますが、御殿場の街で色々学ぶことの多いお散歩でありました。
このようにドライブがてらにブロンプトンでお散歩するのも、車の運転に支障がない限りにおいて、旅を豊かにすると思います。
その際は、前もってきっかりとした計画をたてすぎないこと。
そして何よりも、上に書いたように、心に「つながり」を持ち続けることが肝要だと思います。
これ、ヴェイユが労働について書いているように、仕事ではなく日常生活にも大事なことだと思います。
自分が生かされていることへの感謝なしに、環境や政治、隣人に文句ばかり垂れている人は、何を見ても、何に触れても、何からも学ぶことが無い傲慢な境遇に自分を置き続けます。
だから何処へ旅行してもそこで出会った人たちに何も感じないし、「こんなことなら家にいればよかった」と文句しか出てきません。
家に居たらいたで、「つまんな~い」といって、ストレス発散のために買い物に行くわけでしょう。
つまり、日常生活においても、災いを自ら呼び寄せながら、それを他人に転嫁して何ら恥じることの無い態度を平気で取り続け、そんな自己に気が付いていないのです。
対して、いつも大いなるものとつながっていると実感している人は、独りで本を読んでいても、旅でひたすら苦しい思いをしても、まさに弘法大師空海がいうように、すべてのものに学び、それを人生の宝として積んで行けるわけです。
だから私は、「群れていないとダメ、ぼっちは淋しい」人よりは、ずっと恵まれていると感じています。
「心暗きときは即ち遇う所悉く禍なり、眼明らかなれば即ち途に触れて皆宝なり」(空海著「性霊集」より)
(おわり)