電車内はなぜ読書に向いているのか | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

前回、電車を本で囲う空想をしましたが、そこでふと、自分はなぜ電車の中で本が読めるのだろうと疑問に思いました。
そこで、今回は電車の中で読書しやすい理由について自分なりに考察してみました。
もちろん、人によっては電車の車内でなんか気が散って本が読めないという方もいらっしゃるでしょう。
それはまったく個人的な趣向の問題なので、読めない人に対して何かを意図するものではありません。

(通学時に見かけたけれど、乗れませんでした)
1.移動しながら読書しているという感覚
わたしは「ながらナントカ」は嫌いなのですが、こと公共交通機関で移動している場合は、自分が運転しているわけではないし、移動プラス勉強とか、移動プラス睡眠とか、他の乗客の迷惑にならない限り大いにありだと思います。
むしろこうした「ながら××」を自分が運転する自転車やマイカーに持ち込むのが大間違いだと思います。
携帯やスマホをいじりながら移動したいのなら、公共交通機関の中に限ると自分で決め、歩行中や運転中はあるくこと、運転することそのものに集中すべきでしょう。
そこを線引きできないから、立ち止まってスマホを操作する習慣が身につかずに、歩行しながらいじるということになるのです。

移動の時間を有効に使うということのほかに、移動している実感が読書にシンクロしている要素も役に立っていると思います。
たとえば、旅行記や紀行文などは作者とともに旅をしている感覚になりますが、小説や科学の本、哲学書なども著者と一緒に未知の世界の奥へ奥へと入ってゆく感覚があります。
歴史小説はまさしくタイムトラベルしたうえで、自分が歴史上の人物とその時代を共有している気分になります。
本の章立てを駅に見立てれば、読書は鉄道旅行そっくりです。
ならば目次はさしずめ旅程表といったところでしょうか。
東海道の宿駅毎に、華厳経の善財童子よろしくそれぞれで出会うっちの人たちの物語を紡いでいったら、作者が意図しなくても長編小説になります。。
私などは艶本を書くのが精一杯ですが(笑)
ロングシートよりも、クロスシートの車両で進行方向に向かって座り、窓辺にお茶などを置いて読書していると、移り変わり行く車窓とともに、頁をめくる行為が進んでいるという気持ちを盛り上げてくれます。
こうして本の中を旅している行為と、実際に自分の身が鉄道によって移動している行為が重なって、それが通勤であれ鉄道旅行であれ、相乗効果になっているように思うのです。
だから、旅行などにもってゆく本は、読みかけの本より新しく読む本の方が、より深く読めるような気がします。

(自分はこの上田交通の車両の方が親しみが持てます)
2.他の乗客も読んでいる
最近はそうでもありませんが、昔は電車の中で本を読んでいる人は大勢おられました。
外国から来た人が、「日本人って勤勉ですね」という時、仕事の行き帰りにまで本を読んでいるという点が入っていました。
そういわれてみれば、海外で鉄道旅行したり、地下鉄に乗ったりしている時、本を読んでいる人はあまりいませんでした。
場所によってはただ単に、本に夢中になっていると危険を察知できないからだったのかもしれません。
学生など、夏休みは家で勉強するより図書館でした方が捗るのも一緒です。
但し、新聞や週刊誌、漫画などが読書のうちに入るかというと、少し疑問です。
というのは、漫画はともかく、新聞や週刊誌をはじめとした雑誌には、上述した「心の旅」という要素が殆ど無いからです。
漫画は改めて描こうと思いますが、食事であれば柔らかいものを食べている感覚で、「観る」行為が含まれているために、「読む」とは少し違います。
絵が動かないアニメ動画をみていても、それを読書とは呼びませんよね。
そういう意味では、暗記用の赤緑シートを本に挟み、或いは赤鉛筆片手に教科書や参考書を見ている人も、テスト対策という点においては、上述してきた読書とは違うのかもしれません。

そんなわけで、今はかなりの少数派となってしまった車内読書人のお人をみかけると、自分が本を読んでいなくても「同志」と心の中で呟きます。
本来であれば、子どもが小さい時から電車の中で本の読み聞かせをしてあげていると、ひょっとしたら将来車内読書人に育つのかもしれませんが、今の静かになった車内でやると、おそらくは文句を言われると思います。
でも、スマホやタブレットの動画にお守をさせるより、余程教育的だと思います。
どこかの鉄道会社が、読み聞かせトレインなるものを運行してくれませんかね。
そこで「きかんしゃやえもん」(阿川弘之作 岡部冬彦絵 岩波書店 1959年)とか「いつつのはなのえき」(鶴見正夫作 久保雅勇絵 フレーベル館1974年)なんか読み聞かせたら、面白いのに。

(あの海軍三部作を著して、佐和子女史のお父上の阿川先生がやえもんの生みの親だったとは・・・)
夜は大人向けに高座を設けて、噺家に鉄道にまつわる怪談話をさせたら如何でしょう。
麦酒を飲みながらの貸し切り電車を走らせるより、ずっとクールな納涼電車になると思うのですが。
それはともかく、他の乗客も本を読んでいるというのは、重要な要素だと思います。

(シートは全く同じですが)
3.加減と方向転換の緩さ
以前、高速バスの中で読書をしてみました。
すると、高速道路を走っている間は読書できるのですが、そこから降りて一般道を走るようになると、途端に気持ち悪くなりました。
本を下にして読んでいるからかと思い、目の前に立てるようにして書見してみたのですが、あまり気分はよくありませんでした。
これは、信号待ちや一時停止等で頻繁にストップアンドゴーを繰り返すことと、バス停に停車するために右左折、転回を繰り返すことに原因があるだろうと思われました。
もともと三半規管はそんなに強い方ではないし、船なんか甲板に居て水平線が見えたり隠れたりするほどの、ピッチングとローリングが合わさった「複合的な揺れ」を感じると、本など読んでいる場合ではなくなってしまうので、同じことなのだと思います。
つまり、乗り物の動きの方が本の中身より気になってしまい、読書が出来なくなってしまうのです。
その点鉄道は、急カーブといってもたかが知れていますし、転回などはありません。
上下に揺れることも、最近の電車であればなおさらありませんし、加速、減速も極めてスムーズで、急停止、急発車は非常事態でもない限りありません。
同じことは、中空に停止しているような感覚に陥る、大型旅客機での旅にも言えると思います。
北米東部、ヨーロッパ直行便などは15時間以上かかりますし、乗り継ぎなどがあれば空港での待ち時間は場合によっては何時間もありますから、読書にはもってこいなのです。

(景色が全然違うのでした。それにしても黄金色の実り、美しいです)
4.規則的な音と揺れ
今の列車車内は空調が効いて静かになったと書きました。
しかし、かつての「ガタン、ゴトン」がずっと静かな「タタン、タタン」になったとしても、鉄道特有の単調な音は、読書で頁をめくってゆく行為と合っていると思います。
昔は家に大きな柱時計があって、「チック、タック」というあの音をバックに読書している時間が至福でした。
それと似たようなもので、スキー行の夜行列車など、車窓が殆ど楽しめないし、お金が無いから直角シートの急行列車ばかり乗って、どうせ横になって眠れないのならと開き直り、本を落とすくらい寝落ちするまで、文庫本を読んでいたことが何度もありました。
あれは下手なBGMよりもはるかに読書が進むと個人的には思うのです。

(こちらは古すぎてわかりません)
揺れについては、座っている時よりも立っている時の方が読書に役立っているかもしれません。
自転車併用通勤の稿でも書きましたが、自分の場合、混雑して座れない、しかし立っている人の間にある程度の隙間があるときは、なるべく車両端に行くようにして、ブロンプトンを持っていてもいなくても、片手は吊革、片手は本、あるいは寄りかかれるところなら両手で本を支えて読書します。
すると、鉄道特有の規則的な揺れが、リズムをとっているような格好になって、頁が進むのです。
この鉄道特有の規則的な揺れと音は入眠に都合が良いといわれていますが、一種の催眠という意味においては、読書にも良いのかもしれません。

(照り返しがきつそうな阪急梅田駅)
5.降りる駅(ゴール)がある
通勤でも旅行でも、鉄道利用の場合は下車駅があるわけです。
この区切られた時間で読書という点が、また大切なのだろうと思います。
マラソンは42.195㎞先にゴールがあるから走れるのであって、仮にゴールを定めないマラソンというものがあったなら、誰も走れないといいます。
読書も同じで、下車駅が来たら読み終わるという意識があるからこそ、集中して読めるのではないでしょうか。
新幹線など長い乗車などの場合、ふと景色に目を移したり、トイレに行ったりして休憩をとり、再び本に没頭するということで、乗車中かなりの分量を読めたりします。
駅を降りてバス待ちの列に並ぶとき、バスの車内で運良く吸われれば、また続きを読めばよいわけで、焦る必要もありません。
ごく稀にですが、どうしても続きが気になって乗り過ごしてしまうことがあります。
そういう時は、降りる駅が来てもまったく気が付きません。
学生時代にそれをやって、Uターンしようとしてキセル乗車を疑われたことがあります。
訳を話しても全く信用せず、乗車駅の切符販売機のカウンターを問い合わせてやっと放免したあの駅員、本を読まないからひとの話に耳を傾けられなくなっているんじゃないかと思うほどに傲慢で、疑ったことに対して一言の謝罪もありませんでした。
そういうところ、子どもはしっかり見ているもので、気をつけたいものです。

(車内は物凄く落ち着いています)
これが、読書の代わりにスマホを見るとか、動画を観るだったらどうでしょう。
ダラダラ見続けて下車駅が来ても目が離せずに、ドアから降りて階段を上り、改札口を出て歩行中もずっと見てしまうのではないでしょうか。
つまり、読書は能動的行為、スマホや動画を観るのは受動的行為で、脳の向きが正反対なのです。
漫画はどうでしょうね。
難しいところですが、実感としてどちらかといわれれば後者に入る気がいたします。
これが、車内読書人は下車後も本を読み続けない理由だと思います。
だいたい、本は栞一枚挟んでおけば、鞄から出してすぐ続きが読めますし、閉じるときも「パタン」ひとつでおしまいです。
しかし、タブレットだったらどうですか。
鞄から出して電源入れて、アプリを起動して、仕舞う時はその逆ということは、下車時に鞄へ仕舞うには、少し前から準備しなければなりません。
そんな面倒くさいことしなければ本が読めないとしたら、私は読書が億劫になるかもしれません。
とにかく、鉄道は区切られた正確な時間があるから、読書に向いているのだと感じます。

以上、鉄道車両内の読書について、つらつら惟(おもいみ)ることを書いてきたわけですが、習慣化した端緒を思い出してみると、10代で電車通学するようになって、他人と目が合うのが嫌だから本を読んでいたという側面もあったと思います。
あの年頃は皆自意識過剰ですから、同年代の同性だと「なにガンつけているんだよ」と絡まれるし、異性だと「なにジロジロ見ているのよ」と、これまた文句を言われるのがオチなので、しかめ面して難しそうな本を読んでいれば、関わり合いになることもないかと。
つまり自分は小心者だったということです。

そういう意味では小テストのために車内勉強していたのも、ポーズに過ぎなかったのかもしれません。

今は車内暴力というのですか、対鉄道職員や乗客同士の暴力沙汰が(特に酔客の増える年末年始を中心に)増えるみたいですが、言葉より先に手が出るということは、抑制力以前に自己の言語能力が不備なのです。
それは、他人に対して暴言を吐くという意味ではなく、自分で自分に語り掛ける意味での言語能力です。
わたしから言わせれば、本を読む習慣がないから内省もできず、そんな行動に出る自分が見えていないのでしょうといったところでです。

(クロスシートは文庫本や新書版よりハードカバーが似合います)

しかし、発端はどうであれ、それで本の中という時空を超えた大宇宙に旅をするようになったわけですから、遠距離通学もまんざら悪いことばかりではないと思います。

なお、読書だけではなく、あしたのジョーみたいにときおり流れる車窓もしっかり見ていたから、高校卒業まで視力は良い方の計測不能でした。
即ち、揺れる電車の中で本ばかり読んでいると乱視になるという説は、私にはあてはまりませんでした。

電車内でスマホを凝視しニュースや天気予報をチェックし、メールの送受信(このブログを書くために時間をとっていることもあって、SNSはやらない)に勤しむよりも、読書をしている方がずっと心穏やかでいられることを感じ取れるようになって、自分は幸運だと思っています。

(立っているときはあの隅をねらいます)