池田晶子著『14歳からの哲学』を読む(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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カトリックで受洗(洗礼を受けること)をしてから、読む本の種類や方向性に大きな変化があらわれました。
原因は、自分が通っている教会の主任司祭、つまり洗礼を授けてくれた神父さまの影響です。
今お手伝いしているお寺のご住職もそうなのですが、私が偶然に出会う、つまり最初からお互いに利用し利用されるような関係ではなく、悪意や下心をもって近づいてくるのではない同性の年長者は、これまた偶然に読書家であることが多いのです。
きっと、自分が人生において本を読むのは必然だと思っているから、同じような人に無意識なところで惹かれてしまうのでしょう。
同性の年長者というところが残念ではありますが、異性の若年者だと、こちらに下心が出るから、そういう「人物」に出会えなくて当然だと自身を嘲っています。
池田晶子さんもたいへん美貌がおありでしたから、異性の先輩哲学者たちは扱いに困ったと想像するのです。(笑)
彼女のほかの本を読むと、著者自身が努めて自分の性の問題には、大股で飛び越えようとしていた節を読み取れます。
幸いなことに、私にとっては10代でモデルをされているときから年長者でしたから、そういうバイアスがかからずに済んでいましたが。

(今日は教会の行き帰りの写真と)
実をいうと、最初にその神父さん(当時は信徒でありませんでしたからそういう感覚)を見たときの印象は、あまり良くありませんでした。
娘の学校のクリスマス・ミサでお見かけましたが、声が大きく、がさつとも思える言葉遣いで学校の生徒たちを威圧するような態度に見え、とても本をたくさん読む雰囲気の人には見えなかったからです。
私も週に一度「礼拝」のある学校に、長年生徒として通っていたから分かるのですが、そういう学校の宗教担当の教員は、他教科の先生に比べて物静かだったり、飄々としていても根は落ち着いた感じを出したりしている人が多いのです。
聖書を講釈するのに、キリストの弟子然としていなければ、サマになりませんからね。
でも、同じ教員に、宗教以外の教科を授業で習うと、結構短気で怒りっぽくて、ああ、あれは礼拝堂の壇上にいるときの仮の姿だったんだと内心で納得するような生徒でしたから、先生の側もさぞかし扱いにくかったとは思います。
でもね、これもこの本の主題とも関係あるから書きますけれど、素直で教える側からみて扱いやすく、テストの成績が優秀な生徒さんが読書家とは限らないのです。

(哲学と名のつく本ばかりの写真です)
さて、そんな教員面を前面に出して振り回すような神父さんは苦手だと思っていたら、彼の前職は学校の先生ということを知り、ああ、道理でと納得していました。
洗礼を受けようと思うと聖書講座担当のメール(仏語:英語でいうところのシスター)に相談した際、「ご自宅に近い教会でも紹介しますよ」と言われて、ふと皆が受洗するあの教会の神父さんかと躊躇したほどです。
でも、洗礼を受けるために教会に通う(通常は1年間)ようになって、ミサにおける話で神父さんが本を紹介する機会が多いのに気付き、教会の中にある談話室に貸出用の本棚があって、そこに並んだ大量の本の背表紙を見つめているうちに、ひょっとするとこの神父さんは自分と同じ、読書する人なのかしらんと考え直すようになりました。
こちらも、本読みが物静かな人とは限りません。
ためしに紹介される本を読んでみようと、最初に手に取ったのが若松英輔氏の本でした。
自分がもっとも好きな作家、遠藤周作の後輩にあたる氏の本を最初に読んだ時、その婉曲で回りくどい表現に、読み終わってもあまりピンときませんでした。

でも、たった1冊の本で決めつけてはいけません。
同じ著者の本でも全然毛並みの違う本というのは絶対にあるものです。
そうこうしているうちに、ミサが終わった後、読んでいる本の疑問点などを話し、神父さまからお勧めの本を教えてもらうようになりました。
若松氏については2冊目の本(『霊性の哲学』)で、この池田晶子氏のことが書いてあり、そのつながりで本書を買って読んでみようという気持ちになりました。
要するに、その人にとっての良書に出会うまでには、様々な紆余曲折があるということなのです。
といっても、以前から本書のことは知っていました。
2000年代初頭に、この本がベストセラーになったニュースを見ていましたし、その時は、ああ、昔女性誌のモデルさんをやっていた人が哲学系の読み物を書くようになって、時々ニュースや討論番組に出てきていた人だなと、記憶にありました。
池田晶子氏は1960年生まれ。
モデルのアルバイトをしていた高校の頃から哲学に興味を持って、慶応大学で哲学専攻されていて、そこから「考えることについて考える」文筆家になって、本書を世に出した4年後の2007年には病気でお亡くなりになりました。
つまり、専攻は違うけれど、大学の学部でいえば彼女もまた遠藤周作先生の後輩、若松英輔氏の先輩にあたるわけです。
ワープロ、パソコンの全盛期に著述業をされていたのに、最後まで機械の類は使わずに、紙とペンだけで文筆活動をされてきたことも、印象的でした。


哲学のエッセイって、大抵はその主題になっている原書を一度は読んでいないと、何を言っているかちんぷんかんぷんなのですが、本書は副題に「考えるための教科書」とあります。
教科書を謳うからには、前段の知識なしで読めるということが大前提だと思う(そうでない「教科書」は世の中に蔓延していますが)ので、安心して読んでみてください。
人によっては「14歳からの」という表題に引っかかるかもしれませんが、自分も含めて殆どの人は、14歳レベルの哲学でも馴染みがありませんから、大学の一般教養で哲学の単位をとったくらいなら、知っていることの重複にはなりません。
「より表示」ということは「14歳以上の方なら何歳になっても読めますよ」という意味です。
どうしても表題の年齢にひっかかるというかたは、同氏の著書で「41歳からの哲学」という本がありますから、そちらを読んでみてください。
両方の本を読んでみた感想としては、どちらかといえば「14歳からの」の方がインパクトはありました。


さて、ここからはネタバレです。
上述のような前提ですから、最初の方で「考える」とか「自分が思う」というのはどういうことなのかについての考察があげられています。
そもそも自分がどうして生きているのか(生理的にという意味ではなく、存在論的な意味で)が分からないのだから、そこに正解などはない、すなわち、「誰にとっても正しいこと」=「皆が正しいと思っていること」ではないと著者は指摘しています。
世の中の大多数の人は、当たり前のことを当たり前だと思って、わからないことはわからないと思わないで「考える」ということをしていないから、正しくないことを正しいと思っていることがある。
しかし、いくら多数の人が正しいと思ったところで、正しくないことが正しくなるわけではないと語りかけるのです。
これはソクラテスが命をかけてまで主張していたことです。


以下、「自分とは何か」「他者とは何か」と続き、基本的に全編がジャンルを変えてこの主題で展開されてゆきます。
ティーンエイジャーがおそらくは最も悩む家族の問題でも、「動物の親ではない人間の親としての役割があるとすれば、それこそが、他でもない、人生の真実を教えるということのはずだ」と書きながら、現実問題として完全な親など人間の中には存在しない、お父さん、お母さんの気に入らないところ、ダメだなとおもうところを、ああそういう人なのだなと思って受け入れてみて、そしてその人はどうしてこういう人になったのだろうと、両親の人生を想像してみなさいと語りかけます。
それこそが、子どもが親から学ぶことのできる人生の真実なのだとフォロー(笑)しながら。
14歳にもなると、誰もがそれまでスーパーマンのように思えていた親が、実は言行(言っていることとやっていること)不一致で、優柔不断だと分かってきて、なかにはそれを子どもに対して必死に否認して糊塗しようとする人もいるでしょう。
でも、そういう大人の方がむしろ一般的であるし、そうしてあなたに君臨する存在の親を許す、許さないではなく、大切なのはそういう人たちからあなたが何を学ぶかだ、と説いているわけです。

(次回へつづく)