池田晶子著『14歳からの哲学』を読む(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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(前回からのつづき)
この頃の年齢の子が悩む、理想と現実とのギャップについても、多くの人は「最初から不可能な理想を掲げた」ことに失敗の原因を持ってこようとするけれども、本当の理由はそうではないと著者は言います。
それは、目に見える現実だけを見て、目に見えない観念を見なかったからだというのです。
私に言わせれば、たまたま「見なかった」というよりは、「見ようとしない生き方が染みついてしまっている」と補足したいところです。
目に見えない観念を見ないということは、ひっくり返せば目に見える現実だけが現実だと思いこみ、またそう信じてしまうことです。
しかし、現実を動かしているのは観念なのだから、観念が変わらなければ現実は変わらない。
「よりよい社会でよりよく生きる」という観念が、本当はどういうことなのか自分で判断していない人が、集団になって、徒党を組んで、自分がよくなろうともせずに社会を変えようとしていたのだから、そんな社会は実現したところで前と何も変わらないのは当然だと、著者は断言します。
相当手厳しいですよね。


ここまで読んで、生前の池田氏は文化人を自称する人たちとテレビや雑誌で良く対談していたけれども、相手は内心で戦々恐々としていたのではないかと思うし、今でも「好きな作家は池田晶子です」と公の場で読書人を気取る人のことを「ホンマかいな」と思ってしまいます。
本当に彼女の本を読んでいたら、自分の現実的存在を前に、そんな軽忽な発言は控えておこうと考えるのに。
私にだって、自分が池田氏の指摘する何も考えていない大人に含まれているという自覚くらいありますから。
それくらい、著者はとことん、「考える」ということについて「考え抜いて」います。
おそらく当のご本人は、読者におもねる気持ちなどさらさらなく、アンチが出てくることなど最初から織り込み済みで本を書いていたのだと思います。
彼女の墓は青山墓地内にありますが、その墓碑は本の形をしていて、中に「考える」とだけ表記されています。
そして、訪ねてきた人に考えるよう促すためなのか、台座の石には「さて死んだのは誰なのか」と謎掛けのような言葉だけが刻まれています。


社会心理学者であり、精神分析家でもあるエーリッヒ・フロムは、同じことを次のように表現していました。
『実際、仏陀も預言者たちもイエスもエックハルトもスピノザもマルクスもシュヴァイツァーも「柔弱な騙されやすい人」たちではなかった。
彼らは、逆に頑固な現実主義者だったし、また彼らのうちのほとんどは迫害されたり中傷されたりしたが、それは、美徳を説教したからではなく、真理を語ったからであった。
彼らは、権力や称号や名声に敬意を払うことなどはせず、王様が裸ということも知っていた。
そして、権力が「真理を語る者」を殺すことだってあるということを承知していたのである。』
(E・フロム著「よりよく生きるということ」小此木啓吾・八木宗正訳 第三文明社)
つまり、池田晶子氏は、どこの大学を卒業したとか、有名な大学で教鞭をとっているとか、そんなことは真理の足しには何もならない、そうした自慢を鼻にかけ、他者を信用せず、下にみる人間は、むしろ「真理を騙る者」であると、生死一貫して看破してたのでしょう。
「預言」と「偽言」の違いと言い換えてもよいかもしれません。
そういえば、別の本で池田氏は「自分が文部大臣になって教育改革をする」と冗談をとばしていましたが、本音では満更でもなかったのかもしれません。


後半、無私の愛とは何かについて、親子の例をあげて語っています。
無私の愛とはすなわち、損得計算の一切ない愛のこと。
相手を丸ごと受け容れることができるのは、そこに「自分」がないからだとさらりと書いていますが、これ、自分を無くす=命を捨てる覚悟で相手を愛するという大変なことを言っているわけです。
しかし、今の世の中、子どもの身代わりになって死ぬような親がどれほどいるでしょう。
むしろ自己保身のために子どもを利用したり、犠牲にしたりする親の方が多いのではないでしょうか。
そして、上辺だけは「誰それのためをおもってやっている」などとお為ごかしをして偽装しているのです。
そんな態度が透けて見える年長者を好きになれという方が酷でしょう。
そこで、「どうして好きな人だけを愛しているのではいけないのか、嫌いな人まで愛さねばならないのか」については、こんな風に答えるのです。


『でも、その答えも同じように素朴なものなんだ。
いいかい、世の中には自分の嫌いな人、イヤな人がいる。
でも、そういう人を嫌いだ、イヤだと思うその気持ちは、まさしくイヤなものじゃないか。
自分にとってイヤなことはしないのが、自分を愛するということだ。
自分を愛する人は、自分を愛するからこそ、他人を嫌うということをしないんだ。
そうじゃないか?』
(池田晶子著「14歳からの哲学」トランスビュー)


上記フロムの本に訳者として登場した小此木啓吾氏の著書に、「自己愛人間」(ちくま学芸文庫)という本があります。
その中で、彼は「自己愛パーソナリティ」について触れています。
「人が自分を愛さないのなら、自分で自分を愛さなきゃならない」つまり、愛されたいという気持ちが満たされないと、自分で自分を愛するという意味での自己愛への欲求が高まるというのです。
それは、自己中心的で周囲への無関心、他者への共感性の乏しさ、幻想的な全能感などによって下支えされた自己愛であり、池田氏のいう「自分を愛する」こととは真逆の自分に向ける愛です。
私などは依存症について翻訳していた経験から、現代は全体的に愛が枯渇し、まがい物の愛、世の中のため人のためなどと自己を偽りながら、その実自分勝手に自己愛を満たそうとする人間の跋扈する時代だとつくづく感じています。
でもその本の中で小此木氏は、現代の人間は多かれ少なかれ悪い意味での「自己愛」を抱えたモラトリアム人間(=アイデンティティ(自我同一性)の確立を先送りにしたままの人)であり、現代の私たち一人ひとりが常に直面しているのは、こうした裸の自己愛を抱えたままの受け身的な死だと書いています。
たとえ、肉体的には病気で死んでゆくにしても、もともとの人生において、それが宗教であれ、国家であれ、社会であれ、仕事であれ、自分を超えた何らかの対象に同一化することで自己愛を支えて生きてきた人は、かりに死に臨んでも、肉体的な死をこれらのアイデンティティのとのかかわりの中の体験として意味づけることができたはずだといいます。
「人は二度死ぬ、一度目は生物学的な死、二度目は自分を記憶している人がいなくなった時の死」ということを私に語った年寄りがいましたが、彼は膨大化した自我で、自分が人々に永遠に記憶される人間になりたいばかりに自分の墓を大きく立派なものにするだけで、他者の記憶の中にアイデンティティを確立しようとする自身の危うさには、一向に気付いていないようでした。


話を「14歳からの哲学」に戻しましょう。
いや、この本は第1章が14歳からの哲学〔A〕、第2章は14歳からの哲学〔B〕ときて、なぜかつづく第3章を「17歳からの哲学」としているので、3歳年をとったと表現したほうが的確でしょうか。
17歳になって最初の節「宇宙と科学」では、こんな趣旨のことを言うのです。
「空の星を見上げ、あの光は百億年前のそれを今の自分が見ている。
ということは、ひょっとすると今見えている星は既に爆発・消滅して無くなっているのかもしれない。
だとしたら、あの空に輝く星の存在よりも、自分がいまここに「ある」ことの方が確実だ。
そして、ひょっとすると自分というものは、考える精神としての自分が、そう考えることによって存在しているのではないだろうか。」
こうくれば、デカルトの名前や「方法序説」を知らなくても、“Je pense, donc je suis”(仏=「我思う、故に我あり」)という言葉だけは思い出すのではないでしょうか。
もちろん、本書にはデカルトのデの字も出てきませんが(笑)。


さらに、こう続けるのです。
『ビックバンは、科学によって物質としての宇宙の始まりとされているのだから、ビックバン前というのは、したがって、物質ではない。
でも、それは決して「無」ではない。
(中略)ビックバンの前にも、必ず何かが「ある」。
いや、「ある」のは常に「今」なのだから、ビックバンの「前」というのもじつは「ない」
なくてある、必ずある、それが「ある」と考えているこの「自分」だ。
この時、君は、この「自分」が何かに似ていることに気がつかないか。
そう、神だ。』
(同書)
このややこしい文章を解く鍵は、ガキカッコでくくられた字、とりわけ「無」と「ない」が区別されているところです。


哲学者の田辺元先生が、「無即有・有即無」という言葉で説明していたのは、絶対的な存在である神と、相対的な存在である人との関係性についてだと思うのですが、旧約聖書における神の名は「ありてあるもの」だったことも思い出されます。
そして、「宗教」という節を挟んだ先、「人生の意味」において、宇宙が存在していることに、意味や理由を与える神のようなものが存在しないとしたら、宇宙が存在していることに、どうして意味や理由が存在するはずがあるのだろうと続け、宇宙も、人生も、自分も、ただ存在していることがとんでもないこと、ものすごいことで、意味も理由もなく、それらが存在しているからこそ、それは奇跡なのだと言葉を強めて書いています。
おそらく、この本の中で著者が一番言いたいことは、ここなのだろうと思います。
「だから人生のおける苦しみだって奇跡だ、なぜあるかわからないものが、なぜかあるのだから」と言葉を引き継ぐとき、これは様々なことに悩み苦しんで、そうした自己の意味や理由を求めて彷徨っている人たちへの、著者なりの回答なのだと読めるわけです。
信仰のある人が読めば、この「奇跡」は「恩寵」と読みかえられることに気付くでしょう。
実際、すぐあとに「この不思議の感覚、奇蹟だという感情は、おそらく、敬虔な信仰を持つ人が神様に捧げる祈りに似ている」と著者も書いています。
私もたまに何も考えない人から「何で宗教になんかはしるの?」と馬鹿にされることがあるのですが、自分の存在についてまともに考えて、自己の弱さに行きあたったとき、多くの人は人間を超えた存在を求めるし、自然に存在することへの感謝の念が湧いてくるのではないかなと思うのです。
でも、人間存在の意味や理由を問うたことの無い人に、そう回答しても、それこそ意味不明でしょうね。


最後に著者は、いま、ここにいることが奇跡なのだから、人生に絶望して自死したりしないで欲しいなんて情に訴えることはしません。
その代わりに、「自分で考えて、自分の知識として確実に知ったのなら、君の生き方は変わる、変わるはずなんだ。」と言ったあとに、わかっていない自分を自覚するからこそ、人は考える、考えても答えが出ないからと、最初から考えることを放棄してしまうのは、わかっていない自己を自覚していない証拠だと、辛辣な言葉を並べています。
そして、『もしも君が、これからの人生で、本当の勉強、本当の学問を志すのなら、このことだけはわかっておくのがいい。
考えるということは、答えを求めるということじゃないんだ。
考えるということは、答えがないということを知って、人が問いそのものと化すことなんだ。』(同書)と結んでいます。
「人が問いそのものと化す」とはどういうことでしょう。
それは、不完全な人間である自己の矛盾をまるごと引き受けることだと私は思います。
自己の正当性を主張し、相手の誤謬や失敗を、声高にあげつらうことでどす黒い腹のうちを満たしたり、自分の地位や学問的業績をかさに着ることで、あとから来る人、弱い立場の他者を攻撃したりして、自分の側の矛盾、欠点や短所を「無かったことにする」ことでは断じてないと思うのです。


あれ、このフレーズもどこかで聞いたことがあるなと、思い出した言葉をご紹介して、本書の解題といたします。
『哲学本来の方法は、解決不可能な問題を解決不可能なままに明晰に把握し、次に、何も付け加えずに、たゆまず、何年もの間、何の希望を抱かずに、待機のうちに、その問題をじっと見つめることにある。
この基準に照らすと、哲学者はほとんどいない。
ほとんどといってもまだ言い過ぎなくらいである。
超越への移行が果たされるのは、知性、意志、愛といった人間の能力が限界に突き当たり、人間がその敷居に留まり、その敷居を一歩も超えられず、引き返さず、自分が何を欲しているのかもわからず、待機のうちに張りつめているときである。
これは、極度の屈辱である。
屈辱を受け入れられない人には不可能である。
天才とは、思考の領域における謙遜という超自然的な徳である。』
(『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』今村純子訳 河出文庫刊)


◇こんな人におすすめ
・「考えるという行為は、どういうことか」について考えてみたい人
・人生を投げ出そうと考えているひと(読んでから投げ出しても遅くはないと思います)
・いやしくも、「考えること」を職業としている人
・似非教育者に騙されず、真の学問、探究をして、天狗にではなく、謙虚になりたい人

◆この本を読んで読んでみたくなった本
・池田晶子氏の他の本
・ブログ本文中に引用した本