カーエアコンの修理と、車の運転の見直し | 旅はブロンプトンをつれて

旅はブロンプトンをつれて

ブロンプトンを活用した旅の提案

先日、自分の車の9回目の車検が無事通りました。
もう19年選手で、来年に20年となりますから、あちこちにガタが来ていますが、それでもいまだに乗り心地は最高で、旅をするならこの車以外にないとの思いは、入手した18年前と変わりありません。
後継の新型が出てずいぶん経ちますけれど、それでも車名をいえば、高級輸入外車と評価されてしまう車ですし、タイヤをはじめとする消耗品・部品を交換したり、壊れた箇所を修理したりすれば、普通の車よりもお金がかかるということで、自動車1級整備士の免許を持っている方に個人的に頼んで、車検を通してもらっています。
周囲の殆どの人は、私が見栄でこの車に乗っているのだと思い込んでいます。
しかし、20代の頃からヨーロッパでシュツットガルト、ミュンヘン、インゴルシュタットに本社のある御三家の車をレンタカーとして借りて、アウトバーンを走っていた自分には、日本における車のヒエラルヒーには興味がありません。
何でも愛知県の某市では、いまだに会社の肩書と車のグレードが一致していないと白い目で見られるとか。
何時代なのでしょう。

私はモノにとらわれるような生き方はしたくないのですが。

車でもオートバイでも、自転車でも、所詮は道具です。
近所のスーパーやコンビニに買い出しに行くのなら、軽自動車でも良いし、ひとりであれば、車である必要すらなく、原付で十分だと思っています。
ブロンプトンに乗っているのはイギリスにかぶれているからではなく、ブログで説明した通り、それがもっとも私のやりたい旅行の目的に適っているからです。
たとえツィードジャケットにマントを羽織り、口にパイプを咥えて鹿撃ち帽を被っていたとしても、それでコナンドイルを愛読していたとしても、あくまでもポーズです。
推理小説を読むのに、そんな恰好は必要ないと思っていますから。
ただ、車で長距離を旅行する場合、マイカー旅行自体のメリット、デメリットは別にして、運転のしやすさ、路面や気象条件への変化対応など、向き不向きはあるとおもいます。
私は乗り物の種類にかかわらず、車窓オタクだから、いくら悪路走破性が高くて雪道に強くても、軍用車両のような窓の小さな車は御免です。

それで、縁あってこの車に乗っているのです。

さて、私の車ですが、今年の3月ごろからエアコンが効かなくなっているのに気が付きました。
寒い時期なら問題ないのですが、これから夏に向けてエアコンが使えないというのは致命傷です。
そこで、車検を通した後に見てもらうことにしました。
まずは、冷媒を入れる口にメーターのついているチャージホースをとりつけ、もう一方にコンプレッサをつないで、残っている冷媒をすべて排出し、真空状態にします。
真空状態になったら、そのまま10分ほど放置し、メーターの目盛りに動きがないかチェックします。
このとき、真空状態から戻ってゆけば、どこかに洩れている箇所があるということでしたが、幸い動きませんでした。
コンプレッサを外し、今度はカーエアコン用の冷媒(HFC-134α)をホースの端に取り付け、スイッチを吸出から封入側に切り替えて冷媒を入れてゆきます。
冷媒の入った缶はホースに固定すると穴が開くタイプでしたが、開けた途端、みるみる表面が冷たくなって外側に汗をかいてゆくのでした。
この時に、もう一人がエンジンの回転数をあげて、冷媒の充填を補助します。
その時に、エアコンの排出口に温度計を指して、冷気の温度がどれくらい下がってゆくかを確認しました。
最初は外気と変わらない25度でしたが、200gの冷媒を3缶弱充填してゆくうちに、みるみる下がって16度になりました。
作業後に聞いたところ、19年もの間冷媒を入れずにもったことの方がラッキーだったと言われました。
実費+ほんのわずかな工賃でやっていただいて、感謝です。


車検も通ったし、これで夏を乗り切れそうです。
エアコンが効くようになって、運転にもゆとりが出ました。
考えてみれば、私が子どもの頃の車は、鉄道ももちろんですが、エアコンなどついておりませんでした。
窓を全開にして走るのが精一杯です。
その頃は車も少なかったし、渋滞に巻き込まれることも滅多になかったので、問題なかったのでしょう。

それでも、陽に焼けたビニールシートの上に半ズボンで腰掛けるのは、火傷しそうになるほどの熱さでした。
作業中大雑把にカーエアコンの仕組みについて教えていただいたのですが、コンデンサと呼ばれる車前面の空気取り入れ口から風が入ってこないと、エアコンを支えているシステム全体に負担がかかるのだそうです。
だから、一定の速度以上で走り続けている分には問題ないのですが、長時間停車したまま、或いは渋滞のなかにずっといると、冷房効率が悪くなるだけでなく、エンジンにもよくないということです。
これは、夏場に車をクーラーの効いた部屋代わりに使うのは、やめておくべきかもしれません。
その点、自転車の場合は速く走れば走るほど汗をかいて、前からの風でもって身体を冷やすという単純なシステムですので、体に負担もかからないし、冷房病などの自律神経失調症に陥る危険性も無いのでした。


ブロンプトンをつれた公共交通機関の旅へ頻繁に出るようになってから、車での旅行には、撮影する場合などを除いて殆ど出掛けなくなりましたが、こうして冷静になってマイカーの運転をしていると、それでも自転車に乗ることで車の運転に良い変化が表れていると感じています。
いちばんの利点は、自動車の運転席から自転車をよく観察することになったことです。
自分で自転車に乗っているからこそわかることですが、同じ自転車でも電動アシスト機能がついているタイプとついていないタイプ、小径車と大径自転車で動きが全然違います。
また、ママチャリなどの普段のり自転車か、サイクリストの乗る自転車かで、走り方も違います。
最近はやり出した電動キックボードもです。
私がよくブロンプトンで走り回る渋谷、新宿、六本木、赤坂界隈は、マイクロモビリティのシェアターミナルを見かけるのですが、電動アシスト自転車に続いて、最近では原付ナンバーのついた電動キックボードを見かけるようになりました。
なんでも実証実験なのだとか。
狭い範囲でのモビリティシェアということでは(値段にもよりますが)、効率は良いのでしょうが、運転・走行マナーを借り手に任せきりにしている点が気になります。
そういうことを頭に入れながら、車と自転車や歩行者との距離を慎重にとるようになりました。


これは、ブロンプトンに乗っているときに、周囲の交通状況を丁寧に観察する習慣がついたからだと思われます。
オートバイももちろんですが、自動車って絶対速度が速すぎるのです。
物陰から飛び出してくる歩行者や自転車に対処しようにも、どんなに反射神経がよくても、一定のスピード以上出していたら、対処しきれません。
高速道路や自動車専用道路、幹線国道などのように、歩行者や自転車が車道まで出てこない前提の道であれば、法定速度で走れますが、狭い路地に入ったら、制限速度内で走っていても、運が悪ければ事故を起こします。
その点、自転車であれば自己の質量が車よりもはるかに小さいし、その分制動もよく効くので、衝突前に停止することが可能です。
私も、一時停止や見通しの悪い交差点での徐行を省略した自転車、道路状況などいっこうお構いなしに、スマートホンの画面に見入ったままスタスタと歩く歩行者と、こちらが急停止することで、すんでのところで衝突を回避したことが何度もあります。
イヤホンマイクを装着して電話しながら歩く人はとくに危険ですが、自転車でなく、車やオートバイであれば口パクしながら歩いている人にしか見えませんので、区別がつきません。
また、自転車で同じ街を何度か通過していれば、ここはコンビニや銀行だから、突然店から人が出てくるとか、ここはバス停が反対側にあって信号が遠いので、無理して横断する歩行者が多いなど、すぐにわかります。
その注意ポイントは、同じ道を車で運転して走る時も活かされるわけです。


そして、人間というものは、運転が楽になればなるほど、その余裕を危険に対する注意、すなわち交通安全のために使わずに、自分勝手な欲望のために使用してしまう生き物だということを痛感します。
ブロンプトンよりオートバイや車の方が運転は肉体的にずっと楽なはずなのに、運転が丁寧になるどころか、むしろ乱雑になってしまっているような気が、自分でしています。
だからこそ、車であれオートバイであれ、運転しているときはブロンプトンに乗っている際の丁寧さを自己に求め、神に祈るようにしています。
こんなことは、自転車に乗り続けるという習慣が無ければ、気が付かなかったと思います。
否、小学生の頃の自分は、自転車からみて、大人の運転する車やオートバイは、運転が乱暴で自分勝手だと感じていました。
その後、自分も運転免許ホルダーになって、昔感じていたそういう運転を無意識に自分がやっていることに、自身で気付けていませんでした。
路上では、自転車<オートバイ<自動車と、免許をとって運転する乗り物のほうが、運転技術的に長けているような気分が蔓延していますが、丁寧に運転するか否かは、乗り物の種類ではなく、運転するその人にかかっています。
便利な乗り物だからと、それを使いこなしている自分に酔いしれるのか、自分はパワーのある乗り物を運転すればするほど傲慢になってゆくと自覚して、自らを戒めつつ、より謙虚な運転を心がけるのか、それは運転手の側で選択することであり、それによって、対象にとらわれるのか、対象から自由になるのかも、おのずと明らかになってゆくと思います。
大人になってからじっくりと自転車に乗るという行為は、そうした忘れてしまった子どもの頃の自分の気持ちを取り戻すことでもあるのだなと噛みしめながら、今日も丁寧な運転を心がけてブロンプトンに跨るのでした。