一日でとびしま海道としまなみ海道を走りぬける(その2)上蒲刈島と蒲刈大橋 | 旅はブロンプトンをつれて

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途中フェリーを挟んでとびしま海道としまなみ海道を一日で走り抜けようという、ちょっと無謀な本企画、仁方駅にて呉線を降りてから、一つ目の安芸灘大橋を渡った時点で30分以上が経過してしまいました。

時刻は7時15分。

ここから岡村港までおよそ28㎞。

年末のこの時期、まだ太陽は島陰に隠れて見えず、残り2時間半もあるとはいえ、計画ではあと6つの橋を渡って岡村島の岡村港を9時50分に出航する船に乗るつもりですから、油断はできません。

橋を渡り終えて一般道と接続する見戸代の信号の先、太鼓橋のような擬宝珠のついた赤い欄干の一の字橋を渡ったらすぐに左折して海沿いに進みます。

(天神鼻から安芸灘大橋をのぞむ)

途中天神鼻と呼ばれる中世に水軍城(丸屋城)のあった半島をトンネルでくぐります。

半島沿岸には、周囲をまわる小径があって、先ほど渡った安芸灘大橋を眺めるのには絶好の場所なのですが、今は先を急ぐため直進します。

その先、海に沿って道が東から南へと進路を変えると、下蒲刈島の中でも古い歴史のある三之瀬集落に入ります。

東隣の上蒲刈島との海峡がかなり狭まり、お向かいの向港(名前がそのまま。向浦港、あるいは周囲の港を総称して蒲刈港とも)が手に取るように見えます。

この海峡を三之瀬瀬戸といい、名前の由来は東、西、南の三方向から潮流が流れ込むことによるといいます。

(三之瀬)

対岸の向港には、伝説があります。

神武天皇が瀬戸内海を航行していたとき、強い風に船が煽られて舵が故障し、潮の流れによってこの港に漂着したとき、周囲を展望しようと港の後ろの山に登ったところ、蒲が生い茂って眺望が効かなかったのでこれを刈り取ったところから、蒲刈の名前がついたということです。

三之瀬は中世には港であったことがわかっていますが、島の人たちはここに海の関所(海関)を設け、複雑な潮流の水先案内人をつとめる代わりに船から通行料を徴収していました。

彼らは海賊と呼ばれ、前述の丸屋城ともども、水軍を形成していたわけですが、海賊といっても、いわゆる航行船舶を襲って積み荷を奪い、船員を皆殺しにする西洋でいうところのパイレーツとは全然違います。

(蒲刈大橋)

近代に入ると、瀬戸内海航路は沿岸の港伝いにゆく地乗りと、沖の島伝いにゆく沖乗りの2ルートが一般化しましたが、三之瀬港は地乗りの風待ち港として、竹原市の忠海港、福山市の鞆港(鞆の浦)、瀬戸内市の牛窓港、たつの市の室津港などとともに整備されました。

江戸時代に入ると、北前船の西廻り航路(酒田~佐渡~日本海沿岸~下関~瀬戸内海~大阪~紀伊大島~伊豆下田~江戸)の風(潮)待ち港として機能したほか、参勤交代の西国大名、オランダ商館長、琉球や朝鮮の通信使が江戸参府する際に利用しています。

そうした貴人や使節を泊める本陣や宿宿があったのですが、いまは史跡として石柱と説明板がある限りです。

時代がくだり汽船の時代になると、もはや水先案内人としての機能は失われ、ここの船乗りたちは自分の船で九州沿岸や五島列島にまで荷役の仕事に行ったという記述が、宮本常一先生の本にはありました。

現在は地元有力者の別邸や、他の港から移設した町家や邸宅、番所を移設した公園があります。

もちろん、まだ眠りから覚めぬこの港町の様子をわき目で確認するだけで、全力疾走して通過しました。

(蒲刈大橋を渡るには、2回下をくぐります)

 

三之瀬集落をすぎ、三之瀬瀬戸に架かる蒲刈大橋をいったんくぐり、そこから右折してループ状に湾曲した坂道をのぼってゆきます。

朝食を食べていないうえに、昨夜興奮して眠れなかったことも災いして、かなり息が切れます。

安芸灘大橋といい、今度といい、橋を渡るとき、渡った後の下り坂は気持ちいいけれど、その前の坂道はたまったものではないな、これが今日あと何度繰り返されるのかと思うと、気が遠くなります。

7時24分、蒲刈大橋の西端に到着。

蒲刈大橋は比較的長い国道の橋や鉄道橋にみられるようなトラス橋で、正式な種類は3径間連続下曲弦プラットトラス橋というそうです。

長さ480m、幅員8m、桁下高23mで、幅が狭いためか橋南側のみに設けられている歩道部分はあまり広くありません。

桁下は安芸灘大橋の半分くらいしかありませんが、下の海を覗くとかなりの早瀬であり、落ちたら泳げても助からないと感じました。

私、大学生の時何度か10mの高飛び込みをやりましたが、ちゃんと足先から着水しても、皮ベルトで足の裏をひっぱたかれる痛さの5倍くらいの衝撃が襲います。

一度力が入りすぎて斜めに落水したことがあるのですが、身体の片側面に青筋が1本入ったまま、2カ月たっても消えませんでした。

高さが20m以上あると、太っている今なら加速度も相当ついて海面に突っ込みますから、高飛び込みの選手でもない限り、常人はまず着水時に気を失ってしまうと思います。

それで水を飲んでおしまいかなと。

なお、蒲刈大橋には転落時に備えての柵などついておらず、ブロンプトンに乗って通過すると上半身が海に吸い込まれそうな高さで、横風も強く吹きますから、あまり下の海面に見入るのはやめましょう。

 

蒲刈大橋から見える島ですが、南方向に上黒島(かみくろじま)、渡り終える頃その西側に下黒島(しもくろじま)が僅かに認められますが、後者は下蒲刈島の陰になって一体化しているようにしか見えないため、見分けるのは難しいかもしれません。

よく見えている上黒島の方は、3.6㎞沖合に位置していて、海岸線長3.35㎞面積0.3㎢の文字通りの小島で無人島です。

最高標高は82.5mですが、真ん中がえぐれているように見えます。

これは1989年に産業廃棄物の処分場になったためで、衛星写真で確認しても島の真ん中が切り崩された上に埋め立てられているのを確認できます。

その西隣に浮かぶ下黒島も採石場として島の丘が切り崩されており、いずれは上黒島と同じ運命を辿るのかもしれません。

瀬戸内の無人島でこのような事態が進行しているのは、注意して観察しないと分からないかもしれません。

橋から逆に北方向をみると、三之瀬港と向港が瀬戸を挟んで向き合っており、その向こうに先ほどの安芸灘大橋が見えるという、なかなかの景色だけに残念です。

蒲刈大橋を渡り切ると、上蒲刈島の仏ヶ崎です。

橋の東詰めにはであいの岬という怪しい名前の公園があります。

こんなところで何に出会うのだと思っていたら、東の海上、いや正確にいえば海上に浮かぶ雲の上からご来光が差してきました。

時刻は7時28分。

海にオレンジの光の筋が出現し、とても美しい日の出です。

毎朝こんな日の出が見れたら贅沢でしょう。

見とれていると、後ろを瀬戸内産交バスが通過してゆきました。

一番バスには追い抜かれてしまいました。

しかし、およそ1時間30分後に来る二番バスに乗っても、最寄りの初崎バス停には9時35分には着くので、5㎞を20分で走り切れば、何とか9時55分岡村港発のフェリーに乗れると踏んでいます。

それに乗り遅れても、同じ岡村港から大三島の宗方港ゆきの船に乗れば、大島と伯方島を省いてしまなみ海道の途中に出てくる形になり、日暮れ前には尾道へ到着できるという算段をしていました。

(上蒲刈島仏ヶ崎から日の出をのぞむ)

上蒲刈島は、面積18.8㎢、海岸線長27.9kmでとびしま海道の中では最も大きな島です。

最高標高は456.7mの七国見山でやはりとびしま海道の島の中でも一番高い山をいただいています。

人口は1662人(2015年度統計)と、大崎下島に次いで第2位ですが、人口密度は88.36人/㎢と、無人島を除く5島中一番低くなっています。

つまり、大きい割には人が少ないのです。

次回はこの上蒲刈島の西南単にあたるであいの岬から、東西に長い上蒲刈島を抜けて、東隣の豊島との間に架かる、豊島大橋を目指したいと思います。