話し言葉と書き言葉の違い―思いのままに呟かないことのすゝめ(その1) | 旅はブロンプトンをつれて

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ブロンプトンを活用した旅の提案

私は高校の授業や大学をゼミナール形式で体験し、30代後半になってとある輪読の会に参加するようになってから、話し言葉と書き言葉の違いを痛感するようになりました。
決定的に思ったのは、やはり文章を翻訳したときです。
おしゃべり上手な人が、名文家であるとは限らないし、口下手な人は作文が苦手かというと、そういうわけでもありません。
自分の場合は特に、読書量が増えるにつれて考え込むことが多くなっていって、口数が減ってきたように感じています。
ガイドさんをするなら、それじゃぁ困るわけですが、しかし添乗員をやっていて感じたのは、本当に上手なガイドさんって、話してみると、様々なことに好奇心を持っていて、よく本を読んでいるという印象が強かったように思います。

(今回は本文とは関係ない、何年も前の4月下旬に軽井沢近辺をブロンプトンで走った時の写真を添えます)


書籍でもニュースでもブログでも、活字を読んでいて「この筆者は本を読んでいるな」と感じる文章と、「ただ感情の赴くままに書きなぐっているだけ」と感じる文章の差は、一目瞭然です。
新聞の日曜書評欄に紹介された本を確かめるとき、本屋さんで序文や前書き、最初の1~2ページを読めば、著者の文章の癖が分かるだけではなく、何を考えて本を上梓したのかがわかります。
たまに、「この話はあの古典の内容を現代に焼き直しているのだな」と気付いたりもしますが、本を書く動機なんて大概はそんなものだと思っているので、あまり気にしていません。
現代のように、情報が万人に開かれているような世の中になりますと、同じ情報を基にしていても、普段から読書をして自分の頭で考えているひとの書いた文章か、そういう習慣がなく、仕事中ではそこそこに頭を使うけれど、それ以外は頭のスイッチを切って休んでいるか、頭を空っぽにして趣味や遊興に耽っているかの、いわゆるやっつけ仕事で書いた文章かは、本を読む人が読めばすぐにわかってしまうのです。

前に「本を読むという行為は、文章を書くという行為よりもある意味で重要だ」という若松英輔さんの言葉をご紹介しました。
文章を書かなくても本は読めますが、読書をしていないと文字は書けても文章は書けません。
私も普段本を読んでいなければブログは書けないと感じています。
今月のはじめに「独りになって省察するチャンス」という文章を投稿しました。
あの中で、高野悦子さんの詩をご紹介しましたが、彼女の入り浸っていたジャズ喫茶の店名が「しあんくれーる」(“Champ Clair”=フランス語で「明るい田舎」)だったって気付いた人がどれほどいらっしゃったか。
こうしたネタはどこから仕入れるんだと聞かれても、ブロンプトンに乗って世間を眺め、頭に酸素を思い切り入れて、よく食べて、よく本を読んでいると、天の声が自然に降りてくるのです(それじゃぁまるで和気清麻呂改め別部穢麻呂―今話題の宇佐八幡宮での神託事件を参照のこと)としか言いようがありません。
時の政治家も洋の東西を問わず、議会の場で、或いは短文投稿サイトで、日常はその分野に関する本も読まないでおいて、よく考えないで言葉を発していますが、あれは受け手だけでなく自分を貶める行為だと思います。
政治的なことにはほとんど興味がないノンポリですから、他人事ですが。

(清水幾多太郎先生の本は面白いので、いまでもたまに読み返します)


私の場合、一度の投稿に費やす文章の量は、マイクロソフト・ワードのA4標準設定の文字数、すなわち一行40字×36行の1440字を3枚から4枚です。
つまり4320字から5760字くらいのボリュームになります。
ブログ用に一文ずつ改行して作文しているから、八掛けしても3456字~4608字で800字詰め原稿用紙なら4枚から5枚の分量です。
これだけの文書量になると、調べものをしながら、確認をとりながら作文してゆくと、半日から丸一日かかります。
もちろん、書きあげて読んでみたら自分でも何が言いたいのかわからない文章が出来上がってボツにしてしまうケースもたくさんあります。
それでも「ブロンプトンをつれて旅に出たい」という気持ちと同様に、「いま思っていることを文章にまとめたい」という衝動が沸き上がってくるのです。
「お前の文章はくどい」といわれますが、私は文章を書くという行為自体、現代ではまわりくどい言葉の伝達形式だと考えているので、くどくて当たり前だと開き直っています。

でも、直接物言いをするよりも、よく考えて作文するこちらの方が、私は好きです。
だから、拙文を読んでお付き合いしてくださっている方々には、感謝の言葉しかございません(笑)

ずいぶん前になりますが、ブログなんてワンセンテンス(1節)の文章と1枚の写真だけでいいのだから、毎日投稿することの方が大事だという意見をいただいたことがあります。
その人が言うには、今の人は(自分の評価やお金がかかっていなければ)長い文章を読まないのだから、分量を作文しても読んでもらえないというのです。

私だってこの分量を3~4節ずつ「次回に続く」で投稿したなら、毎日のブログ書きがどんなに楽だろうと承知しています。

でも、そんな効率優先の作文は、劣等生だった私にはできません。
たしかに教科書の見出しだけ読んで本文はキーワードのみ暗記するなんて試験対策用の勉強法が私の時代にもありました。
でも私自身は4月に教科書が配られたら、好きな教科(好きな先生の授業で使う)本はその月のうちに全部読んでしまうけれど、嫌いな教科(嫌いな先生が授業で読む)本については、翌年の3月までほとんど開かないという反抗的な生徒だったので、要領よく飛ばし読みして成績を稼ぐような人とは、いくらその人が物知りでもウマが合わず、書き手としての自分がそんな人を念頭に置いて文章を書こうとしても、無理だと自覚しているのです。


それはあたかも作曲家に、今の人はコンサートへ行ってじっくり音楽を楽しむ人が殆どおらず、聞き流すだけなのだから、基本となるメロディをいくつかつくって、あとのフレーズはパソコンの作曲ソフトに任せて曲を量産すればいいよ、と言っているようなものでしょう。
私が吟遊詩人でポエムを大量生産する人ならそうするでしょうが、創作の意図を書き留めた文章でも、自伝でも随筆でも何でも構わないのですが、長文の作品が他に全く無い文筆家の詩や歌は、何でこんな風に歌を詠んだり作詩したりしたかが伝わってこなくて、薄っぺらいと感じてしまう性質ですからどうしようもありません。
ためしに子どもの頃に流行っていて諳んじている流行歌や歌謡曲の歌詞を、平文で口に出してみてください。
愛だの恋だの盛んに言葉を濫用しているのに、一向に意味が通じません。
その場の情景はよくあらわしていても、それだけであとの中身が無いものだから、絵柄だけ立派な老舗百貨店の包紙みたいです。

私が作曲家だったら、そんな作品を量産して仮に世間ウケして有名になり、お金持ちになれたとしても、空しいだけだと想像します。

FacebookやTwitterなど、短文投稿サイトもやった方がいいと言われてアカウントをとったものの、どうも「短文」というものが性に合わなくなって、半年くらいで放置するようになりました。
あそこには、たくさんの人がつながっていて、自分の気持ちを分かち合っているという幻覚が、「感情の言葉」すなわち「話し言葉」でもって担保されているという、言葉を大切にしたい人間からしたら一種異様な空気が漂っています。
感情の言葉というのは、よく考えずに思いついたままを文書化することを指します。
一般の会話などで使われる言葉もそれです。
テレビなどのバラエティ番組で交わされる言葉も同じです。
でも、ある程度長く翻訳もやって、こうしてブログを8年近く書いていると、感情の言葉というのは、話す場合でも書く場合でも気をつけないといけないことが多いと思うのです。


まず、上述した通りそうした言葉には中身がありません。
そして、その時その場の雰囲気で発されたことばだけに、読み手への配慮を欠く言葉が多く、互いの感情を害することが多いのです。
本人はついうっかり口(筆)が滑った、あるいは勢い余って口に出した(キーボードを叩いた)、もっと酷い場合は相手のためを思って発した言葉だと思っているのかもしれませんが、聞き手、読み手はそうは受け取らず、挑発されたと感じ、感情的な言葉の応酬が積み重なるだけで、そうなってしまったら、人間を成長させるどころか退化させる行為に陥るだけですから。
誰もが気軽に思いついたままの言葉をその場で発信できる世の中になったからこそ、言葉を紡ぐ際には、短文であればなおさらのこと、慎重にならねばならなくなったということなのでしょう。

(次回に続く)