旧東海道薩埵(さった)峠―名前の由来から仏教の宇宙観をひもとく | 旅はブロンプトンをつれて

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旧東海道の景勝地、薩埵(さった)峠。
富士山を背景に駿河湾が深く切れ込み、海にまで迫った山が落ちる僅かな海岸沿いに、東名高速道路、国道1号線、JR東海道線が折り重なるように通過する風景は、現代でも東海道随一の名勝です。
これまで何度か書きましたが、ベストシーズンは富士山に雪が残り、それが海と空の蒼さと対照的に輝く4月から6月上旬くらいまでの間だと思います。
なかでも由比の倉沢びわが収穫期を迎える直前の、5月連休以降は峠の東坂いっぱいにその甘酸っぱい匂いが立ち込めて、景色と併せて桃源郷に迷い込んだような気分になります。


現在は車窓から、或いは峠上からこの見事な景色を気軽に眺められるこの場所も、峠道が開かれる以前は、海辺の岩場に続く狭くて細長い杣道を、波にさらわれないよう注意して通過する、東海道三大難所のひとつに数えられた危険な道でした。
東海道が制定されて間もなくの1607年、朝鮮通信使の江戸派遣が定期的になるのを期に、外国使節に危険が及んではならないということで、現在の峠道が開削されました。
幕末の和宮東下にあたっては、「さった」が「去った」に通じて縁起が悪いということで、東海道を避けて中山道を選択したといわれています。


つちへんにたれると書く「埵」の字が使用頻度の低いJIS第3水準漢字にあたるため、「薩た」とか「さった」と表記されることも多くあります。
峠の名前はかつて祀られていた薩埵地蔵(現在は興津町内峠北側にある東勝院=真言宗醍醐派に安置され、3年に1度の開帳)によるといわれています。
地蔵とは、地蔵菩薩の略称で、サンスクリット語の「クシティガルバ」の意訳です。
「クシティ」は「大地」、「ガルバ」は「胎内」や「子宮」を意味し、併せて「大地の母胎」という意味のインドにおける大地神が仏教に取り込まれたものといわれています。


仏教では、「釈尊が入滅されてから、弥勒菩薩が下生して仏になるまでの間、無仏の世界に住んで六道の衆生を救済する菩薩」と説明され、日本の民間においては道祖神の性格と子どもの守り神としての性格を併せ持っています。
その真言は、「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
意味は、「おーい、お地蔵さん、お地蔵さん、稀有なる尊いお方、スヴァ―ハー(=聖句)」になります。
なんだかちょっと可愛らしいですね。


さて、今日の本題「薩埵」の意味です。
薩埵とは、やはりサンスクリット語の「サットヴァ」(sattva)の音訳で、漢語では「有情」(うじょう)といいます。
日本語なら「衆生」(しゅじょう)の方が通りは良いかもしれません。
要は、生きとし生けるものすべて、生命あるもの一般をさします。
般若心経の真ん中よりちょっと後ろに、「菩提薩埵」(ぼだいさった)という言葉がありますね。
あれは、上に「菩提」がつくことで、「仏の次の階級の人、大勇猛進を起こし、仏道を求め、慈悲の心で衆生をすくう人。」の意味になります。
心経の中では「悟りを求めている者」として登場します。


この「衆生」すなわち「有情」という仏教用語を調べると、面白いことがわかります。
キリスト教は、旧約聖書の創世期における天地創造の物語から話がはじまります。
日本の神道だって、古事記や日本書紀にある「国産み」伝説から日本の起源を説き起こしています。
これに対して仏教はどうか。
神でも主でも呼び名は何でも良いのですが、人間を超越した絶対者が最初にいて、この世界を創り出したという考え方は取りません。
仏教というのはいつかも書きましたが、創造主とか造物主という存在を最初から考えないのです。


では、仏教においてこの世はどのようにして出現したのでしょう。
4~5世紀にヴァスバンドゥ(世親)を作者として成立した『阿毘達磨倶舎論』(あびだつまくしゃろん)は、釈迦の死後数百年の間に原始教団から分裂した各部派の教義を整理してまとめ、発展解釈を加えた書物であり、仏教の大きな流れの中で南伝の上座仏教と北伝の大乗仏教が分岐するその接点にある仏教理論書ですが、そこに仏教の考える宇宙の成り立ちが述べられているそうです。
最近はとくに本を読む時間があるのですが、お寺に行けば仏教辞典が複数あるし、仏教書の中でも巻末に索引のある哲学系の本を分からないながらも読み進めていると、広大な仏教の森の中を探検しているような気分になります。
しかし、その時でも自分のキリスト教を主体とした信仰についての知識が非常に役に立ちます。


さて、『阿毘達磨倶舎論』によれば、自然界は創造主にはよらずに、「サットヴァ・カルマン」によって生成されるとあるそうです。
「サットヴァ」は上述の通り、「カルマン」は「カルマ」、いわゆる「業」(ごう)のことですが、単純に「行為」「動作」の意味です。
つまり、世界は命あるものの活動、生命体の行動によって成ったとされているのです。
環境が先にあって、そこに生命体が生まれると考えるのが普通ですが、仏教は逆に生命あるものの活動によって自然界が生み出されると考えるわけです。

だから生きとし生けるものすべてを慈しむことになるのでしょう。
でも、「はじめに命の活動ありき」なんて考えていると、「鶏が先か卵が先か」のジレンマに陥りそうです。
或いは、デカルトの「コギト・スム」(われ思う、ゆえに我あり)か?なんて思っちゃたりします。


しかし、どうしてそんな考え方ができるのでしょう。
それは、この広い宇宙の中には複数の自然界が存在し、まだ存在していない自然界の外には、すでに別の自然界が複数存在していると考えるのだそうです。
なんだかパラレルワールドみたいにも思えてきました。
つまり、宇宙の生成エネルギーと人間をはじめ、いま在る生命体が生きて行為するエネルギーを根源的な意味で同一視すると考えてよいそうです。
ああ、そう考えるとすべての生命が尽きるときが自然界の終末なのかと思いきや、仏教には輪廻転生という考え方もあったなと、頭をかきむしりたくなってきました。


しかし、あの薩埵峠の美しい景色を眺めながら、仏教の、宇宙全体が生き物の活動全てとつながっているなんて教えを聞いていると、ロマンのある話だと思うのです。
そして、仏教のもとになった古代のインド人は、自分のような凡人には考えもつかないほどに、スケールの大きな世界を持っていたのだなと考えると、遥か西、つまりは旧東海道のもっとずっと西にあるお釈迦さまの活躍した場所に思いを馳せるのでした。

今回参考にした書籍
仏教の思想2 存在の分析<アビダルマ> 櫻部健 上山春平著 角川ソフィア文庫