旧東海道へブロンプトンをつれて 49.土山宿(その2) | 旅はブロンプトンをつれて

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(生里野公園前)

旧東海道の旅は、江戸から数えて49番目の宿場、土山宿の東端にあたる生里野(いくりの)から続けます。
道の駅あいの土山の裏手にある生里野公園(34.927545, 136.295442)前で、南西から北西方向へと直角に曲がった旧街道は、いよいよ宿場のまち並みの中へと入ってゆきます。
軒板塀が連なり、玄関は当然に引き戸の家が圧倒的に多く、子どものころの鎌倉の街角を彷彿とさせます。
但し、こちらはべんがらの赤や茶の壁が多く、西日本特有の濃い灰色の屋根瓦を頭にいただく家が多いので、関東のまち並みよりも全体的に少し暗めで、曇った日などは重い感じのトーンに景色全体が包まれています。


土山宿もかつての仕事と屋号を記した木札が家々に掲げられており、その場所がかつて何であったかが分かるようになっています。
これは、歩いている旅人が想像力を掻き立てるうえで、とても役に立つ演出だと思います。
たとえば、最初に現れるのが右側の「旅籠 鳥居本屋」さん。
鳥居本というと、京都嵯峨野の奥にある化野(あだしの)念仏寺のある辺りを鳥居本というのですが、滋賀県も彦根市の東に鳥居本という地名があります。
そのお隣は「たば古屋」さん。
タバコや煙草といわず、「たば古」と表記するあたりがなかなかです。

(生里野地蔵堂)
380mすすむと、左側に小さな地蔵堂を認めます。
これが、生里野地蔵堂(34.929420, 136.292351)です。
このお地蔵さんは、もともと街道より南側の一段低いところを流れる唐戸川沿いにお堂があって、毎年8月23日になると地蔵講の家に移されて、翌24日未明に講中の人々が鳴らす鐘の音に導かれて、自力で地蔵堂に戻ったといういい伝えがあります。
こうした、石像や木像が自分で歩いて寺社を移動したという話はあちこちにありますが、権利の関係から誰が遷したかを明かさないでおくために、昔の人々が考え出した知恵なのだと思います。
今なら監視カメラがそこかしこにありますから、誰がやったかはすぐに判明して犯人が捕まるわけですが、「自分で歩いて帰ったことにしておこう」という言い伝えは、おおらかなやさしさを感じます。

地蔵堂の少し先には上島鬼貫(うえじま おにつら)の句、「吹けばふけ 櫛を買うたに 秋乃風」の石碑があります。
彼は江戸中期における大阪出身の俳人で「西の鬼貫、東の芭蕉」といわれるほど有名だったそうです。
知りませんでした。
その位置関係だと奈良や京都からみてということなのでしょう。
芭蕉はここからほど近い伊賀の出身ですから。
上記の句は、「どんなに秋の風が吹いても構わん、ここで櫛を買ったから」という意味ですが、土山から鈴鹿峠にかけては雨が多かっただけでなく、秋から冬にかけては風も強かったのかもしれません。
そう考えると、土山宿を散策するベストシーズンは春から初夏にかけてのこれからの時期かもしれません。

鬼貫の句を証拠付けるように、地蔵堂のはす向いの家には「お六櫛 三日月屋」の札がかかった家があります(34.929669, 136.292210)。
お六櫛とは、またの名を土山亀井櫛とか、御三ツ櫛といい、江戸期にはこの地の名産品として東海道を行き交う旅人が土産として購入することで有名でした。
この櫛が土山名物になるまでには、次のようなエピソードがあります。
あるとき、お伊勢参りを済ませた信濃の国(今の長野県)の櫛職人が、帰りに京を見物してゆこうと東海道を西へ向っていたところ、この地で重い病に倒れました。
生里野の集落で養生させてもらい元気を取り戻した職人は、旅から帰っても何とか恩に報いたいとの想いが強く、もう一度土山宿を訪れて信州名産の櫛の製法を伝えたそうです。
彼がもたらしたのは柘植(つげ)や枳榠(きこく=カラタチの一種)といった、堅い材質の樹木を原料とした当時の高級品で、これが土産に喜ばれるというということで宿場も大いに潤ったということです。
土山宿では10軒ほどの櫛を売る店があり、その形から三日月屋という屋号の店だけで3軒、ほかにも「十三屋」という屋号の家が同業者だったといわれています。
九+四(くし)=十三ですから。
三十六屋じゃないんだ(笑)。

(扇屋文化館)


櫛は軽くて小さく嵩も張らないから、土産にしても荷物になりません。
それに、留守を預かる女性には実用的で高級品となれば文句の言われようがありません。
信濃の国って山国だから、昔から櫛とか髪飾りの産地だったという話は聞いたことがあります。
なんだかスイスにおける腕時計やアーミーナイフみたいです。
製法を伝えるということは、ライバルをつくることに他ならないわけですが、それくらい宿場の人たちが無私で看病したことへの恩返しなのでしょう。
病院に入院する前にデポジット(保証金)を要求する昨今の病院とは大違いです。
司馬遼太郎先生は小説のなかで、むかしの街道は世情の通り道だっただけでなく、技術の通り道でもあったと書いていましたが、それは今のように光ファイバーや無線で大量のデータが無機的かつ即座に伝わるのとは違い、こうした仁愛という人間にしか持ち得ない触媒を通していたからこそ素晴らしかったのだと思います。
SNSでくだらないデマが拡散して根拠の無い不安が拡大する現代と比べてみてください。
通信インフラで儲けている会社の方々や、その方面の技術革新に取り組んでいらっしゃる方には、一度はそのことについて深く考えて欲しいものです。

(土山一里塚跡碑)


地蔵堂から270m先の左側にあるのが、扇屋伝承文化館(34.931248, 136.290332)です。
棟続きで無料休憩所も兼ねています。
扇屋の方は上述してきた櫛を商ってきた商家を無料で公開しているのですが、残念ながら開館しているのは土日祝日のみです。
でも、上記の話を知っているこのブログを読んでくださっている方々は、行ったら是非立ち寄ってください。
運がよければ「扇屋レディース」という元ナントカ族のような名前(冗談です、ゴメンナサイ)の地域の女性の皆さんが、櫛に似せるなどの趣向をこらしたお菓子や食べ物を販売してらっしゃいます。
その110m先右側にあるのが、土山一里塚跡碑(34.931863, 136.289347)です。
「徳川家康が日本橋を起点として東海道を整備した慶長9(1604)年・・・」というもう何度も見てきた説明書きを読んでいると、最後のほうに「塚の形を昔のままに残しているのは亀山市の野村一里塚」とあって、今更ながらにあそこの一里塚は貴重だったのだと思い起こします。

(来見橋)
さらに進むと油屋権右衛門(34.932788, 136.287743)という豪商の前をすぎて道はゆるい下り坂となり、一里塚から350mで唐戸川に落ち込む支流、来見川に架かる来見橋(34.933868, 136.286288)を渡ります。
白壁に軒瓦がのっている珍しい欄干には、昔の街道を描いた切り絵(地元出身の黒川重一氏作)と茶摘み唄の歌詞を記したパネルがはめ込まれています。
「お茶を摘めつめ しっかり摘みゃれ 唄いすぎては 手がお留守」
これ、「八十八夜」の節で歌うのでしょうか。
なんともユーモラスです。
唄に夢中になって手が止まってしまう娘さんが続出したみたいです。
茶摘みで思い出しましたが、あの歌の中にある「茜襷(あかねだすき)」とは、単に茜色をした襷の意味だけではなく、茶摘みは指先にたえず裂傷を負いやすい作業で、袖を絞る襷を茜で染めることで、いざ切り傷を負ったときの止血効果を兼ねていたそうです。
お茶の葉の厚みとあのギザギザに触れてみれば容易に想像できます。
現代の衣装が本当に茜で染めてあるのかは謎ですが、それくらい女性にとっては過酷な作業ですから、唄でも歌いながら気を紛らわさないとやっていられなかったというのが本当のところかもしれません。

来見橋を渡ってゆるい上り坂を登りきると、左側に白川神社への入口があります(34.934168, 136.285831)。
毎年8月1日にもっとも近い日曜日に大祭が行われ、その前夜にあたる宵宮祭に花傘神事という行事が行われるそうです。
これは、各氏子から奉献されて傘につけられた花を奪いあうもので、県の無形民俗文化財に指定されています。
神社の境内には明治天皇の東下の際に土山宿に宿泊された夜、神器を一時奉安した旨の石碑があります。
このように、遷都の折に宿泊した場所で三種の神器を奉安するということは、一夜であってもその神社が賢所にあてられたという意味であり、地域の神社にとっては大変名誉なことだったようです。
今まで東海道で明治天皇が宿泊した本陣をいくつか見てきましたが、神社までを調べていませんでした。
というか、そもそも三種の神器って本陣の金庫にでも納めているのかと思っていましたが、物の性格上そんなわけ無いですよね。

(白川神社入口)
白川神社をすぎ、進行方向右側酒屋さんの手前、軒板塀の前に三本の石柱が並んでいます(34.934705, 136.283958)。
どれも旅籠の屋号が刻まれており、ここに宿が並んでいたことを示しています。
土山宿全体では四十四もの旅籠があったといわれ、鈴鹿峠を越えて尾張や江戸へ、あるいはお伊勢詣でに向う畿内やそれよりも西の人々で、この宿場がたいへんににぎわっていたことを示しています。
そのお向かいにも旅籠井筒屋跡(34.934648, 136.283928)の石柱があり、脇に森白仙終焉の地の旨が看板で示されています。
森白仙とは、文豪森鴎外のおじいさんです。
1860年に津和野藩主の参勤交代に典医として随伴した彼は、江戸で病を得て藩主とともには帰国できず、遅れて翌年10月にようやく小康を得て従者を伴い江戸を出立、11月6日に宿泊していたこちらで衝心発作をおこして急死してしまいます。
亡骸はこの先にある常明寺に土葬され、宿場には遺髪と僅かな遺品のみが残されました。

(旅籠 井筒屋跡)
さて、時は流れて孫の鴎外が祖父の墓参に土山宿を訪れたのが1900年3月2日のこと。
彼は草津線の三雲駅で下車し、人力車に乗ってやってきました。
その頃には井筒屋は廃業しており、30m先の右側にあった旅籠、平野屋(34.934748, 136.283633)に宿泊しました。
平野屋跡にはその旨が記されています。
当時彼は小倉12師団の軍医部長をしていて、住職に案内されて墓石に向き合ってみると、あまりの粗末さに心を痛めて新しく墓石を建て直すことにしたそうです。
その顛末は、森鴎外の「小倉日記」に詳しくでています。
(『独逸日記/小倉日記』 森鴎外全集13 ちくま文庫)
森鴎外ですか・・・。
後に出てくる北杜夫、加賀乙彦、なだいなだ、渡辺淳一など各先生方同様、お医者さんで小説家のはしりなお方です。
「エリスなりけむ」でお馴染みの『舞姫』を読んだきりですね。
しかし、彼はゲーテの「ファウスト」を翻訳していますし、夏目漱石の書評などかなりの書物を残しています。
ただ、あの時代の文体だからそのままだと読みづらいのなんのって。
こんなところで森鴎外に出会うとは、意外でした。
今回も長くなってしまいました。
次回は鴎外の宿泊した平野屋跡前から、土山宿を西へ向います。

(旅籠 平野屋跡)