頭が痛いです。
昨日は結婚式でした。
ビールを3リットルくらい。
カクテルを2リットルくらいのみました。
記憶ははっきりしています。
体がつかれてたのかな。
昔のようにたくさんのめなくなりました。
ひさしぶりに高校時代の友人たちと話をしました。
日本を代表するトップ企業につとめている人をみて、自信がもどりました。
高校時代はこの人たちと学力を競い合ってたんだなあと懐かしく思いました。
今の私は下流社会を一直線ですが!
怖い。
年収少ない、将来性ない、ムゥ ( ̄(エ) ̄”) ピクピク。
しかし自分自身、あの頃よりも成長してることがわかりました。
下流社会と呼ばれる昨今ですが、そもそもの構造的な問題よりも、人間的な質の下流化が深刻だということを確認することができました。
かつて学歴がない人でも、挨拶やものの分別がつく人は多いものでした。
どうしてこの人がヤンキーなんだろうみたいな。
あたまいいなあ。
きれるなあ。
仕事できるなあ。
などなど。
悪いやつはいくとこまで、いくときがある(先生ぶん殴ったり!)、でも好きでした。
ワルの連帯感と要領(頭)の良さ。
しかし最近は、若者のサル化が目に付くようになりました。
とても残念なことです。
田舎に住んでるものですから、久しぶりに高学歴の人と話すことができて楽しかった。
ワルの人と、高学歴の人の、最も違うところはどこだと思いますか?
いまいったように頭の良さや、思考の展開力や、回転そのものにはあまり差がありません。
しかし実は論理や思考の出発点が違うんですね。
「どうする」という能力は、同じなんですが、「どうしたい」という視点が違う。
だからビジョンと結果が違う。
そんなの当たり前だろうと思うものですが、実はこれがはっきりと意識されていない。
いわれるとわかるんだけど、基本的に無意識だから意味があるのです。
教育のつぼですね。
家庭においても学校においても同じです。
あんたは頭がいい、そして人を救うことができる人間だよ。
といえば、勉強をしなさいというよりも、子供のほうがかってに、
「頭がいい+人のためになる=政治家や医者」
じゃあ勉強しなきゃ!となる。
そして自分は頭がいい(らしい。一番信頼できる親がそういってるから。これもほとんどの場合は無意識。)
つまり俺ならできる、勉強しようとなる。
見てる視点を与える、あるいはかえると、自らの関係性がかわるのです。
この場合は、自己と勉強に対する関係性の変化ですね。
勉強しなさいと強要されるよりも、自らの自己のなかで、勉強に対する関係性の変化を起こすことにより勉強に取り組む。
所詮、勉強などただの手段にすぎないのです。
またお金がもうけられるみたいだから医者になろうというのと、どうしても命を救いたくて医者になったら結果的に、数千万の年収もついてきたともいうことができるのです。
さてどちらの人生のほうが幸せですかね?
ゆとり教育の欠陥や、教育者の質の低下はこの辺がポイントなのは間違いないでしょう。
ちなみにこのブログはオセロブログです!
この文章を読んで、意味わかんねーよ。
と思った人は、わかるまで読んでください。
3~5回くらい読んでみれば、きっと理解できるはずです。
もしかすると脳細胞のサル化が進んでいるかもしれませんよ。
我慢して取り組むことで、我慢力がつきます。
他者との関係性における不合理さなんかもわかると思います。(これは奥が深いですが。)
とにかく、とっても楽しかった。