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今日も、犬とベッドシェア

おじいちゃんのパピヨンさんと暮らす、ソロ活&おひとり様人生エンジョイ中な私の雑記帳
不定期更新&長い記事多めです

あの時から

 

私の人生は一変した

 

ただ 頭の中が真っ白になった

 

言われるがままに されるがままに

 

私はその流れに身を任せることしかできず

 

その時を待つしかなかった

 

知らない土地の小さな部屋で

 

ろうそくの光だけが揺らぐ夜

 

周りの人はみんな「運が良かった」と言うけれど

 

今まで感じたことのない恐怖に怯えた夜

 

自分は誰よりも惨めだと思った事もあった

 

自分の選択があっているのか?これで良かったのか?

 

その答えは未だに見つけられない

 

でも いつか

 

「これで良かった」と

 

心から思える日が来ることを

 

私は信じたい

社会人経験のある身体障害や精神疾患、知能に問題のない発達障害の人がオープンで会社勤めしようとすると結構デメリットが多すぎる…ということに実体験を通じて気づきました。

 

そこで、支援者の後押しもあり「じゃあ、個人事業主になるか」と思い立ち、創業支援施設に通ったり起業ゼミに参加して事業計画書の金銭絡み以外の項目はほぼ埋めることができたのです…4月からまた動きます、物件探しとか。

 

冒頭に書いた人たちは社会人経験があるがゆえにオープン就労ではそのスキルやポテンシャルを発揮することが難しく、かといってクローズ就労だと心身が持たないし、外見でわかる身体障害だとそもそも隠しようがない。

 

障害者雇用に特化した転職エージェントなどもあることはあるけど、現状として会社が欲しがるのは使い勝手の良い知的障害者なのは変わらず。

 

それに加えて行政機関やそれに近い組織も「障害者雇用の成功例」として知的障害者のケースばかりを取り上げる事が多いというのも現状とミスマッチを起こしていると言えます。

 

最近はニューロ・ダイバシティーと称して、本人の能力やスキルに合わせた業務を任せる会社も出てきてはいますが…それでもまだ、業務内容の細切りで切り出された「単調な単純作業やルーティンワークしかさせない(当然、待遇もそれなり)」というところの方が多いです。

 

また、特例子会社や障害者雇用に積極的な会社というものは大抵、特別支援学校と強く結託し利害関係が一致している上に知的障害者を雇うことで得られる助成や補助などが手厚く、トイレなどの設備を改修したり拡大鏡など業務を遂行する上で必要だったり、筆談ボードなどのコミュニケーション補助ツールやシステムの導入をしなくてもいいので余計な経費をかけずに済みます。

 

せいぜい、マニュアルなどを作る時にOfficeソフトといらすとや使うくらいですかね?

 

最近はクリエイティブ系のB型作業所が結構増えてきていますが、まずはああいうところからフリーランスとして独立していけるように支援していくという体制を整えるといいのかな?と思います。

 

現に、ジャンル問わずクリエイティブ系の仕事をしている人はフリーランスや個人で活動してる人は沢山います(Vtuberは事務所所属のケースが多いですが)、ということはそういう働き方と相性がいい仕事ってことですよね。

 

そもそも障害者枠ではこのような専門的な仕事の求人が出ることはかなり稀です…大体が一般事務か清掃とか単調なルーティンワークばっかりです。

 

事業者側は就職させるだけでなく、フリーランスも視野に入れ、独立後の支援として税金の申告やクライアントとのやり取り等をサポートする…という内容でもいいような気がします。

 

ネット上でこのような作業所が「税金の無駄遣い」と叩かれるのは通所卒業後の進路が全く見えていないからだと思うのでそのへんちゃんとハッキリさせた方がもう少しイメージ変わるんじゃないかな?と思います。

 

クリエイティブ系の作業所以外にも就業支援機関とか、就労移行支援でもそこそこ能力が高いとか、やる気がある人に対して就職だけでなく起業やフリーランスも視野に入れた働き方の支援をやってみるのもいいのでは?

 

実はこういう話を支援機関の人と話した事があるけど…そのときは「自分達も雇われの身だから知識やノウハウがない」と言っていたので、それならば各自治体の商工会議所や創業支援期間(東京都だったら東京創業ステーションとか)あたりと提携して支援活動を行っていけばいいのでは?と思います。

 

特に東京都は起業家を増やしたいと考えているそうなので(起業家が増えると雇用が増えるという理論)、能力高い系の障害者に訓練と称して簡単なパソコン操作や箱折りみたいな軽作業をさせて、レベルも待遇も低い会社に押し込むのは非常にもったいないと思うし、本人もやる気やモチベーションをへし折られ最悪離職に繋がりかねません(実は私が通っていたところにも就職ではなく資格取得に路線変更して、資格スクールに移籍した人がいました、そこそこ学歴もある人だったので障害者雇用だと自分の能力を活かせないと思ったのでしょう)。

 

障害者向けの起業支援を行っている団体も一部存在するそうですが、まだまだそういうのは少ないです…既存の支援制度や求人の内容が合わないと感じてる当事者もいるでしょう(私も含めて)。

 

そういう人たちにニーズに応えることも可能になると思うんだけどな。

 

そして、そういう人たちが将来的に「従業員を雇いたい」と思った時に自身の経験を活かしてソーシャルファームとして同じような人の雇用につながって行くような気がする…。

結局のところ「配慮と我慢の強要」に行き着いてしまってる気がする。

 

 

これの続き、前の記事で「インクルーシブって結局、誰も得しないんじゃないの?」と書いたけど…実際にAIに聞いてみたところ

 

Q「インクルーシブの問題点を教えてください」

 

インクルーシブ(含む)的な考え方は、多様性を尊重し、誰もが社会の立場として平等に扱われることを目指していますが、いくつかの点もあります。

1.個別のニーズへの対応の難しさ

  • すべての人にとって快適な環境を整えるのは正義、個人のニーズが対立することもある。

  • 例:「バリアフリー化を乗り越える、建築デザインの自由度が制限される」「音に敏感な人のために騒音を減らすと、コメディ的な雰囲気を求める人には不満が出る」など。

2.コストリソースと問題

  • インクルーシブな環境を整えるためには、設備投資や人のリソースが必要です。

  • 特に中小企業や小規模な団体では、予算や人の手の関係で十分な対応が難しい。

3. 「誰にとっても良い」は「誰にとっても中途半端」になる

  • すべての人を平等に扱おうとすると、特定の層に最適化されたサービスや空間が作りにくくなる。

  • 例:「発達障害のある人にとって理想的な静かな空間」と「活気のある雰囲気を求める人が楽しめる空間」は、両立が難しい。

4. 「名ばかりインクルーシブ」のリスク

  • 表面的にはインクルーシブを急いでも、現状が伴わないことがある(例:障害者雇用枠があるが、実際には簡単な仕事しか与えられない)。

  • 本来の目的が「多様性の尊重」から「ポリコレ対策」や「戦略」に質を変える場合も。

5.マジョリティの不満と回復

  • インクルーシブを重視するあまり、マジョリティ側が「自分たちが不利になっているのでは」と感じることがある。

  • 例:「男女平等を推進するあまり、男性の立場が軽視されていると感じる人が出る」「障害者目線の結果、健常者が不便を感じるケース」など。

6. 「多様性=対話の難しさ」

  • 価値観や背景が異なる人間が共存するため、意見の対立が生じやすい。

  • 一部の人は「自分の意見が抑圧されている」と感じ、対話が成立しにくいこともあります。

7.文化や宗教との衝突

  • インクルーシブな考え方が、特定や文化的宗教的価値観と相反することがある。

  • 例:「ジェンダー平等を強調するような場合、伝統的な価値観を持つ人々が反発する」「宗教的理由で特定の行動を好む人と、今までない人間の間で摩擦が生じる」など。

項目3がまさに私が書いた通り…「万人受け」というのはどのような分野においてもほぼ無理と言われているのは皆さんご存知のことと思います。

 

日本の場合7の理由での対立はあまりなさそうに感じられますが、他の項目は当てはまるところ多いですよね。

 

それと、日本のインクルーシブって「ごちゃ混ぜの環境で共に育ち合う」を良しとする風潮が強いですが(特に教育現場…)、本来は「それぞれに合った最適な環境を選択することが出来る」のがインクルーシブなんだとか?

 

ここアメブロでも支援級or支援学校相当と言われたにも関わらず、無理やり通常級や支援級にねじ込んで周囲に迷惑をかけまくっていたり、やたら「地域」にこだわってる障害児者親が有名無名問わず存在したり、こういう人たちには刺さりそうな「ごちゃ混ぜを良しとする学校」の映画なんてのも上映されていたけど…私は未見、観たいとは思わない。

 

ここで海外の事例をいくつか上げてもらったので貼ります。

 

海外のインクルーシブ教育は、日本のように「ただ同じ教室で学ばせる」ことが目的化しているのではなく、個別最適化を前提とした柔軟なシステムになっている場合が多いです。

海外のインクルーシブ教育の特徴

  1. 「同じ空間にいる」ことが目的ではなく、それぞれに合った学び方を提供する

  2. 専門職や支援員が充実しており、教師一人に負担をかけない

  3. ICT(タブレット学習など)を活用し、個別学習を促進する

  4. 通常学級と特別支援クラスの「ハイブリッド型」が多い

  5. 保護者と地域と連携し、学校外での支援も充実


国別の取り組み

🇺🇸アメリカ:「個別教育計画(IEP)」の徹底

  • アメリカでは、障害のある子どもには「IEP(Individualized Education Program:個別教育計画)」が作成されるのが基本です

  • 専門チーム(教師・特別支援コーディネーター・心理士・親族など)が集まり、とりあえずの教育計画を作成し、学習の進め方や支援内容を決定します。

  • 「フルインクルージョン」ではなく、子どもに応じて学習環境を選択

    • 通常授業があるが、支援員(パラエデュケーター)がサポート

    • 授業によっては特別支援クラス(リソースルーム)で学ぶ

    • 完全に特別支援学校に通っている子もいる

ポイント:選択肢が豊富で、「みんな一緒」ではなく「それぞれに合った教育」が前提


🇬🇧イギリス:「SEND(特別教育ニーズ・障害)」への手厚いサポート

  • イギリスでは、SEND(Special Educational Needs and Disabilities:特別教育ニーズ・障害)に該当する子どもには、個別支援計画(EHCプラン)が作られる

  • 通常学級に遭遇しながら、サポートスタッフ(SENCO)がサポートします

  • 個別指導が必要な場合は、特別支援学校や小グループ授業を利用

  • 教師の負担を軽減するため、専門の支援員(ティーチング・アシスタント)が多数配置

ポイント:「ただ通常学級に入れる」のではなく、支援の質を重視


🇸🇪 スウェーデン:「インクルーシブ」=「選択肢の多さ」

  • 学校のシステムが柔軟で、子どもに合わせた学び方を選ぶ

    • 通常学級+特別支援の組み合わせ

    • 学校外の施設(「リソーススクール」)が利用可能

  • 「生徒の自主性」を尊重し、自分に合った方法で学ぶ権利を保障

  • 特別支援の専門家が学校に常駐していることが多い

ポイント:「自分に合った方法で学ぶ」ことが前提


海外のインクルーシブ教育の共通点

  1. インクルーシブ=「ごちゃ混ぜ」ではない
    →必要に応じて通常学級+個別指導+特別支援クラスを自慢

  2. 教師一人に負担をかけず、支援スタッフが充実している
    →日本らしく「担当がすべて対応」ではなく、支援員や専門職がサポート

  3. 「個別教育計画(IEP)」が当たり前
    →一律のカリキュラムではなく、子どもごとに支援内容を決める

  4. 「ICT活用」「フレキシブルな授業」が一般的
    →タブレット学習・オンライン教材を活用し、個別学習を推進

海外の場合、ごちゃ混ぜではなくどちらかというと「適度な住み分け」が出来ていて生徒や保護者側も「自分に合った選択をする」という意味合いが強いんですよね…支援クラスに行くことは排除でも差別でもない。

 

簡潔に表現すると「適材適所」と「餅は餅屋」の両輪で運営されている。

 

決して日本のように「共に学ぶ、育ち合う」みたいな精神論的なフワッとした概念じゃない。

 

これは私の個人的な意見ですが、インクルーシブにモヤる人がモヤッと感じる理由ってこんな理由じゃないですか?

 

Q「ニュースなどで『クラスの中にねじ込まれた障害児1人のためだけに、みんなで話し合って既存のスポーツのルール変更しました』的な話題が美談として紹介されていることが多いですが、私は違和感しかありません」

 

なぜ違和感を感じるのか?

  1. 「インクルーシブ=全員が耐えること」という前提になっている

    • 例、体育の授業で「クラスの皆がルールを変えて、その子も一緒にできるようにしました!」という話。

    • これって、「みんなで話し合って協力すること」自体は素晴らしいけど、
      ・その子に合った選択肢を最初から用意できていれば、そもそもルール変更の必要はないのでは

  2. 「みんなが助けて当然」という雰囲気が、健常児側に負担をかけている

    • クラス全員に「助けることが正義」と押しつけられているような空気になりがち。

    • 実は、支援が必要な人には**「正しいサポート体制を整える」ことが先**にもかかわらず、周囲の子どもたちそれを肩代わりしている構造になっている。

  3. 障害児本人にとっても「されている感」が強くなる可能性

    • 例えば、スポーツのルールを変えてもらったことで、「自分だけ特別扱いされている」と感じてしまう場合もある。

    • 「みんなが自分のために耐えている」と思われるかもしれない、それがプレッシャーになることもある。

    • あの子が楽しく参加できるのか?という視点が抜け落ちがち。

  4. 「ルールを変えればみんな幸せ」みたいな単純な話ではない

    • ちなみに「できないこと」を「無理にできるようにする」ことが本当にその子のためになっているのか?

    • 例えば、視覚障害のある子に「みんなで目を閉じて鬼ごっこしよう!」みたいなルール変更をするより、**「視覚障害がある人向けのスポーツを一緒に体験してみる」**みたいなアプローチの方が、全員にとって学びがあるし、負担感が少ないはず。

私のモヤッたポイントをかなり詳細に言語化してくれました…ごちゃ混ぜインクルーシブは個の尊重どころか一周回って同調圧力になってしまっているように感じる。

 

4の理由はまさにその通りって思う…1人の出来ない人の為に合わせるより、パラスポーツの競技をやる方が全員の満足度は上がるはず(この例えの場合はゴールボールか?)、一見簡単そうに見えても特定の感覚を研ぎ澄まして集中力を要求されたり細かい戦略を練らないといけないような奥の深い競技も結構あるし。

 

話し合ってルールを変えるよりも実際にパラスポーツに触れる方が理解が深まりそうな気がします。

 

マジョリティだろうがマイノリティだろうが「どちらかが我慢を強いられる」とか「どちらかだけが権利を主張する」というのはインクルーシブではないんです…ただの「配慮と我慢の強要」です。

 

最後にAIが出した結論

 

結論:「全員で負担を背負う」ではなく、「支援の仕組みを整える」べき

  • 「美談にする前に、まずは支援体制をなんとかしようよ」と思って当然だった。

  • 本当の意味でのインクルーシブなら、全員に負担がかからず、自然に共生できる仕組みが必要です。

  • 「みんなが我慢すること」ではなく、「誰もが無理なく関われること」を目指すべき。

 

ということでした。

 

皆さんはこのやり取りについてどう感じましたか?

 

この記事に対して意見を言いたい、文句があるという方は是非ともリブログして頂いて構いません。

 

今回使用したAIはチャットGPTのみです。