今日も、犬とベッドシェア -131ページ目

今日も、犬とベッドシェア

おじいちゃんのパピヨンさんと暮らす、ソロ活&おひとり様人生エンジョイ中な私の雑記帳
不定期更新&長い記事多めです

過去記事において「私は重度のロマンス依存」であるという事を書いた事がある。


今日も毎週恒例の月曜通院に行ってきた、今日の記録は記事にしようか迷っていたけどこれも記録として残しておかなければいけないと思った。


いつもの白衣クマだけでなく、これ も持って行った…最近また、〇〇先生の事を思い出してしまう事が多かった。


やはりどこかに心残りがあるのだろうか?実はこの話については聞かれても否認したり、はぐらかしていたけど、本当の事を話さないといけないような気がしたのだ。


今日は○○先生の話をしてきた、当時の私は彼に対して恋愛感情を持っていたことを全て話してきた。


今でも関係が続いていたら、おそらく私は今でもシングルだったと思う。


でも、今のパートナーと違って○○先生は私の苦手な事を手伝ってくれないし、それ以前にものすごい近くにいる人なのに「手の届かない相手」という状況は私にとって本当に幸せな事なのだろうか?


私は昔から「自分の知らない世界に住んでいる人」との恋愛や結婚を望んでいたのだ、日常の延長線上の出会いではなく、ドラマのような非日常の出会いをしたかった…という願望が強かった、それに加えて、常にこころのどこかで「ありのままの自分」を受け入れてくれる人を求めていた。


彼はまさに私の求めていたものと合致していた…非日常の出会い方、ありのままの自分を受け入れてくれたこと、私が一番辛かった時も常にそばにいてくれた唯一の人でもあった。


いつしか私は「特別な感情」を持つようになったし、それを自覚していた。


そして、非常に強い葛藤が自分の中で起こっていた事も自覚していた。


自分が想う相手は、そういう関係になる事が「タブー」とされている相手だという事は理解していた。


私は自分の気持ちにどう対処していいのかわからなかった…この気持ちを相手にぶつけたところで私の望むような結果にはならない事はわかりきっていたし(わずかな可能性にかけていたけど)、もしかしたら「私が恐れていたあの人」に筒抜けになってしまうのでは?という疑問もあった。


それと同時に、自分はなんだか「とても悪い事」をしているような気分になってしまった…それがきっかけで私は自分から相手に対して好意を抱くことはほとんどなくなった…その反面、自分に対して好意を持ってくれる人には相手をするようになっていた。


私は、いわゆる「普通の人」には好意が持てないのだ…手の届かない相手だったり、好意を抱いてはいけない相手だったり、そもそも「普通の恋愛」というもの自体に興味が持てなくなっていたのだ。


それでも私は〇〇先生のような人が理想だったし、そのような人を求め続けていたけどどこかで「そんな人はいないのだ」という諦めもあった。


それでも「ありのままの自分」を受け入れてくれる人はどこかにいると信じていた、どこかに「自分のこころを埋めてくれる人」という存在を探していた。


実のところ、今のパートナーと一緒に暮らし始めてから数年は自分の思い描いていた理想と現実のギャップが大きすぎてうつ状態になってしまったり、自分の特性を受け入れてもらえずにたびたび衝突していた。


数日~1ヶ月程度におよぶ別居も何度もしているし、一時は本気で離婚することも考えていた時期もあった。


でも、一緒に病院に来てもらったり今年の3月に自分の状態について正しい診断が付いた事で、私の特性について彼は彼なりに理解して受け入れようとしてくれていると感じるようになったのはつい最近の事…最近は私の特性に配慮してくれることが多くなり、つい低くなりがちな自己評価に対しても「それも私の個性だと思うよ」と言ってくれるようになった。


私も私で、パートナーの病気に対して自分も似たような経験をしていることもあり、どう接したらいいのかはある程度心得ているつもりだと思う。


つまり、私たちの今の関係は「持ちつ持たれつの関係」という事になる。


前にとあるイベントで他の参加者から「Tomokoさんの話を聞いてるとパートナーと常に対等でとても良好な関係を築けている雰囲気が伝わってくる」と言われた事がある。


自分ではそういう自覚は全くないのだけれど、傍から見るとそういう風に感じるそうだ。


話を戻して、パートナーは〇〇先生の事を知ってるの?と聞かれたので、昔一番辛い時に支えになってくれた人であるとは話していると言った。


「ヤキモチ焼かない?」って言われたけど、相手は色んな意味で大人だし…昔の話だからと言っておきました。


○○先生との別れが無かったら、パートナーとの出会いも今の生活はなかったのは確かだと思います。



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先日書いたこの記事の続き …私はこのAC自助とはことごとく相性が悪かったようだ。


ミーティングの内容にも不満があったが、それ以上に違和感を感じて仕方なかったのは自分の名前を名乗るときにいちいち「ACの○○です」と言うのは変だなぁ…と思っていました。


当事者の集まりなのに、わざわざそういう風にアピールすることが不思議でならなかった。


例えばアメーバのプロフィールなどを書くときに


「私の名前はT・Tomokoです、全般性不安障害と発達障害があります」


と書くことはよくあるけど


「全般性不安障害と発達障害のあるT・Tomokoです」


って普通は書かないでしょう?


日本語と言うのはとても不思議な言葉で書き方ひとつでこんなにも意味が変わってしまうことがある。


この2つの言葉は一見同じような表現に見えて、全く違う意味で捉えられてしまう可能性が非常に高いのだ。


この間、病院の先生に言われた事でとても印象に残っている言葉がある。


「障害や病気があっても、TomokoさんがTomokoさんである事には変わりない」


言われてみれば確かにそうだ…私が抱えている問題や特性はあくまでも「自分を構成する一要素」に過ぎず、それが全てではないと自分でも考えられるようになってきた。


思えばこのブログのタイトルを変更したのも「自分を構成できるのは”自分”しかいないのだ」という事に気が付いたから。


グループ参加時代の話に戻すと、自己紹介で「ACの~」と言うのが非常に苦痛だった。


私は確かにACの要素があるかもしれない、でもそれを自覚したからミーティングに来ているわけであって、私はACであることにアイデンティティを求めてはいないのだ。


そこに参加する人たち全員が「ACである自分」にアイデンティティを求めているとは思わないけど、毎回のように「ACの~」なんて名乗っていたら、自分である前に「ACの自分」という自分で”外から目線”で自分の事を見てしまっている状態になってしまうし、下手すると「ACである自分」という状態にしがみついていかないと生きていけない状態になってしまう可能性だってないとは言い切れないのだ。


そのせいか?私はあの人たちの「素の部分」を垣間見る事ができなかった。


他の人達を見るたびにあの人は「ACの○○さん」という風にしか見ることが出来なくなっていた、これは非常に残念なことかもしれない…だって、その人を一面的にしか見ることが出来ていない状態なのだ。


その人の人となりを知らなければ親しくしようと思っても出来ないし、仮に上手く付き合えたとしてもいい関係を築くことは出来ないと思う。


そもそも、私はあくまでも「(この場では)T・Tomoko」であって、それ以外の何者でもないのだ。


ACの要素を持っているとか発達障害があるというのはあくまでも「私を構成する要素」であって、それを土台にしてしまうのは実は意外と危ない事だという事に気が付いたのはつい最近のことだ。


私は約半年の間、ACの自助グループに参加していたけど、幸いなことに「ACである自分」にアイデンティティを見出すことはなかったのは救いかもしれない。


あのグループに長く参加している人達の大半が「ACである自分」という不健全なアイデンティティを見出してしまい、それにしがみついている。


そして本来の目的であるはずの「回復」ではなく、ミーティングへの「依存」を引き起こしてしまい、そこから引きずり出してくれる人がいないが為に下手すると人生そのものをミーティングに捧げてしまうのだ。


ACからの回復ではなく…「ACである自分」という事に確固たるアイデンティティを確立してしまった状態である。



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私の生きる道、生きてきた道。

私の生きる道、生きてきた道。

先代の副院長が怖いという事はこのブログで何度も書いてきたけど、今でも続く恐怖感のきっかけはやはり「椅子を買って 」の一言が発端だという事がはっきりした。


何かを話すと彼女に筒抜けになるという思い込みと、私の持つ合わせている豊富すぎる想像力がまともに会話すら交わした事すらない彼女に対して「変なイメージ」を膨らませ過ぎてしまったのが原因だったようだ。


病院を実質仕切っていたという立場と、昔の本で読んだかなり昔の精神科病院の内情が彼女の風貌と妙にリンクしてしまい…今でも続く恐怖心となっているようだ。


実は今週は比較的気分が安定していて、こういう時に限って何故か彼女の事を思い出してしまうのだ…今日はこのような事を話してきたけど、それはそういう事を考えられるだけ気持ちに余裕が出ていることだと思うと言われた。


そして「Tomokoさんは現実とフィクションの区別があいまいで混同しやすい」と言われてしまった。


先代の副院長は確かに病院を仕切っていたけど、身体拘束はもちろん薬を処方するなどの医療行為は一切できないと言っていた…副院長という肩書は付いていたけど医者ではないのだ。


想像力が豊かすぎるので詳しい人物像がわからない人に対して変なイメージを作りやすい傾向があるとの事、これを解決するには「実際に本人と話をしてみる事」なんだけど、それはもう不可能。


病院でお話しするのはなんとなく恐いから「お茶でもしたかった」と言ったら、それは出来ない決まりだからダメと言われてしまった…会える時間とか制約が多すぎるな。


先代の主治医やおばぁちゃんに対して恐怖感を全く感じないのは定期的に会って話をしていた事や本人たちも自分の事(おばぁちゃんの抗うつ剤服用経験など)を話してくれるからだと思う、先代の副院長は職業柄自分の事はほとんど話さないそうだ。


話は変わって過集中と集中困難・注意力散漫について…私の場合「2つでひとつ」となっているようで、これを切り離して考えたり対処するのは難しいと言われてしまいました。


自分の好きな事や興味のある事にたいして寝食やトイレに行くことを忘れたり、時々日常生活に支障を来しているのは事実だけど…ひとつの事にのめり込めるというのは、他の人に同じような事をしろと言っても真似できないこと。


世の中にはそれが出来ない人の方が多いだけで、Tomokoさんのような人の比率が多くなればそれは「おかしい事」ではなくなるし、Tomokoさんは他の人と「頭の使い方がちょっと違う」けれど、それはTomokoさんの特性であり個性なのだからもっと大事にするべきだと言われました。



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私の生きる道、生きてきた道。

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