パートナーさんの死をきっかけに自分で主催していた発達障害の自助会を閉会して以来、他の人が主催する会にもほとんど顔を出すこともなくなり(1度だけお邪魔した事がありましたが…)、いわゆる発達界隈というコミュニティから足を洗い…じゃなくて、距離を取ったことで少しずつ自分自身の価値観や考え方が変化したのは確かです。
具体的に何が変わったのか?というと、まずは「発達障害」という枠組みに囚われることがなくなってきたような気がします…まぁ、私自身が注意欠陥と言われたけど程度の軽重で言えばかなり軽い方に分類されるということもあるかもしれない。
そもそも、界隈に身を置いていたころも「発達/定型」と分断を促すような界隈内の強い同調圧力に関しては当初から常に疑問に感じていた…その後、常に自分たちは弱者で保護される存在であるべきという考え方にも辟易するようになった。
また、とても狭い世界であるということも嫌だった。
ルールやモラルのない世界で自分ではオフレコで発言したつもりでも、どこで誰が言いふらすかもわからない状況が本当に安心して集える場なのか?という疑問もあった。
もっと嫌だったのは「発達障害に特化した(自称)就労支援施設」では「発達障害者はこういうもの」とか「障害者はかくあるべし」のような、偏見というか単なる知識不足というか、マウント取りたいだけの押し付けがましさ、枠にはめようとするやり方にも嫌気がさして就労支援自体が非常に胡散臭いものという印象を植え付けられたと感じた…ということは、自分の場合はあまり「発達障害」という言葉にこだわらないほうが楽なのかもしれないと思える様になってきた。
そして、もう必要な時以外は自分から言わないと決め手になったのは…最近のメディアが”発達障害”として「(知能には問題ないアスペ圏やADHDだけじゃなさそうな)明らかに変な子」ばっかり取り上げるもんだから、正直なところ私の場合子供の頃はあんな変な子じゃなかったと記憶していることと、ああいう放送を繰り返されることで
「発達障害は変な人ばっかり」
という認識が植え付けられ、余計誤解や偏見が増長されていると感じるし、障害者雇用の現場でも知的障害者と同列にみなされてそのような扱いを実際に受けていたのは未だに許せない事のひとつです。
正直なところ、聞かれてもないのに自分から障害アピールをするメリットが全く無いんですよ。
生活面において苦手なこととかは自分で対処や工夫ができますし、わざわざアピールしたり「理解してください、わかってください」とばかり主張し続けるのって…はっきり言ってウザいというか、そういう人がそばにいるとイライラしたりする。
過去記事でヘルプマークに関する記事を2本くらい書いたけど、このマークに関する今の私の認識は「妊婦マークの亜種」的な存在に成り下がった。
いや、振りかざせる期間が限られていない分余計質が悪いかも?
最近はこれをつけてる人たちも「電車で席を譲ってくれない」とか「配慮してくれない」とか騒いでるのもいる…叩かれたくないから誰も言わないんだと思うけど、もう立派な障がい者様だ。
障がい者様までいかなくても「障害者」ということがアイデンティティになってる人がどうも苦手…これは発達障害に限らず、精神障害の人も好きか嫌いかで聞かれたら嫌い。
なぜ、嫌いか?病気云々抜きにして性格や人間性に問題のありすぎるのがあまりにも多すぎる。
異様なまでに被害者意識が強かったり、極端にネガティブだったり、必要以上に自身を卑下していたり…などなど。
社会参加していたり、社会復帰を目指して頑張ってる人たちはそうでもないんだけど、ナマポ受給者とか公営住宅住んでるような層だともう悪影響しかないので私はこの辺は「いないもの」として扱っている。
発達界隈でも同じことが言える…今も当事者活動に尽力している方々は同じようなタイプしか残っていない。
病気や障害をアイデンティティにして生きることって何のメリットも無いんだけど、こういう人たちはこれくらいしか誇れる物が無いんだろうな…ある意味可哀想な人達なのかもしれない。
私の認識では発達界隈というのは「リアルで当事者会をやってる人たち」というイメージがあったけど、最近ではX(旧Twitter)で発達障害を前面に押し出しているアカウント郡の事を指す意味もあるそうで。