二 第一審被告
第一審原告が、(複合)化学物質過敏症に罹患しているとの主張は争う。
そもそも、化学物質過敏症なるものは、一部の研究者によって提唱されている仮説に過ぎず、診断基準も確立されていないものであって、医学界で確立された定説にはなっていない。
第一審原告の資本系列としての親会社がアメリカに本社をおいていることは認めるが、両法人は別の法人であるから、第一審被告において化学物質過敏症の予見可能性があったとの主張は争う。
当時は、日本ではもとより、アメリカでも(複合)化学物質過敏症についての考え方は一般的には認知されていなかった。化学物質過敏症が日本の学会誌に紹介されたのは、三、四年前が始めてであり、第一審原告がカビキラーを使用したとする昭和五八年当時は、日本では一般に化学物質過敏症という病気は知られていなかった。
したがって、仮に(複合)化学物質過敏症なる病気があるとしても、第一審被告に予見可能性はなかった。
第三 証拠の関係は本件記録中の証拠目録(原審及び当審)に記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
一第一審原告のカビキラーの使用状況と第一審原告に生じた症状及び第一審原告に対する診断、治療の経過について
右の点についての当裁判所の判断は、次に付加するほかは、原判決が説示するところ(原判決書一一枚目裏八行目から一六枚目表七行目まで)と同じであるから、これを引用する。
1 原判決書一二枚目表二行目の「原告は、」から四行目の「使用直後に」までを「カビキラーを使用すると、目がちかちかしたり、咳き込んだり、喉の痛みを覚えたりしたが、そのまま使い続けていたところ、同年九月頃から」に、七行目の「すると、使用した直後から」を「その頃から」に、それぞれ改める。
2 原判決書一二枚目裏一行目の「一二月九日にはカビキラーの使用後、」を「一二月九日夜、ガス湯沸かし器を使って台所で片付けをしているときに(第一審原告の供述によると、当日は、第一審原告自身はカビキラーを使ってはいないといい、一審原告の夫が昼に使ったかもしれないが、はっきりしないという。)」に改める。
二第一審原告の症状とカビキラーとの因果関係
1 慢性気管支炎又は急性気管支炎について
第一審原告は、第一審原告の前記症状はカビキラーの使用による慢性気管支炎又は急性気管支炎であると主張するところ、菅医師の意見書(甲第五号証)によれば、同医師は、次亜塩素酸ナトリウムから発生した塩素ガスによる症状と第一審原告の症状が似ていること、第一審原告の症状の発症がカビキラーの使用開始と軌を一にしていること、他にこれといった原因が考えられないことなどから、第一審原告の症状をカビキラーによる慢性気管支炎であるとしている。
また、次亜塩素酸ナトリウムは酸例えば強酸性のトイレ用洗浄剤などと反応して塩素ガスを発生させ、これを吸入すると気道粘膜の刺激、しわがれ声、咽頭部の灼熱感、疼痛、激しい咳などを生ずる(甲第一、三、七号証、第一三号証の一ないし六、第三二、三三、四六ないし五〇号証、原審証人内藤の証言)。そして、カビキラーは、次亜塩素酸ナトリウムの漂白作用によってカビの色素を漂白するもので、次亜塩素酸ナトリウムの分解を防止するため、薬液に一%の水酸化ナトリウムを配合しているが(乙第一、二号証)、カビキラーに含まれている次亜塩素酸ナトリウムは、PH7.0以下になると急激に分解が進み、塩素ガスが発生するところ、人の気道粘膜はPH7.0前後であるから、気道粘膜に付着した次亜塩素酸ナトリウムはPHが低下して一部塩素ガスとなって吸入され、この塩素ガスが人の気道粘膜を損傷するとの甲第三四、四六号証及び原審証人内藤の証言がある。
しかし、前記のとおり第一審原告が入院した病院ではいずれも慢性気管支炎との診断はなく(化研病院の外来診療録である乙第七号証の一乃至一四、八号証の一ないし二五の冒頭の傷病名欄に「慢性気管支炎」とか「アレルギー性気管支炎の疑」という記載があるが、これは診断結果を示すものでないことは全体をみれば明らかである。
なお、このときは、第一審原告は主として体を動かしたときの息苦しさを訴えていたことが窺える。)、また、一般に慢性気管支炎に罹患している場合には、人の気道内に相当の器質的変化が生じているはずである(内藤証言)のに、東京医科歯科大学の検査では、第一審原告の気管支には炎症、粘膜損傷といった呼吸困難などを引き起こす器質的変化は認められなかったというのである。
第一審原告が東京医科歯科大学病院に入院して各種の検査を受けることになったいきさつからいって、同大学の横田医師は第一審原告の症状とカビキラーとの関係を念頭に置いて特に気管支炎等を疑って検査、診断に当たったことは間違いないと考えられるのに、二九日間にも及ぶ各種検査にもかかわらず第一審原告の病名を特定することができなかったこと、乙第三、四号証の東京医科歯科大学病院退院時の所見の記載によると、まず第一審原告の気管支には器質的変化が認められないことが記載され、続けて%最大換気量が51.6%であること、及び横隔膜の運動を制限する姿勢で呼吸困難が起こることを挙げて、肥満や更年期障害の影響が考えられるとしているのであって、この文脈からすると、気管支炎を明示的に否定してはいないものの、気管支炎との診断にはむしろ消極的な意見であったことがみてとれることも、本件における認定に当たって無視できないところである。
第一審原告は、思うような検査をしてくれなかったというが、右第乙三、四号証によると、同病院では第一審原告が訴えている症状から考えられる病気をいくつか想定して各種検査を実施していることが認められるのであって、第一審原告のいうような事情を窺わせる証拠は見当たらない。
第一審原告の非難は当たらない。以上の事実に照らしてみると、第一審原告が慢性気管支炎ないしは気管支の慢性的な疾病に罹患していたと認めることはできないものというほかない。
なお、第一審原告は、第一審原告の気管支の損傷は亜区域支から先の部分に生じていると主張し、内藤証言及び甲第三五号証中には右主張にそう部分がある。
しかし、これら、ことに甲第三五号証は、いずれも塩素ガスによって生体に損傷を生じた場合に関するものであるところ、カビキラーは、次亜塩素酸ナトリウムを含んでいるが、その分解を防止するため水酸化ナトリウムを配合してあり(乙第一、二号証)、塩素ガスが発生するようになるのは、酸性洗剤を併用するなどして、酸性が強くなった場合であるとされており(甲第三五号証)、第一審原告はカビキラーと酸性の洗浄剤を併用したことはないと述べている(第一審原告本人尋問の結果)こと、そうだとすると、第一審原告の場合、吸入されたカビキラーのミストが塩素を発生させたこと以外には考えられないことになるが、後の3で触れるように、モルモットによる実験でも一過性の症状に止まっていること、及び前記東京医科歯科大学病院の所見は、他の検査結果を併せた診断結果として、肥満及び更年期障害も疑われることを挙げて、病名を特定することができないとしたものであることに照らすと、右各証拠をもって東京医科歯科大学病院の所見を否定し、第一審原告の慢性気管支炎を認定するには無理がある。第一審原告の主張は採用することができない。
次に、横田医師作成の甲第四号証の三には、第一審原告の傷病名として急性気管支炎と記載されている。
しかし、同証は、第一審原告が保険会社から保険金の交付を受けるために作成された書類に過ぎないし、急性気管支炎の原因は不明と記載されているうえ、前記認定の第一審原告の診断、治療の経緯及び後の3に判示するとおりの事実を併せ考えると、同証をもって第一審原告の症状が(カビキラーによる)急性気管支炎と認定することはできず、前記認定の第一審原告の診断治療の経緯に照らして、第一審原告の症状が急性気管支炎であると認めることも困難である。