9.3.2.「確率」や「不確実性」をどう伝えるかシックハウス症候群をはじめとする室内空気質汚染の健康影響については、多くの疫学的研究が進められ、本マニュアルでも紹介されているように現在でも新たな知見の報告が続いています。
多くの一般市民にとって、確率自体が理解の難しい概念です。
疫学研究の成果に基づくリスク評価はその確率的な側面が数値で表現されるだけではなく、そこに不確実性が含まれる場合も少なくありません。このようなリスク評価に関する情報を伝える際に、留意すべき点について考えます。
確率を伝える際に、もっとも正確に表現できるのは数値ですが、一般市民にとっては、必ずしもわかりやすいものとは限りません。
その数値がどのようなデータに基づいて算出されたものなのか、その数値の高さは何を意味しているのか、など数値の解釈を丁寧に伝える必要があります。
現在、日常生活において馴染みのある確率表現としては、天気予報の降水確率があります。田中・吉井 28)によると、降水確率を参考にしている人の割合は、調査対象者 465 名のうち、「毎日のようにみる」が 7 割、「ときどきみる」が 2 割を超え、全く見ない人は 3%に過ぎませんでした。傘を持って出かける人の割合は、降水確率が 30%で 2 割、40%で5 割、50%になると 7 割に達するということです。
このように、確率の情報が日常的な行動決定に生かされる例があることを考えると、数値の意味を理解し、個々人の行動決定の基準として利用される状況は実現可能であるといえます。
降水確率の例からも明らかなように、確率が行動決定の基準となっている場合でも、その基準には個人差がありますので、個人のリスク対策へのニーズや価値観をふまえたリスク情報の提供が重要となります。
また、確率表現の仕方によって、一般市民のリスク認知は影響を受けることもよく知られています。
たとえば、喫煙による肺がんのリスクを「1 日に 20 本以上タバコを吸う人の死亡率は非喫煙者に比べて約 5.5 倍大きい」と表現すると、非常に危険を感じる人は 41%に上りますが、同じことを「喫煙によって平均寿命は約 1 年あまり縮まる」と表現したときには、同じ値が 16%に減少したという調査結果があります3)。
このように、表現方法によって主観的なリスクの大きさが変わる場合もあることから、あるリスクについて伝える際、同じ事実を複数の表現方法で伝えるなどの工夫が必要です。同様のことはフレーミング効果への対処においても有効です。
わかりやすさのために、数値ではなく言語表現を使う場合も、言語表現の仕方によって伝わり方が違うことが報告されています11)。
薬品の副作用の頻度を伝える表現として、たとえば、「ときに発疹が現れます」と「まれに発疹が現れます」では、その頻度の推測値に2 倍以上の違いが生じます(「ときに」<「まれに」)。
数値と言語表現を併用することも有効な工夫の一つですが、その際にもこのような幅のある解釈や曖昧さが生じることを知っておく必要があります。
さらに、リスク評価に「不確実性」が残る状況では、リスクの大きさを明確な数値で表現するこ と自体が難しい場合もあります。
そのような場合は、望ましくない事態として何が起き得るかを伝 え、次に述べるように、そのような事態を避けたい人は具体的な回避策がとれるよう助言すること も有効であるといえます。
9.3.3. 自分でリスク対策ができることの重要性
リスク評価に不確実性がともなう状況であっても、望ましくない事態を避けるための行動は予めとりたいと考える場合があります。
このようなアプローチは「予防原則(precautionary principle)」と呼ばれ、何か問題がありそうなら、リスクが正確には評価されていなくても、予防的な対策をとる方針のことを意味します。
現在では、欧州圏やカナダのように、このような原則に基づきリスク対策を進める国や機関も多くあります。
個人のレベルでも、リスクに対して不安を感じている人やそのリスクに反応やすい人はリスクが明確ではない状況でも、予防的な対策を選択できると不安の低減につながると考えられます。
予防的な対策が具体的に明示され、必要に応じて自分で実行できると認識されることが重要です。保健行動のモデルである「防衛動機理論(protection motivation theory)」29)においても、個人が対処行動をとることができると知覚する程度である「自己効力感(self-efficacy)」が高まることで、保健行動の実行率は高まることが示されています。
不確実性を含むリスク評価にとどまる段階では、「リスクが明らかになるまで待つ」のではなく、予防的な対策を求める人に対し、具体的な回避策を明示できることが望ましいといえます。
一方、個人レベルの健康リスクに対しては、楽観主義バイアスが働きやすいことも知られています。
インタビュー調査の結果においても、自ら症状を経験したことのない対象者の多くは、あまり自分の問題として考えていない傾向が見られました。客観的に、明らかに個人がリスクを過小評価していると判断できる場合は、「防衛動機理論」に基づく恐怖喚起と自己効力感に働きかけることで、適切なリスク対策を促すことも必要です。