・9.2. 室内空気質汚染のリスク認知
9.2.1. リスク認知の特徴
多くのリスク事象において、そのリスク評価(risk assessment)は年間死亡率や余命損失(余命がどの程度短縮されるか)、罹患率(ある疾病に罹患した患者の割合)などの客観的指標を用いて行われます。
一方、専門家ではない一般市民がもつリスクに対する主観的な認識やイメージはリスク認知(riskperception)と呼ばれています。
一般市民の多くにとって、リスクの中心概念である確率や不確実性は理解が難しいため、主観的リスクは客観的リスクとしばしば異なることが知られています 13)。
認知バイアス
一般市民のリスク認知がしばしば専門家の認識とは異なるのは、一般市民は簡便な方略を使って直観的にリスクを判断するためと考えられています。
人間の認知的資源には限界があるため、認知的にコストのかからないやり方で、大まかに判断しようとします。
その結果として認知に歪みが生じます 14)。このような判断の一つに、思い出しやすい事例や衝撃の強い出来事については、その生起確率を高く見積もるという傾向があります。
たとえば、航空機の墜落事故が報道された直後は事故のイメージが鮮明であるため、航空事故の生起確率は過大に評価されます。
合わせて、心臓病で亡くなった方などがその都度報道されることはないため、心臓病による死亡率は過小に見積もられるといったバイアス(歪み、偏り)として生じます。
また、フレーミング効果と呼ばれる現象もリスク情報の解釈や判断においてみられることが指摘されています。
フレーミング効果とは、同じ確率でも、たとえば死亡率として示すか生存率として示すかによって、リスクに対する判断が変わってしまう現象のことで、このような効果は専門家のリスク判断にもみられることが報告されています 15)。
このほかにも多くのバイアスの存在が指摘されており、このようなバイアスは、社会や文化にかかわりなく普遍的な傾向として存在していると考えられています。
広瀬 16)は次の 5 つのバイアスを指摘しています。
① 正常性バイアス:異常事態におかれても、心の平静を保つために、なるべく正常の範囲内で見てしまおうとする。
② 楽観主義バイアス:異常事態をより楽観的にとらえ、事態の明るい側面を見ようとする。
③ カタストロフィー・バイアス:きわめて稀な事態でも、起きれば大きな被害をもたらす可能性のあるリスクを過大視する。
④ ベテラン・バイアス:経験が豊富であることから生じる。リスクの過小評価につながる。
⑤ バージン・バイアス:未経験ゆえに生じる。
これらのバイアスはリスク認知やリスクに対する行動に影響します。
また、リスク認知に影響するリスク事象の特徴について、これまでに以下のような要因が指摘されています 7,13,17)。
① 自発性:自発的にかかわるリスクは過小評価され、非自発的なリスクは過大評価される傾向。
② コントロール可能性:結果を個人でコントロールできるかどうか。コントロールできないリスクは過大評価される傾向。
③ 平等かどうか:すべての人に被害の可能性があるか、特定の人やグループのみか。後者の方がリスクは過大視される傾向。
④ 影響の範囲の広さ:被害の範囲が広いか狭いか。
広範囲にわたるリスクは過大視されやすい。
⑤ 一度に多くの被害者がでるかどうか:被害者が少ないリスクよりも、多いリスクは過大視されや第9章 室内環境汚染のリスクコミュニケーション 。
⑥ 致死性:死につながる可能性のあるリスクは過大評価されやすい。
⑦ まれなリスクか:滅多に発生しないリスクかしばしば生じるリスクか。前者は過大視される傾向がある。
⑧ 次世代への影響の有無:次世代への影響の可能性があるリスクは過大評価されやすい。
⑨ 進行過程が見えやすいかどうか:進行過程が見えにくいリスクは過大視されやすい。
⑩ よく知られたリスクかどうか:あまり知られていないリスクは過大視される傾向がある。
⑪ 人為的か自然発生的か:人為的なリスクは過大視されやすい。
⑫ 新奇なリスクか:古くからあるリスクよりも新しいリスクは過大視されやすい。
室内空気質汚染のリスクの場合、広範囲にわたって一度に多数の人々に影響が生じるものではなく、致命的な症状であることも稀ですが、その原因の発生源は多くの人々にとって、自ら自発的に受け入れたものではなく、どちらかといえば人為的に発生し、健康影響との因果関係が全て解明されていないという点では、今後、室内空気質汚染による健康影響の可能性や関連する研究の現状が周知されると、リスクへの関心が高まり、過大評価される可能性はあるといえます。
ただし、未知のリスクや自分の目で確かめることができないリスク、因果関係が未解明の健康影響に対して不安を感じるのは、人間が身を守るための反応としては自然なことです。
現代社会において、リスク事象の多くはその定量化が難しく、リスクそのものの定義も曖昧であることを考えると、一般市民のリスク認知が不合理なものであると断定することはできません。
一方、室内空気質汚染のリスクの場合、個人レベルの健康リスクであることから、正常性バイアスや楽観主義バイアスが働き、実際よりも過小評価され、リスクにさらされていても、適切なリスク対策が取られない事態になる可能性も十分に考えられます。
知識とリスク認知リスクについての知識の量や質とリスク認知との関わりもしばしば指摘されてきました。
ただし、知識量とリスク認知の関係は単純ではありません。
たとえば、原子力発電のリスクに関しては、知識量とリスク認知の間には U 字型の関係がみられ、リスクを過大評価するのも過小評価するのも知識の豊富な人で、知識の少ない人のリスク認知は中程度でした7)。
リスク情報の提供側は、知識さえあればリスク認知は適正化し、理解してもらえるはずと考えるかもしれませんが、実際にはそれほど単純ではないようです。
シックハウス症候群に関連する知識とリスク認知の関連については 9.3 節で述べます。
リスク認知の性差もしばしば報告され、女性のリスク認知は男性に比べると高いことが多いことが明らかになっています。
ただし、なぜ女性の方が高い傾向があるのかはよくわかっていません。
専門家のバイアス
一般市民に比べ、専門家のリスク判断は客観的リスク評価に近いことが知られていますが、専門家の判断にもバイアスが存在することを認識しておく必要があります 2,3)。
専門家は、専門分野の技術的側面を重視する傾向があり、その技術を用いる人間や組織のエラーの問題を見落としがちであることが指摘されています 18)。
また、リスクを管理する専門家の組織の意思決定にも、集団合議の過程で、合意や早急な決定にこだわるあまりに重要な情報を見落としたり、過度に楽観的で無責任な決定をしてしまう判断ミスが生じる可能性はあります 2)。
このような人間にとって不可避なエラーに対して一般市民が感じる不安を不合理なものとみなすのではなく、ヒューマンエラーや組織のエラーの可能性を前提としたリスク対応をすることが重要です。