・同一の症状、同一の患者さんに対して異なる診療科が異なる診断、治療を行っている
実は、医学的に説明のできない痛みや諸症状を精神科は身体表現性障害と診断し、身体表現性障害の治療を行っています。一方、日本以外の先進国の痛みを治療する診療科では線維筋痛症あるいは
その不完全型の慢性広範痛症や慢性局所痛症と診断し、線維筋痛症の治療を行っているのです。
同一の症状、同一の患者さんに対して、異なる診療科が異なる診断、異なる治療を行っているのです。
これは医学界に許容されない混乱を引き起こしています。
例えば、胃や腸の同一症状、同一患者さんを内科と外科が全く異なる診断、異なる治療を行っていることと同様なのです。
なぜこのようなことが起きたのでしょうか。
それは二つの業界が独自に診断基準を決めてしまったことが原因です。
線維筋痛症の診断基準はアメリカリウマチ学会が定めました。
慢性痛やペインクリニックの業界はそれをそのまま使用しています。
精神科の業界は線維筋痛症の診断基準を決める過程に関与していません。身体表現性障害とはアメリカ精神医学会(American Psychiatric Association)が定めた「精神障害の分類と診断の手引き」(The Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders: DSM)で定められているのです。正確に言えばその最新版であるDSM- IV-TR(text revision)に定められているのです。
Text revisionとは改訂版と言う意味です。
世界の精神科の業界はこのDSM-IV-TRを受け入れているため、精神科における世界標準の診断基準になっています。
アメリカ精神医学会がDSM-IV-TRを定める際に、ほぼ間違いなく痛みの専門家が加わっていないと私は推測しています。
精神科の業界と慢性痛・リウマチ・ペインクリニックの業界が独自に医学的に説明のできない痛みや諸症状をどのように診断するのかを決めたために起こった混乱です。
慢性痛・リウマチ・ペインクリニックの業界でもこの混乱に気がついています。2009年にMerskey医師はアメリカリウマチ学会の機関紙であるPainに「Thus notions of somatization (and also of the DSM-IV idea of a pain disorder) increasingly lack validity and it is to be hoped that both Somatization Disorder and Pain Disorder will be dropped in the forthcoming revision of DSM-V. 身体化の概念(そして,DSM-IVの疼痛性障害の概念も)は,益々妥当性を欠いている。
そして,近刊予定であるDSM-Vという改訂版では身体化障害と疼痛性障害はなくなることが望ましい。」という趣旨のcommentaryを発表しています。Merskey医師は世界の痛みの業界の大物です。
1994年に国際疼痛学会が痛みの用語集(書籍)[30]を出版しましたが,その編者の一人がMerskey医師なのです[30]。
通常の論文は,症例報告、原著、総説の3つです。
症例報告とは、珍しい経過を辿ったりした一人の患者の報告です。
原著とは、同じ疾患の患者を50人、100人集めて,そこから新しい所見を見つける論文です。
総説とは、一つの疾患に関して過去の論文を集めて,どのような報告がされているかを解説する論文です。
しかし、commentaryは,現在の業界で行われていることに関して自分の意見を述べる論文であり,通常,該当する業界の権威者でないと採用されません。
そのため,2009年のMerskey医師の論文は、Painすなわち国際疼痛学会自体が「身体化障害と疼痛性障害はなくなることが望ましいと提唱している。」とまで主張するつもりはありませんが、痛みの業界を代表する意見として国際疼痛学会がその論文の掲載を許可したと評価することができます。
Thomas医師も身体化障害を新たな基準であるDSM-Vから除外すべきであると述べています[31]。
私はアメリカ精神医学会の機関紙であるThe American Journal of Psychiatryに「2013年に発表予定のDSM-5には間に合わないかもしれないが、その次のDSM-6で身体表現性障害の診断基準を作る際には痛みの専門家を入れていただきたい。」という論文を投稿しましたが、不採用になりました。その論文は電子書籍として出版しました[32]。
異なる医学理論が衝突した場合の解決方法
医学的に説明のできない痛みや諸症状をめぐって異なる医学理論が存在し、それが衝突しているのです。
この様な場合の解決方法はどうすればよいでしょうか。医学が何を目的にする学問であるのかを知っていれば簡単です。
医学とは真実を探求する学問でもありますが、より優れた治療成績を求める学問でもあります。
万人が納得する真実がわからない間は、治療成績が優れた医学理論が正しいのです。
万人が納得する治療方法がない間は、治療成績が優れた治療方法を行うべきなのです。
日本では明治時代後半から脚気論争が起きました。
日清戦争およびその後の台湾平定戦、日露戦争の頃多くの兵士が脚気のために死亡しました。
日清戦争およびその後の台湾平定戦では戦死者より脚気による死亡者の方が多く、日露戦争では戦死者と脚気による死亡者が同程度であったのです。栄養異常説と微生物説が対立しました。
麦飯を食べれば脚気になりにくいのであれば、理論など気にせず麦飯を食べればよいのです。
脚気はビタミンB1の欠乏により起こります。
現在の知識で考えると、脚気で死亡することは気の毒でなりません。
瀉血(意図的に出血させる治療方法)が有害か有用かという論争もありました。
信じられないことですが体調を崩すと瀉血をするという医療がまかり通った時代がありました。
アメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントンはほぼ間違いなく瀉血のし過ぎで死亡しています。
瀉血が有害か有用かは治療成績を比べれば良いのです。現在では多血症などの特別な場合以外は瀉血は行われなくなっています。
では、線維筋痛症と身体表現性障害の治療成績はどうなのでしょうか。
線維筋痛症の治療成績は報告されていますが、身体表現性障害(身体化障害、疼痛性障害)の治療成績は私が調べた範囲では報告されていません。身体表現性障害に有効な薬物はごくわずかですが、線維筋痛症に有効な薬物はそれに比べると圧倒的に多いのです。
例えば、薬物治療に限定しても、系統的総説やメタ解析によりアミトリプチリン(トリプタノール®)[33-34]、ミルナシプラン(トレドミン®)[34-35]、デュロキセチン(サインバルタ®)[34-35] [36]、プレガバリン(リリカ®)[35, 37-39]の有効性が示され、二重盲検法で有効な薬も多数あります。
一方、身体表現性に有効な薬物治療はないとは言いませんがほとんどありません[40]。
認知行動療法は身体表現性障害に有効ですが、線維筋痛症にも有効なのです。
そのため、身体表現性障害と診断するより線維筋痛症と診断した方が治療成績がよいことが予想されます。
医学的に説明のできない痛みや諸症状を精神科で身体表現性障害と診断された患者を私は多数診察しています。
うつ病や不安障害を合併している場合に抗うつ薬の一種である選択的セロトニン再吸収阻害薬(selective serotonin reuptake inhibitors: SSRI)を使用することには問題はありません。
しかし、痛みに対してもSSRIが使用される頻度が圧倒的に多いのです。
SSRIの鎮痛効果は弱いため、それでは有効性が低くなってしまいます。
身体表現性障害と診断されてしまうと、ノイロトロピン®やデキストロメトルファン(メジコン®)という副作用が少ないが鎮痛効果が強い薬を内服できる機会をほぼ失ってしまいます。
さらに言えば、身体表現性障害と診断されると、抗不安薬が年余にわたって処方されていることが多いのです。抗不安薬の長期投薬は多くの忌まわしい副作用を引き起こすとともに、常用量依存が起これば中止が困難になります[41]。医
学的に説明のできない痛みや諸症状を訴える患者さんが身体表現性障害と診断されることは精神的に痛めつけられるとともにほぼ間違いなく治療成績が悪くなることが予想されるため、患者さんが気の毒でなりません。
だからこそ、アメリカ精神医学会(American Psychiatric Association)の機関紙であるThe American Journal of Psychiatryに前述のような論文を投稿したのです。
日本では線維筋痛症やその不完全型と診断できる医師が他の先進国に比べると圧倒的に少ないため身体表現性障害と診断される危険性が高くなります。