Ⅴ 考察
携帯電話の普及は目覚しく、それに伴って携帯電話から発せられる高周波電磁波(800MHz-2GHz)の生体に対する影響が懸念されている。
特に遺伝子、癌、睡眠、免疫系、神経系などへの影響に関する社会的懸念が生じている。
これを受けて我々はこれまでに高周波電磁波の脳の形態学的変化、記憶に対する影響がないことを報告してきた[7,8]。
続いて、我々は携帯電話から発せられる高周波電磁波による睡眠による影響を調べるためラットを用いて松果体および血清メラトニンおよびセロトニン値を測定し、短期および長期の高周波電磁波ばく露による有意差がないことを示した[10,11]。
近年は、携帯電話を含めた電磁波を発する電気製品の普及は一昔前と比較し格段に高くなっており、電磁波の影響は環境問題として取り上げられることもある。
また一方、同様に環境問題として社会的関心を集めているものの一つに内分泌撹乱物質(環境ホルモン)がある。環境中に放出された化学物質がホルモン様もしくは抗ホルモン様に作用するものとされ、生体の恒常性、生殖、発生、行動などに関与する過程に影響を及ぼす可能性が指摘されている。
これまでに報告されている“環境ホルモン”の作用の多くはエストロゲン様作用であり、本研究では携帯電話の発する高周波電磁波が“環境ホルモン”と同様にエストロゲン様作用をもち内分泌撹乱を起こしうるか否かを調べる目的で実験を行った。
低周波電磁界がラットの乳癌発生、ラットの乳管上皮の増殖能の亢進に関与することが報告されている。
内分泌撹乱物質の一つである7,12-ジメチルベンゾアントラセン(DMBA)をラットに投与すると乳腺腫瘍が発生することが知られているが[12,13]、このDMBA乳癌誘発モデルにおいて、Thun-Battersbyらは、50Hz、100μTの低周波垂直電磁界にラットをばく露させ、1週間後にDMBAを投与してDMBA誘発乳癌の発生への電磁界の影響を検討した[14]。
ばく露開始から14週間(DMBA投与後13週間)の時点で、偽ばく露群と比較しばく露群では乳癌の発生が1.9倍増加していた。
また、Fedrowitzらは、同じく50Hz、100μTの低周波垂直電磁界にSDラットを2週間ばく露させると、細胞増殖を示すBrdU、Ki-67でラベルされる細胞が乳腺組織で有意に増加したと報告し、先に報告された電磁波ばく露によるDMBA乳癌の増加の根拠となり得ると考察している[15]。
電磁波ばく露が先進国での乳癌発生の増加の原因として考えられていることもあり[16,17]、高周波電磁界の乳癌発生への影響についての懸念もあると言える。
先に述べたとおり、エストロゲンは乳癌の危険因子であることが知られており、エストロゲンばく露の増加は乳癌発生リスクであるとされている。
様々な報告から電磁波ばく露と乳癌の正の関係が疑われているが、乳癌の危険因子エストロゲンへの電磁波の影響については明らかになっていない。また、電磁波によるエストロゲン様作用の検討もこれまでに報告がない。
これを受け、今回我々は、卵巣切除後雌ラットを対象に脳平均SAR 7.5W/kg、全身平均SAR1.2W/kgの電磁波を1日4時間、3日連続でばく露させる実験を行ったが、血清エストラジオール濃度に変化を認めなかった。
エストロゲン様作用の検討には、卵巣切除ラットに試験物質を与えて子宮が大きくなるかどうかを観察する子宮肥大試験がよく用いられる。
卵巣を切除するとラット子宮は萎縮するが、エストロゲンもしくはエストロゲン様作用を有する物質を投与すると肥大する。
今回、我々が用いた電磁波ばく露条件では、この子宮肥大に影響がなかった。
今回の実験では、実験系の妥当性を確認するために17-β-エストラジオールを投与するE2群を陽性コントロールとしておいた。
E2群は他の3群に比べ、有意な子宮肥大が確認され、また血清エストラジオール濃度も有意に増加しており、本実験系は正しく機能していると考えられた。
今回の実験では携帯電話の発する高周波電磁波のDMBA誘発乳癌への影響については検討を行っていない。
これは本研究では携帯電話の発する高周波電磁波が内分泌撹乱物質となり得るかに焦点を当てたからである。
高周波電磁波のDMBA誘発乳癌についてはBartschらが報告している[18]。彼らは900MHz、全身平均SAR17.5–70mW/kgの高周波電磁波ばく露をラットに行い、DMBA乳癌の発生には影響を与えないと報告している。
彼らのばく露条件と今回我々が用いた条件とは異なるが、今回の我々の結果も併せて、現在のところ、携帯電話が発するような高周波電磁波には、乳癌発生を強める可能性を示唆する結果はないと考えられる。
今回、我々は卵巣切除後の雌ラットを対象として短期ばく露実験を行い、携帯電話の数倍を上回るSARの高周波電磁波のばく露は血清エストラジオール濃度に有意な影響を及ぼさず、エストロゲン様作用も認めないことを示した。