-2:ぼくが中学校の耐震工事で化学物質過敏症になって七年がたちました。 | 化学物質過敏症 runのブログ

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仮病じゃない
診断名が出て、病気とわかり安心したという気持ちもあるし、
不安に感じたということもありました。

いちばんは、これで、「仮病じゃない」ということが証明できたと思いました。
二学期も欠席はしませんでした。

でも、早退が始まってひと月も過ぎるころ、学校で「仮病」といわれ始めていました。

友だちも「仮病野郎」みたいな……。親しい子にも冗談半分でいわれたのは堪こたえましたね。いじわるというより多分本音だったんだと思います。

仮病に感じたというのは。
結局、中学は転校することになりました。

学校の理解は得られなかったというか、校長の対応は最悪と当時は思いました。

担任にも厄介者扱いされたと感じていました。唯一、保健室の先生とは、よく話をしてましたね。

でも、当時は、まともに授業は受けられないし、転校しか選択はなかったと思います。


註4
家族間では、自分が寝ている間に父と母がいい合いをしていたようだった。父は「気持ちの問題だろう」と。

註5
自分はすでに転校には抵抗はなかった。友だちには学校外で会えばいいと思った。


転校先の中学には事前に行って、いろいろな教室に入って自分の身体で確かめることをしました。

ほぼどこの教室にも入れましたが、ただ体育館が工事をしてしまっていて、そこでの授業は受けることはできませんでした。

それから、音註6楽室と理科実験室、パソコン室はダメでした。
この中学は最高でしたね。

楽しかった。

学校を嫌いにならなかったことはラッキーでした。受け入れてくれる学校があって、理解しようとしてくれる先生もいて、ぼくとしてはみんなと同じように過ごせたことが貴重でした。
修学旅行は、事前に下見に行くなど、両親に負担をかけたと思っています。旅館側も病気のことをわかってくれて、部屋をすべて下見させてくれました。それで、反応の出ない部屋に泊まれることになった。

7幹線は、へばりましたけれど(笑)でも、すごく楽しい思い出ですよ。

中学二年と三年はサッカー部に入って運動も続けていました。
その間は、年に二、三回化学物質過敏症の専註8門病院へ通いましたね。

だけど、通院は、治療というより、定期的に自分の状態を知ることが目的です。

註6
音楽室などの授業では、教室の戸を開けてもらって廊下で授業を受けた。理科の実験は身体にとって厳しく、教室でひとり自習ということも。

註7
新幹線車内は消臭剤や抗菌剤、タバコの煙などぼくにとってはガス室状態。ガスマスクを使って耐えた。
高校受験とやり残した感
高校進学もまわりの友だちと変わらない感じで考えていました。