仮病じゃない
診断名が出て、病気とわかり安心したという気持ちもあるし、
不安に感じたということもありました。
いちばんは、これで、「仮病じゃない」ということが証明できたと思いました。
二学期も欠席はしませんでした。
でも、早退が始まってひと月も過ぎるころ、学校で「仮病」といわれ始めていました。
友だちも「仮病野郎」みたいな……。親しい子にも冗談半分でいわれたのは堪こたえましたね。いじわるというより多分本音だったんだと思います。
仮病に感じたというのは。
結局、中学は転校することになりました。
学校の理解は得られなかったというか、校長の対応は最悪と当時は思いました。
担任にも厄介者扱いされたと感じていました。唯一、保健室の先生とは、よく話をしてましたね。
でも、当時は、まともに授業は受けられないし、転校しか選択はなかったと思います。
註4
家族間では、自分が寝ている間に父と母がいい合いをしていたようだった。父は「気持ちの問題だろう」と。
註5
自分はすでに転校には抵抗はなかった。友だちには学校外で会えばいいと思った。
転校先の中学には事前に行って、いろいろな教室に入って自分の身体で確かめることをしました。
ほぼどこの教室にも入れましたが、ただ体育館が工事をしてしまっていて、そこでの授業は受けることはできませんでした。
それから、音註6楽室と理科実験室、パソコン室はダメでした。
この中学は最高でしたね。
楽しかった。
学校を嫌いにならなかったことはラッキーでした。受け入れてくれる学校があって、理解しようとしてくれる先生もいて、ぼくとしてはみんなと同じように過ごせたことが貴重でした。
修学旅行は、事前に下見に行くなど、両親に負担をかけたと思っています。旅館側も病気のことをわかってくれて、部屋をすべて下見させてくれました。それで、反応の出ない部屋に泊まれることになった。
7幹線は、へばりましたけれど(笑)でも、すごく楽しい思い出ですよ。
中学二年と三年はサッカー部に入って運動も続けていました。
その間は、年に二、三回化学物質過敏症の専註8門病院へ通いましたね。
だけど、通院は、治療というより、定期的に自分の状態を知ることが目的です。
註6
音楽室などの授業では、教室の戸を開けてもらって廊下で授業を受けた。理科の実験は身体にとって厳しく、教室でひとり自習ということも。
註7
新幹線車内は消臭剤や抗菌剤、タバコの煙などぼくにとってはガス室状態。ガスマスクを使って耐えた。
高校受験とやり残した感
高校進学もまわりの友だちと変わらない感じで考えていました。