・吃音症(きつおんしょう、英: Stammering symptom)は、発語時に言葉が連続して発せられたり、瞬間あるいは一時的に無音状態が続くなどの言葉が円滑に話せない疾病。
言語障害の一種のような症状を示す病気である。
どもり、吃音ともいわれる。
WHOの疾病分類「ICD-10」では、吃音は、「会話の流暢性とリズムの障害」、「吃音症」[1]とされ、米国精神医学会のDSM-4-TR(精神障害の診断と統計の手引き)でも吃音症とされている。
日本においてもICD-10やDSMに準じた厚生労働省の「疾病、傷害及び死因分類」[2]が採用され、吃音は基本的には医療機関で受診可能な健康保険適用の吃音症という疾病に分類されている[3]。
なお、吃音の症状や悩みを改善する方法は何通りか提案されているものの、吃音症が原因不明であるため決定的な治療法がないのが現実である。
特に重度で症状が固定化している吃音の場合、自殺率等も高いため、吃音を障害認定している国もある。
例えば、アメリカでは障害者法により吃音は障害として扱われる。
ニュージーランドにおいても、法律により吃音は障害として扱われる。
ドイツでは、重度の吃音に限り、障害認定を受けることができる。
このように、法的に吃音症患者を保護する体制作りが各国で求められている。(以下略)
・メジャーデビュー [編集]
折からの不況も手伝い、次第に貧しくなってしまったジョンは、妻ジュディを伴い1990年に仕事を求めてベルリンへ移住、ベルリンのホテルでエージェント、マンフィールド・ツェーリンガーと出会い、週1000ドルの仕事をすることになった。
その後、妻ジュディはホテルのロビーでスキャットソングが数曲入ったカセットテープをツェーリンガーに渡した。
彼は帰りの車中で、そのテープから流れてくる今までに無い斬新なサウンドに驚き、すぐに車中からジョンとジュディに電話をし、ある提案をする。
それはジョンのスキャットをテクノあるいはヒップ・ホップと融合させてみてはどうか、というものだった。
ジョン自身はその案に懐疑的であったが、同じアイデアを持ちかけられたBMGはこれを受理した。[5]
ジョンはこの時、このシングルが売れたらラジオやテレビの出演が待っているため、これを非常に恐れていたという。
“「歌ならどもらないが、インタビューを受けたら、必ずどもるだろう。みじめな姿をさらしたくない。」
「もしも世間に私のどもりが知れ渡ったらどうしよう」
「次から次へと沸き上がる不安に、私の心はもう、 すっかりパニック状態でした。もしかしてこのシングルがヒットしたら、最も恐ろしいことが起こる。いよいよあの大きな象に向き合わなければならないのか。ずっと、自分の心の奥の方に隠し持っていた現実と向き合わなければならない」”
悩んだ末に彼は妻のジュディに相談する事にした。じっと話を開いていたジュディは、「あなた自身の『そのこと』を、 曲の中で直接伝えればいいじゃない」と助言したのだった。
この時から、ジュディは吃音についても、ジョンの良き理解者となったという。
二人で相談して、まずはこれからレコーディングする歌の詩に、ジョンの吃音について書いてみることにした。
二人は曲のタイトルを『Scatman』に決め、ジョンのステージネームを『Scatman John』と命名した。[1]
こうしてインゴ・カイズとトニー・カターニャのプロデュースにより、 デビューシングルScatman (Ski Ba Bop Ba Dop Bop)の収録が始まった。
レコーディングには6時間もの時間を費やした。
この曲は「吃音に悩む子供達が逆境を乗り越えるため、元気を与えよう」というものであった。
当初、このシングルの勢いはさほどでもなかったが、徐々に売り上げを伸ばしはじめ、最終的には殆どの国のチャートでトップを飾り、世界中で約600万枚もの売り上げを記録するに至った。
そして数週間に渡って全英トップ10に留まり続け、彼の名は一躍有名となったのである。