スキャットマン・ジョンは吃音症だった。 | 化学物質過敏症 runのブログ

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Wikipediaより

・経歴 [編集]

52歳で歌手としてメジャーCDデビュー。
メジャーデビューアルバム『スキャットマンズ ワールド』は日本やヨーロッパ諸国など全世界で600万枚以上を売り上げ、各国のチャートでNo.1を飾る。自身の障害である吃音症を逆手に取った、模倣が困難なスキャットと、1回に4つ近く音の調子を変えるという珍しい歌唱法(このテクニックは古いヒンドゥー教の喉で歌う物から取り入れた)を用い、唯一のジャンル『テクノスキャット』を開拓した。

日本で1996年度ベスト・ニュー・インターナショナル・アーティストを受賞、ドイツでビッゲスト・クロスオーバー・アーティストECHO賞を受賞、またイタリア・フランス・ポーランドでも多くの賞を受賞。アルバムとシングルのヒットにより合計14枚のゴールドディスクと18枚のプラチナディスクを獲得など、数多くの受賞歴を持つ。[1]

音楽活動以外では、吃音者団体との交流を深め、彼らを支援するためのスキャットマン基金を設立、1996年に世界の吃音者に関して著しい功績を与えたとしてアニー・グレン賞、チャールズ・ヴァン・ライパー賞を受賞している。

1999年12月3日にロサンゼルスの自宅で肺がんのため死去。57歳。[2]

吃音者としての経歴 [編集]

ジョンは、子供のころから吃音を克服しようと努力してきたが、それは叶わず、彼はコミュニケーションの手段を言葉以外に探さなければならなかった。

彼は吃音から来るストレスをごまかすためアルコールやドラッグに溺れるようになる。

しかし1987年のある日、仲間のミュージシャンや友人のジョー・ファレルがドラッグにより死亡してしまう。

これを期に彼はそれらから抜け出すことを決意し、再婚した妻ジュディの助けもあり更生に成功する。

後に彼は「自分がアルコールに依存していることを認めることによって、そこから回復出来た」と語っている。[3][4]

また、1997年にはISA(国際吃音者連盟)に対して送ったメッセージの中で、


“「私がどこへ行っても、いつでも、大きな象が私の後ろからついてきます。他人からは見えている、この大きな象が吃音ですが、そんな大きなものをひたすら隠そうと躍起になっていたなんて、おかしいですよね

と吃音を象に見立てて、当時の自分を振り返っている。[1]

しかし、これらを克服したことにより彼は吃音と向き合わざるを得なくなってしまう。

そこで彼は1991年頃から、アメリカの吃音者団体『NSP(National Stuttering Project)』のミーティングに参加するようになり、徐々に自身を吃音者と認めることが出来るようになったと語っている(なお、スキャットマンとしてデビューした後もNSPの全国大会で演奏するなど、親睦は深かった模様)。

だが吃音が完全に治ったわけではなく、デビュー当初の1995年にインタビューしたジャーナリストが「少なくとも6回か7回は語句を繰り返さないと、喋り終えることができなかった」と語っている。

その後、コンサートのために世界を周った彼の言葉は以前よりも流暢になり、アルバムのプロモーションのためインタビューを受けた際、彼がどもることなく喋っていたのを聴いたある記者が、「経歴を装うため吃音者コミュニティーを利用しているのではないか」と疑いを向けたほどだったという。

このときジョンは初めて、どもることに対してではなく、流暢に喋ることを恥じている自分に気付きショックを受けたと語っている。[3]