多種類化学物質過敏症患者の生活 | 化学物質過敏症 runのブログ

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・特 集

5 多種類化学物質過敏症患者の生活
山 内 稚 恵
化学物質過敏症のきっかけは、絵の下塗り塗料だった。

下地塗料のジェッソは大きな缶に入った白いドロリとした液体で、速乾性で、水で希釈すれば自在に濃さを調整できてブラシも水洗いですむ確かに便利な塗料であった。

しかし、塗料は少し刺激があったので下塗り作業は窓を開放して毎年6月におこなった。

その作業を3度繰り返すのは体力が必要だったが、キャンバスはずっしりと貫禄があり、その出来映えに私はいつも満足していた。

 1995年のことだった。作業を始めてから2日目、急に頭痛とめまいがして、ひどい疲労感に襲われたので作業を中断して休んだ。

3日目、水やすりをしている時に、またひどい疲労感に襲われ、立つことができず寝転がって休んでいるうちに熱がでてきた。

 4日目、T病院の内科を受診した。

帰宅してアトリエに入ると、キャンバスにひどい刺激を感じたので作業を中止して休んだが、熱がでてきた。

5日目、血沈が78?127もあり、免疫機能に問題があるといわれ、抗生物質を貰った。

6日目、入院を勧められたが、上京の用があり残念ながら入院を延ばした。この日も出品作品のための下地塗りの作業はできなかった。

熱は9日間続いてようやく治まった。

1週間の検査入院でも、発熱、頭痛、倦怠感の原因はわからなかったが、油絵をやめるように指導を受けたことは私にとっては大きな衝撃であった。「油絵をやめよ」ということは私から生きがいを取り去ることにも等しいことであったからである。

35年前、再生不良性貧血で余命3ヶ月と宣告されたが1年3ヶ月の入院治療で奇跡的に生還して、始めた油絵?健康を取り戻す力を得た「油絵」が体調不良の原因だなんて?その後の医師の言葉は耳に入らなかった。

 T病院のあとは、K大学付属病院、そしてK病院を受診したが、結果はともに原因不明、治療法なしであった。

取りすがる病院も見当たらず途方にくれていた私が症状の答えを貰ったのは、思いもよらぬところからであった。

それは週刊誌「エコノミスト」に掲載されていた記事、「化学物質過敏症」が私の症状にそっくりであることに気がついたのである。

 この頃までは、画材と建材以外には反応するものが少なく、交通機関を利用して病院へも行くことができた。

ところが、この平安は我が家から20mほど離れた近隣で始まった新築工事によってうち破られた。

その日は、軋るようなキーという音を耳にした途端、頭痛、目の眩み、息苦しさと舌の灼熱感に襲われた。

その時に目に映った白煙は発砲ポリスチレンの板をのこぎりで切断した時の微粒子であることは後日知った。

この苦しさから逃れるために、次女宅に居候することになり、これを機会に絵描道具の一切を処分しようとしたが、テンペラ絵具など捨て切れなかった一部の画材を残したことが、結果的にはテンペラ画との別離を決定的にした。

天然材で改装したアトリエも刺激が強く安楽の場所になり得ず、私の化学物質過敏症は自宅に戻ると坂を転げるように多種類化学物質過敏症へ移行していった。化学物質に対する反応はどんどん広がっていった。

アルコール、シンナー、紙、芳香剤、近隣の農薬散布、家具、寝具、新しい食品容器、鮮度保持加工食品、医院、交通機関……。

中でも、プラスチックに反応し始めたときは大変であった。

最初に気がついたのは、磁器に入った食べ物をラップ材でラッピングしていた時のこと、突然息苦しさ、頭痛、目の眩みを覚えたのが始まりであった。プラスチックのコップ、めがね、浴槽、マットなど反応するものは至るところにあった。振り返ってみると、ある日、水道水が急に刺激を帯びた。

これは市の水道局の職員が塩化ビニル管を防錆鋳鉄管に交換してくれたおかげで苦痛から開放された。

輸血や点滴のバッグ、隣家のポリカーボネートの波板屋根、画材として使用したアクリル樹脂―発症の決め手となった?など長年にわたり接触してきたプラスチックの影響が蓄積して急に現れてきたのだと思った。

しかし、不思議なことにこのプラスチック騒動は3ヶ月ほどで治まり、眼鏡など使えるものもでてきた。

現在、日常生活で心がけていることは、

1)食べ物や空気さらに接触によって化学物質をできる限り体内に入れないこと、

2)体内に入った汚染化学物質を排出するサプリメントの活用や繊維質の野菜や海藻を食材とする、

3)適度の運動や入浴 である。

身体が楽になるだろうと思われることは何でも取入れて試みる。

何時になったらこの不安や苦痛から解放されるのだろうか、その日を夢見ながら。