(3) メカニズムについての仮説
いままでの研究者が報告している中には、『過敏症とは化学物質への不耐の状態であり、それは神経の可塑性と関係があるのではないか』という議論があった。
その中でわれわれ研究班に関連した内容としては、Sorg らがppm オーダー
の低濃度FA 繰り返し曝露が化学ストレッサーになることを強く示唆したことGilbert が農薬への曝露によって辺縁系関連の行動が発現するまでの仮説を提唱したことだった。
では研究班の結果からどのようなメカニズムが考えられるだろうか。市川らの嗅上皮と嗅球における形態学の所見からは、マウスの脳ではかなり強い刺激として嗅覚が認識されていると解釈できる。
嗅覚情報の嗅球からの脳内投射部位は、扁桃体・梨状葉・嗅内野等など、複数の脳内部位へと投射されている。
嗅内野とよばれる大脳皮質嗅内野にはさまざまな感覚の情報が集約・統合されている。
その統合された神経情報は海馬へと入り、海馬から内側部にある乳頭体・視床その他へと投射される。FA 曝露マウスでは、嗅覚情報が嗅内野でさまざ
まな感覚情報と集約・統合され、その集約・統合された情報(興奮性入力)が海馬内に入って増幅され、視床下部の神経活動をストレス反応へと変異させたのかもしれない。
一方、市川らが形態変化を検討した扁桃体も、嗅球から直接入力を受け情動発現には重要な役割をすると考えられている。
このように海馬を主とした中枢神経系内の複数部位が不安情動反応の変化を生む機構と関連しているのではないだろうか。FA 曝露によるストレス反応の亢進と不安情動の発現はほかの研究でも示唆されている。
佐々木らの報告で視床下部のストレス反応が亢進していることが明らかに示された。
したがって、実験結果から総合すると、不安情動の亢進やストレス反応にかかわる機構が、過敏状態を引き起こす機構とメカニズムを共有している可能性が考えられる。
FA 曝露が、海馬等における神経情報処理機構をも撹乱し、過敏状態になる機構と関連しているのではないかという解釈は、神経可塑性について議論した従来の仮説(ANYAA9 933, 2001)とは矛盾しない。
MCS のメカニズムについては、患者の症状と実験データから大脳辺縁系の関与を示唆する議論されてきた。
さまざまな仮説が提唱されており、なかでもBell らは大脳辺縁系が関与するキンドリング仮説(キンドリングとは、初めは何の変化も起こさないような弱い電気刺激を毎日1 回繰り返し脳の辺縁系に与えることによってほぼ3週間後には同レベルの刺激でてんかん発作を起こす現象をいう。
キンドリング現象は化学物質の反復投与によっても起こるので、MCS における時間依存的な感受性の亢進を説明する仮説として考えられている)を提唱している。
大脳辺縁系キンドリングはてんかんのモデルのひとつである。
しかし、FA 曝露によるてんかん発作は観察されていないし、また、疫学調査でもてんかん患者にMCS が多いという報告もない。
むしろ、てんかんとMCS の関係については現在のところ否定的である。
しかし、Gilbert らは、てんかん発作の発現には至らないが辺縁系の興奮性の変化が、MCS の発達と発現における不安情動の役割に関係しているのではないかと考察している。
われわれの実験結果で観察された海馬興奮性の増加・抑制の減弱は、はからずもこのGilbertの推論を裏つけることとなったわけである。
しかし、動物キンドリングモデルでは通常シナプス伝達増強現象が観察されている。
われわれの曝露実験結果ではSTP は低下、LTP は変化なし(実験条件を変えると低下した)という結果であった。
これは矛盾というよりは、『曝露
群の海馬CA1 におけるCaMKII の恒常的活性の上昇が、シナプス伝達の可塑性を発現する能力を頭打ちとした結果として障害した』と私達は考えている。この点はキンドリングモデルと異なる。
(4) 平成16年度の新たな知見
4-1 横断研究
4年間の研究で変動する指標がみいだされた嗅球のTH ニューロンの増加(市川らの班)、脳下垂体のACTH 発現量の増加(佐々木らの班)、海馬の神経伝達物質受容体発現量(藤巻らの班)、嗅球のTH 蛋白量解析、抑制の減弱を同一個体で調べることにした。
その結果、群間で傾向が一致したのは、歯状回の抑制の減弱と興奮性シナプス伝達受容体のひとつであるNMDA 受容体のサブタイプ構成比であった。
しかし、個体における相関は明らかにならなかった。
4-2 GABA 系関連蛋白分子の変動
平成15 年度までの研究で、FA 曝露(2000 ppb)によって海馬CA1 と歯状回ではフィードバック抑制が減弱することがわかった。
1-ブロモプロパンの吸入曝露によってもフィー
ドバック抑制の減弱が用量依存性に観察され、GABA シナプス間隙におけるGABA 滞在確率の減少したことが原因で減弱したことが示唆された。
福永らは、2000 ppb FA 曝露マウスにおいてアミノ酸脱炭酸酵素(GAD) (抑制性シナプス伝達物質γ-アミノ酪酸(GABA) はGAD によってグルタミン酸から合成される)のサブタイプGAD67 の低下を見出した。興奮と抑制の攪乱が伝達物質合成に生じたことが示唆された。
4-3 LTD への影響
STP、LTP などシナプス伝達が増強される現象のみでなく、低下する現象(LTD)に関して検討した。
一般的に成熟した動物ではLTD は捉えにくい報告が多いが、比較的よく用いられる刺激条件(ペアパルスで1Hz 刺激を15 分間)で行った。
結果は2000 ppb 曝露群と対照群のLTD には差は認められなかった。
(5) 動物モデルに与えられた問いに対する意見
MCS の動物モデルの作成というミッションに関して議論にのぼった主な内容を述べる。
そもそもMCS は頻度が低い。
しかも男性よりも女性の頻度が高いという。
動物モデル班では10 週令の雌マウスに曝露を開始したが、性ホルモンレベルはシナプス伝達可塑性・抑制性シナプスへの修飾・受容体蛋白発現調節などの報告もあり、性差の問題、性周期の問題はいつも議論にのぼった。
結局、膣スメアによる性周期のモニターはかえって刺激になる可能性が懸念され、4年めに行われた組み合わせ実験において解剖日にのみ膣スメア観察が実行された。
しかし性周期による影響の有無の判定は困難であった。
更年期女性に頻度が高いという疫学調査であったが、初めての実験ということもあって性周期をもつ週令の雌をもちいた。
疫学調査結果が今も正しいのであれば今後の実験はエストロゲンレベルをコントロールした動物も使用したほうが良いのではないかと思われた。
『過敏な状態』とはいったいどのような状態を想定するのかという議論もあった。
低濃度曝露における閾値の有無の議論は、ハザード性がもっとも検討されてきた分野のひとつである『発がん』でも遺伝毒性の有無で閾値の有無を考えるというメカニズムベースになっているようだ。
われわれの議論では、『過敏症の証明には組み合わせ実験も必要なのではないか』という提案があった。
実際にアレルギーモデルと曝露モデルに関して組み合わせ実験を行ったが過敏状態を実証できなかった。
単独モデルでの変動よりも組み合わせモデルでの変動が大きければ過敏状態にアプローチできたかもしれない。
あるいは、Bell らの提唱する『時間依存性』を考慮したモデルとして、曝露停止後の再チャレンジにおける感受性の変化をみる
という方法で過敏な状態を検討できるのかもしれない。