理由はこうだ。
ヒトの始まりは、精子と卵子が巡り合ってできた一個の細胞からなる受精卵。三週目には三ミリほどに成長し、脳や神経系が発達する。
八週目には脳、心臓、手足、目などが形成され、二百八十日後の出産を迎える。
この成長過程で、有害物質などにより細胞に何らかの“異変”が起きたら…。それは、六十兆の細胞で構成された身体が出来上がった大人と同列にできない。
しかも、女児として誕生する胎児には、既に次の出産に備えて卵子となる細胞が準備されているのだ。
「本当に危ないのは、私たち大人ではなく、子や孫の世代なんです」(入佐)。
食を通じた“危険”が、大人だけでなく生まれ来る命までに及ぶことを図らずも実証したのが、熊本県水俣市の水俣病だった。
チッソ工場が有害な工場廃液を水俣湾に流し、古里の海で取れた魚を食べた人々は脳や神経細胞に障害を受けた。同じように魚を食べながら、妊婦は奇跡的に症状が軽かった。
おなかの子どもたちが、母の体内に取り込まれた有機水銀を引き受け、「胎児性水俣病」として生まれたからだ。
自ら犠牲になって母親を救った子どもたちを水俣では「宝子(たからご)」と呼ぶ。
その患者、家族の苦悩は、今なお続く。
「近ごろの若者はクールだから」と、片づけられない問題なのかもしれない―。
五年前の退職まで、福岡県警城島署の刑事生活安全課に勤めた楢崎研司(64)=同県八女市=は、捜査や地域活動で多くの子どもと接するうち、気になり始めたことがある。
事件や問題を起こした少年でも、「親兄弟が心配している、迷惑かけるなよ」と語りかければ、涙ぐむ。
そんな場面を幾度も見てきた。しかし、十数年前から、ほとんど無反応、顔色一つ変えないということが多くなった。
「目が合った」「言い方が気に食わない」…。ささいな動機で人を殺す凶悪犯罪が目につき始めたのも、同じころではなかったか。
少年らの警戒心を和らげるとき、食べ物の話題は効果的だ。でも、会話が弾みだしても、見えてくるのは、なんともわびしい彼らの日常。
スーパーの総菜コーナーが「食卓」代わりの少年。弁当屋に日参し、すべてのメニュー、新メニューの発売日をそらんじる少年…。
公園や空き地に座り込み、食事をかき込み、ゴミはその場にポイ。
家庭の味とは無縁だ。
さまざまな事情を抱える家庭が多い、ある中学校の養護教諭は言う。「脱線しても、『母ちゃんのニラ玉が好きだ』と言うような子は、一線を越えない」
(2005/04/29,西日本新聞朝刊)
■食卓の向こう側(5)
母親と胎児をつなぐへその緒から内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)が発見され、キレる子どもや凶悪な少年事件が社会問題化している現代。
それらへの数多い分析がある中、食べ物や食生活も見逃してはならない重要な要因の一つです。
本書は、食を介して体に入る化学物質や食卓のあり方が、脳、心にどう影響するかを取り上げた連載「食卓の向こう側 第5部 脳、そして心」(2005年4月29日―5月16日)と、5月21日に福岡市内で開いたシンポジウム「脳、心…食の役割を考える」中心にまとめたものです。
複合汚染が進む中、化学物質漬けの環境に、どう対応していけばいいのか、食卓での団欒と心のつながりをどう考えればいいのか。
私たちに迫る危機を食と、そのかかわり方を通して見つめ直します。
A5判ブックレット/500円