四日市ぜんそく6 | 化学物質過敏症 runのブログ

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・ 地域事情 [編集]地元四日市市の人しか知らない地域事情だが南部(塩浜)の公害、北部(富田・富洲原)の水害と言われるように、四日市市は南部、北部、西部で地域性が違い、南部・北部と、臨海部と西部の対立と格差の問題がある。

平田佐矩市長の出身地、富田・富洲原地区は運良く公害被害は無くて北部(富洲原地区)が加害者、南部(塩浜地区)が被害者の構図がある。

(南部)の塩浜地区は革新勢力である日本社会党が強くて、北部(漁村)と西部(農村)は保守勢力である自由民主党が強くて自由民主党と革新勢力との地域対立と政治思想対立が背景にある。

皮肉にも三重県知事の出身地である塩浜地区が四日市公害の発生地となり、最も被害を受けた。

塩浜地区出身の田中覚知事は自身の出身地を公害にしたのを悔やんでいる。

公害被害がある南部の塩浜地区と、伊勢湾台風など水害被害がある北部の富田地区・富洲原地区は、地域共同体が強い事と都市としての交通網が便利である事と治安が良いなどの好条件で郷土愛が強い地区であり、公害や水害で人口が減少しても住み続ける人が多い事情がある。

その事から公害によって引っ越す事に反対して雨池町と平和町の集団移転政策に疑問がおきた。

四日市市民全体が「公害の町四日市」と意識していない地域事情もあり、四日市市西部の人は三重郡の農村から四日市市に合併をした地域で公害被害がなかったので四日市喘息を他人事のように思う事もある。

しかし公害の当事者である平田佐矩市長の出身地の平田耕一議員などの富洲原地区民と田中覚知事の出身地の塩浜地区民をはじめ四日市臨海地域の楠地区・中部地区・橋北地区・海蔵地区の人は四日市喘息を強く意識をする。塩浜地区の漁民は「油まみれになった魚を富田・富洲原地区の人が買って食べてくれるのか」と平田佐矩市長に責任を追及して自宅に追し寄せた。

しかし、平田佐矩市長は「私が全部買います」と言って買ったことで塩浜の漁民は感心して平田佐矩市長が人格者だったと理解し、塩浜地区の人は市長を恨むのをやめたというエピソードがある。

また、平田佐矩市長は四日市市の喘息患者の医療費を無料化するなど責任をとった。

平田紡績は伊勢湾の公害による汚染で漁網の需要が減少して経営が悪化平田紡績消滅の要因となった。

平田佐矩死後に四日市市長となった四日市の名門九鬼家(父親は九鬼紋十郎衆議院議員で養子)の九鬼喜久男は公害患者との懇談会で「塩浜はいつまで漁業をするのか」や「経済発展のための工業化政策にコンビナートが必要であり、少々の公害被害が発生するのはやむおえない」や「味噌屋には味噌のにおいがするコンビナートにはコンビナートのにおいがして当たり前」と発言して塩浜地区民と対立して、また公害対策もしなかったため公害市長の悪評が広がり三重県知事選挙で落選する。

塩浜地区出身の田中覚三重県知事は公害対策をした事で支持を得て衆議院議員に当選をする。「三重田中覚」の意味で塩浜地区に新しく埋め立てられた土地が「三田町」と命名されて、塩浜地区には田中覚の支持者が多かった、また田中覚は晩年四日市喘息の慰霊碑で慰霊をして、実際には四日市喘息ではないが四日市喘息に発病したといって喘息症状で死去した。

当初は塩浜地区に公害が発生したため「塩浜喘息」と呼ばれたが周辺地区にも拡がったため四日市喘息に改められた。

公害による喘息患者のため県立塩浜病院で治療が行われたが公害患者の減少のため、1994年(平成6年)に閉鎖された。

四日市市に実際に行った事がない社会科の教師による日本史の戦後史における四大公害の授業や、保健科の教師によって公害の誤ったイメージを教育された他の都道府県民は実際に四日市に行ってみるとイメージとの違いを感じる人が多い。

だが、公害による大気汚染は改善したが汚染が完全に無くなったとはいえず今でもぜんそくにならない程度の悪臭は存在する。

四日市大学に環境情報学部が設置されて環境問題や公害の研究を行い、地元四日市市の平田佐矩と同じ富洲原地区出身の平田耕一議員、田中覚知事の親戚である田中俊行四日市市長をはじめ、実家イオングループの社会貢献として環境問題に取り組んでいる岡田克也議員など、四日市市出身の政治家は環境問題への関心が非常に高い。

四日市市と四日市市民は桑名市や津市と比べて教育や文化を軽視した反面、経済発展を最優先して公害を招いた教訓で環境問題に敏感である。