四日市ぜんそく5 | 化学物質過敏症 runのブログ

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・公害対策 [編集]四日市市は住民に対する公害対策として、塩浜地区の塩浜小学校と三浜小学校では健康作りのため学校内にうがい室が設置されてうがいと乾布摩擦を取り入れて、教室では空気洗浄機を設置した。

社会科の教科書でも掲載されている活性炭入りのマスクで塩浜地区の小学生が通学した。

塩浜小学校と三浜小学校の児童は体力測定で四日市市内の中で下位であった。

塩浜小学校ではスモッグに包まれて校庭・教室に悪臭が充満して目からポロポロ涙が出て児童は校庭に避難するなど戦争中の空襲警報を再現する生き地獄だった。

公害による環境悪化から逃れるために、塩浜中学校と四日市商業高等学校の定時制課程(富田地区移転後は四日市北高等学校に改称、現在の三重県立北星高等学校)が移転した。

また、乳児も健康対策から空気が綺麗な四日市市郊外に避難した。

1967年(昭和42年)9月に公害病認定患者9人がコンビナート6社を相手に提訴。

公害が発生したのは四日市市全体ではなく特に酷い公害の被害を受けた第1コンビナート周辺の塩浜地区(塩浜小学校区・三浜小学校区)から公害の拡大で浜田地区(浜田小学校区)・三重郡楠町(現在の楠地区)第2コンビナート周辺で被害を受けた納屋地区(納屋小学校区)・東橋北地区(東橋北小学校区)を中心とする四日市市南部の臨海地域であり、四日市市北部と西部は公害で汚染されず喘息患者が少なかった。

日本社会党や日本共産党など革新勢力が自由民主党政権の保守勢力による高度経済成長が公害を招いたと公害問題に取り組み、また塩浜地区出身の前川辰男市議が四日市公害の問題に熱心に取り組んだが、塩浜地区以外の四日市市議会議員は当初他人事のように思っていた。

公害が他の地区の拡大したことで四日市市議会でも公害の重要さが他地区の市議の間でも問題視された。

日本社会党所属の前川辰男市議は弁護士と相談した結果、塩浜地区の患者と四日市公害訴訟を津地方裁判所に提訴、原告全員が揃ったのは、記念撮影をした場面の1回であり、病気による欠席が頻繁にあったことや原告の1人であった主婦が34才の若さで病死したことで全員が揃わなかった。

日本社会党は革新政党として公害問題に取り組み「四日市ぜんそくを解決した社会党」と革新政党としての実績を宣伝して、支持者の獲得活動をした。34才で病死した原告の主婦には娘がいた。

しかし、高校に進学する事が母親の公害病死後に経済的に貧困家庭となり、やむおえず家事手伝いとなり高校通学が困難となった。

その事情を知った日本社会党に所属していた女性の四日市市議は、四日市市の日本社会党に支援活動を呼びかけて奨学金として高校進学が可能となり、感動物語として新聞記事となった。