四日市ぜんそく3 | 化学物質過敏症 runのブログ

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・公害被害 [編集]街には悪臭が広がり、伊勢湾では汚染された魚が獲れるようになり、四日市市内である(塩浜地区・富田地区・富洲原地区)の漁村では漁業が衰退した。

工場に最寄りの塩浜地区では、(ばい煙・騒音)などの環境問題を四日市市に訴え、「公害対策委員会」が発足したが、四日市コンビナートは規模を大きくする一方だった。

それにより住民の生活環境はさらに悪化して、塩浜地区では四日市市による調査世帯の(約40パーセント)が何らかの症状を訴えており、中でも(アレルギー症状疾患・心臓病・慢性気管支炎)などの症状が多かった。

(塩浜地区)が有病世帯比率が最多であった。

次に多かった地区は(海蔵地区)の38パーセントであり、以下四日市市の調査では、(三浜地区)→(浜田地区)→(東橋北地区)→(日永地区)→(納屋地区)の順番で有病者が多かった。

1964年(昭和39年)に塩浜地区に在住する62歳の男性が、石原産業を退職後に気管支喘息を発病して、塩浜病院に入院していた。

1964年(昭和39年)3月31日から三日間の期間内に、猛烈なスモッグが塩浜の町を襲っている最中に1964年(昭和39年)4月2日に肺気腫で死亡した。

男性は主治医に「死後、自身の身体を解剖して、病気の原因を調査してほしい」との遺言を残して息を引き取った。

「産業医学研究所」のスタッフと吉田克己教授が解剖した結果、山口県宇部市で開催された(大気汚染協議会)で「四日市公害」による最初の死亡例として報告された。

平田佐矩四日市市長は四日市コンビナートの誘致による重工業化政策によって四日市市(四日市地域)が脅威の経済発展をした事に自信があり、日本横断運河の建設などの大型公共事業を推進していたが、男性の葬儀に四日市市長として参列をした際に、塩浜地区民から「平田佐矩市長あんたが殺したんや」と責任を追及された事で、塩浜地区民への罪悪感を持つようになった。

1967年(昭和42年)10月26日には塩浜中学校3年生の女子生徒が、東京への修学旅行に行く事で「塩浜よりきれいな空気が吸える」と楽しみにしていた修学旅行の直前に喘息による心臓発作で15才の若さで病死した事で、1500人の四日市市民によって大規模な追悼集会が開かれて「彼女が死んだなんて言うな殺されたのだ」のプラカードが掲げられた。

さらに公害死者の最年少記録を更新した事と、塩浜地区以外の地区となる四日市市立海蔵小学校の小学校1年生(7歳)の男子が1970年(昭和45年)11月5日に病院で病死した事で、三重県と四日市市と企業が「ぜんそくで死ぬのは高齢者で子供が死ぬことはない大丈夫と言っていたのに、死んだじゃないか」と公害病患者の子供たちの不安が高まり、四日市市内の母親たちは、空気のきれいな四日市市西部にぜんそく児童の養護学校の建設を三重県に要求することにした。

海蔵小学校2名、中部西小学校1名、塩浜中学校1名の「教え子たちの追悼集会」を昭和47年(1972年)9月11日の四日市公害の判決後に「三重県教職員組合三四支部」が催した。

さらに四日市公害裁判勝訴(昭和47年)1972年7月の2カ月後に、岡田克也議員の後輩にあたる中部西小学校の4年生(9歳)の女子が昭和47年(1972年)9月2日に「2学期になったら女の子同士一緒の班グループになってもう一度国語係になりたい」と記した日記を前月の8月に書き、転地療法の効果もなくて病死をした。

1966年(昭和41年)7月10日に(納屋地区)の76歳になる男性が「死ねば薬もいらずに楽になれる」と遺書を残して自殺をした。

1966年(昭和41年)7月14日「四日市公害対策協議会」によって自殺した男性の追悼集会が開催されて、追悼集会でプラカードを持って行進したり、四日市市議会に傍聴して公害を訴えていた男性が、1965年(昭和40年)に発足した「四日市公害患者を守る会」の副会長を務めていた。

公害と戦う四日市市民の中心となっていたが、60才になる副会長であった原告の男性が1967年(昭和42年)6月に加害者の企業への怒りや公害対策や取締りをしない四日市市へは「平田佐矩市長が四日市が経済発展をするためにコンビナートが必要と嘘をついた」と不満を記した日記と「九鬼(九鬼喜久男四日市市長)喘息やってみろ」と四日市市長を恨む遺書を残して喘息を苦にして自殺するなど、ついに公害での死者も出た。