・原因
水俣病はメチル水銀による中毒性の神経系疾患である。
メチル水銀中毒のうち、環境汚染の関与が認められるものをとくに水俣病と呼ぶとされ、環境汚染によってメチル水銀が魚介類等に蓄積し、それを摂取することによって発病したものを指す。
なお、有機水銀が合成された理論的メカニズムは、今なお完全に明らかになっていない(これは、製造工程の設計時点では水俣病の発生を事前に回避することが難しかったことを示している)。
水俣病の発見と裁判
原因究明への動き
Image:Minamata map illustrating Chisso factory effluent routes jp.png|thumb|250px|[[水俣湾とチッソ水俣工場の位置関係。
1932年から1958年まで、水俣工場から排水路を経由して百間港に廃水が流された。
その後は、1968年に水俣工場でのアセトアルデヒド生産が停止されるまで、排出先が水俣川河口に変更された。
]]
日本で水俣病が集団発生した例は過去に2回ある。
そのうちの一つは、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒドの生産に触媒として使用した無機水銀(硫酸水銀)に由来するメチル水銀である。
アセトアルデヒドは、アセチレンを希硫酸溶液に吹き込み、触媒下で水と反応させることにより生産される。
工場は触媒の反応過程で副生されたアルキル水銀化合物(主として塩化メチル水銀)を排水とし、特に1950年代から1960年代|60年代にかけて水俣湾(八代海)にほぼ未処理のまま多量に廃棄した。
そのため、魚にメチル水銀の生体濃縮が起こり、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等への被害が発生した。
1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、新潟水俣病と呼ばれる。
これは、阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が廃棄したメチル水銀による。
メチル水銀中毒が世界ではじめて報告されたのは1940年のイギリスである。
このときはアルキル水銀の農薬工場における、従業員の中毒例であった。
ハンターとラッセルによって、運動失調、構音障害、求心性視野狭窄がメチル水銀中毒の3つの主要な臨床症状とされたため、これをハンター・ラッセル症候群と呼ぶ。
1959年7月に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し、さらに化学工業界をあげて有機水銀説を攻撃した。
チッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的(理論的ではないことに注意)に証明されたのは1967年のことであったが、排水と水俣病との因果関係が証明されない限り工場に責任はないとする考えかたは、結果として大量の被害者を生みだし、地域社会はもとより、補償の増大など企業側にとっても重大な損害を生むもとになった。
原因の特定が困難となった要因としては次の事実もある。
それは、「水俣病の科学」でも指摘されていることであるが、チッソ水俣工場と同じ製法でアセトアルデヒドを製造していた工場は国内に7カ所、海外に20ヵ所以上あり、水銀を未処理で排出していた場所も他に存在した。
しかし、これほどの被害をひき起したのは水俣のみであり、かつ終戦後になってからである。
この事実が有機水銀起源説への化学工業会の猛反発を招き、発生メカニズムの特定をとことんまで遅らせることとなった。
チッソ水俣工場では、第二次世界大戦前からアセトアルデヒドの生産を行っていたにもかかわらず、なぜ1950年過ぎから有機水銀中毒が発生したのかは、長期にわたってその原因が不明とされてきた。
現在でも決定的な理論はまだ出現していない。
だが、生産量の増大ならびにチッソが1951年に行った生産方法の一部(助触媒)変更による水銀触媒のアルキル生成物の上昇が患者の大量発生に関係したと考えられている。
生産工程の変更は、アセトアルデヒド合成反応器内の硫酸水銀触媒の活性維持のために助触媒として使用していた二酸化マンガンを硫化鉄|硫化第二鉄に変更(近年の研究で二酸化マンガンが有機水銀の中間体の生成を抑える事が明らかになりつつある)したために、塩化メチル水銀などのアルキル水銀を多く発生させることとなり、それが排水として流されたと考えられている。
また、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド生産を開始したのは1932年からで、年間生産量は1954年までは209 - 9,159トンであったが、1950年代中頃から増産が続き、1956年には前年度の約1.5倍の15,919トンとなり、1960年には45,244トンで最高となった。
また、当時の生産設備は老朽化が進んでいたが、経費削減で更新を怠ったため、廃液の流出が年々加速度的に増えつつあったことが当時の薬剤購入量から示されている。
このように、この時期の生産量の急激な増大や、老朽設備運転による廃液量の増加に代表される利益至上主義による化学プラントプロセス管理の無視、助触媒の変更等が組み合わさった結果、大量のメチル水銀の生成につながったと考えられている。
最近の研究によると、工場から海域へ廃棄されたメチル水銀の量は0.6 - 6トンに達したと推定されている。
なお、自然の海域には無機水銀をメチル水銀に変換する細菌が存在するが、それらが生成するメチル水銀はごく微量であると熊本県は主張している(実際には、誰も研究しておらず、現在水俣湾の有機水銀濃度が増えたというデータは存在しないだけである)。
「水俣病発生当時、工場はメチル水銀を流していなかった」、「自然の海域で無機水銀から生成した有機水銀が水俣病の原因となった」などの主張に根拠はない。
そもそもの遠因として挙げられるのは、当時世界中で採用されていたアセチレン法アセトアルデヒド工法である。
これはあくまで「経験的」に効率よい水銀の安定回収ができる工法であり、有機水銀の中間体が出来ることは誰も気づかなかったのである。